854 …パラレル/消えた時間と会話の話
854 …パラレル/消えた時間と会話の話
「こんなこと、本当にありえるのかな」
社内カフェテリアの隅の隅、小さなテーブルを占める二人に、中庭を臨む窓から冷えた光が降り注ぐ。それは真っ白でツヤツヤとしたテーブルの天板に当たり、向き合う顔と顔を上から下からと照らしていた。
ハンジの化粧気のない肌やこの世にアイロンが存在することなど知らないような衣服、そしてリヴァイの鋭い眼差しや険しい表情に、その眩しさは、ちょっとそぐわない。
「実際あっただろう。俺たちのあいだで」
リヴァイの声を合図にしたのか、二人の真ん中にあったスマートフォンが、ふ、とディスプレイを黒に落とす。手を伸ばしてスリープを解除すると、LEDのライトが通話履歴の画面と、その一番上に記された文字を映し出した。
『着信 リヴァイ 通話時間8分54秒』
二日前の土曜、日付が変わって数時間経った深夜。リヴァイからの着信にハンジが応答し、約9分間通話したという記録だ。
リヴァイの端末にも発信の記録が残っており、二人の電話が確かにその日その時間、通じたことを示している。──はずなのだが。
「でもさあ、互いに何を話したか綺麗さっぱり忘れてるなんて……ちょっと信じられないよ」
不思議な巡り合わせがあるものだ。リヴァイとハンジは揃いも揃って、その夜の通話のことを一切覚えていなかったのだ。
「ねぇ、本当にすこっしも覚えてない? リヴァイから電話かけてきたんだよ? 話題に心当たりは?」
「ない」
「いくら酔ってたからって記憶まで失くすかなぁ。そもそも酔う? あなたが?」
リヴァイの額が疎ましげに歪む。自分でも疑いのこびりついた嫌な訊ね方だとは思うが、彼の忘却の理由が『泥酔』なのだから仕方がない。この男、ザルどころか枠とまで言われる体質の持ち主なのだ。忘れたフリをしていると考えるほうがまだ納得できる。
「ワインをダースで空けたからな」
「新手の自殺!? よく今日出社できたね!?」
どうやら泥酔の度合いが桁違いだったらしい。さすがにダースは嘘だろうが、リヴァイの嘘における誇張はいつだって真実の度合いをかろうじて霞ませる程度だ。相当飲んだことは間違いない。
ハンジの疑惑は瞬時に消え去ったが、すぐに別の疑問が首をもたげる。
「……そんな状態で、私に電話かけてきたの?」
「短縮に登録してるから、それでじゃねえか」
誰かと間違えたのでは、という一抹の不安も、リヴァイの答えの前に雲散した。真夜中の発信先がハンジだったという事実自体を、彼はおかしなことだと思っていないらしい。少しだけ、肩の力が抜ける。
「ああそう……。にしてもなんて飲み方してるんだよ、何か嫌なことでもあったわけ?」
リヴァイはすぐには答えなかった。ハンジの肩のあたりを眺めて、それからようやく口を開く。
「別に……そういう気分だったってだけだ。それよりお前こそ、宵っ張りのくせに都合よく爆睡してたもんだな」
ハンジの忘却の原因は『半覚醒状態』。要するに起き抜けで寝ぼけていたのだ。リヴァイよりはマシな理由だが、確かにいつもなら週末の夜は明け方まで起きていて、一週間で溜め込んだアーカイブを興味関心のまま漁っているのが常だ。
「本当は起きてたんじゃねぇのか。電話に出たはいいが、聞かれちゃマズイことでもしていて知らんフリしてる、とかな」
「なんだよ? 聞かれちゃマズイことって」
「金曜の夜、駅前でタクシーに乗っていただろう。男と」
「え……」
平静を騙る暇もなかった。ハンジの反応を見て、リヴァイの顔がわずかに気色ばむ。
「み、見てたの?」
「ああ、見てた。男に肩を抱かれて、なよっちく体を預けてたな」
心なしか鋭利に感じる物言いに羞恥を煽られ、頬が熱くなる。
「あーその、実はあの日……体調が悪くて、駅で倒れかけたんだ」
「……は?」
「自力で帰るのは無理だと判断した部下がタクシーに乗せてくれて、家の前まで付き添ってくれたんだよ」
「お前……」
いつのまにか立ち上がらんばかりに力の籠もったリヴァイを前に、ハンジは賢明に笑顔をつくる。
「何が原因だ」
「あの……寝不足」
「ぁあ゛?」
「仕事が立て込んでて! ここ二週間くらい! 部下にも迷惑かけたしもう二度とないから!」
細まった眼の片方が、ピクリと目蓋を動かす。嘘に気づかれたかと冷や汗をかくが、リヴァイは浮いていた尻を落ち着けてため息をついた。
「……もう平気なのか」
「うん、帰ったら即爆睡して、土日もしっかり寝たから」
「そうか」
途端、視線が険をなくす。
共通の知人が縁で知り合っただけのハンジにまで、リヴァイはこうして、本気の怒りと心配を与えつづけてくれる。そういう面倒見の良さを持つ彼だから、たくさんの人間に慕われるのも当然だった。部下や上司、同僚や友人はもちろん、クライアント、友人の友人、近所の人、——酒の席でちょっとした諍いから助けてあげた、知らない女性なんかにまで。
グッ、と喉が塞がる。リヴァイの太腿に触れる嫋やかな指。細い肩を支える大きな手。受け取られた連絡先。何度も甦る光景から逃れようと根を詰めたばっかりに失態を犯して、真夜中の彼の求めまで袖にして。
(私は、嫉妬も上手くできないのか)
「俺も大概だが、お前よくそれで電話に応答できたな」
「不思議だよねぇ。リヴァイの着信にはお気に入りの曲を設定してるから、それで覚醒したのかも」
「……ほう」
「まあ、肝心の内容を覚えてないんじゃ意味がないんだけど」
結局振り出しに戻ってしまった。テーブルに突っ伏して唸ると、「潰れるぞ」と指がさりげなく眼鏡を抜き去っていく。
「そう気を落とすな。忘れちまったんなら重要な話じゃなかったんだろう」
「うん、そう思うべきだ……でもなぁ、どこに行っちゃったんだろう。8分54秒」
もしも。リヴァイが〝あの女性〟と言葉や文字を交わしたとして、彼女はその内容を逐一覚えているのだろう。
次に繋がる何かを期待して、彼の声を、言葉を、感情を反芻するのだろう。忘れたりなんかしないのだ、きっと。
結局のところ、ハンジは『リヴァイとのあいだに起きた何かを8分54秒分も失くしてしまった』という事実の裏に、『失った分だけ追いつかれるかもしれない』という怯えを抱えていた。高慢な恐怖だと呆れてしまう。
「ハンジ。たかだか9分程度の時間だ」
対してリヴァイは、消えた時間にそれ以上の意味を見いだしていなかった。慰めに徹した言葉が、所詮は『たかだか』、とるに足りない時間なのだとハンジの慢心を斬り捨てる。
「同じ状況で電話してみるか?」
「再現による想起かぁ。そこまでしてもらうのも悪いな」
「なら普通に飲むか。もう仕事も落ち着いたんだろう」
「それは……」
答えに詰まったタイミングで、リヴァイの指がテーブルをコツリと叩く。寝そべった顔の目の前で動いた、ひたすら違う性を感じる体の一部が、ハンジの胸にわだかまる妬心を諦めに変えていく。
「他に誘う人がいないってんなら、付き合うけど」
顔をひねり、彼を見上げて、からかいを含ませながら言う。
(あともう少しだけ、彼の〝とるに足りない〟時間が私に使われますように)
遠ざけるのが無理なら、ハンジにできるのはもう、そばにいて失くさないように努めることくらいなのだろう。
ぼんやりとした像が「いねぇよ」と答えるまでの数秒でさえ、縋るような気持ちを止められないのだから。
その週の末。飲み屋街で始まった夜のこと。
ほどよく酔ったハンジとリヴァイがホテルに雪崩れ込み翌朝まで過ごした8時間54分という空白については、——まあ〝とるに足らない〟時間だったので、二人以外知るよしもないのだった。
〈了〉
(初出 22/01/20)