ユアマイサンシャイン …転生/大家と男と待ち人と幸運の話 (※前)
ユアマイサンシャイン …転生/大家と男と待ち人と幸運の話 (※前)
かわいそうに。
ベリーが踊るポット越し、青鈍色の格子の向こう、日差しにまみれた煉瓦敷。そこに現れた男を見て、私はため息をつきながらそう思った。通りに面したキッチンの小窓は来訪者を観察するにはうってつけだ。このアパートの前に立つ人間ときたら、皆が皆、尋ね人の不在に肩を落とすことになるのだ。何度も見てきたからよく知っている。今日は特にタイミングが悪かったから、この男はいっそう自分の不幸を嘆くに違いなかった。
「あの子ならいないよ」
突然声をかけられた男は、それでもまったく驚くことなくこちらに目を向けた。格子を透かしてまっすぐに。距離はほんの二メートル。真上に登った太陽のせいで顔はよく見えなかったけれど、いつも訪ねてくる人たちに比べれば色白で、だからか黒い直毛が目立っていた。体躯は細めながら骨つきはしっかりしている。
この建物は窓が少ないから、昼間は明るい外に反するように部屋の中が暗くなる。男と違って薄闇にぼんやり浮かんでるんだろう自分の姿を思い浮かべながら、私は声を張り続けた。
「運が悪かったね、さっき出発したばかりなんだ」
「出発」
予想よりも低い声だ。威圧は感じない。
「行き先は」
「さぁねえ……今度はどこって言ってたかな。南のほうだとか聞いたけど」
「いつ戻る」
「わかんないよ、決まってないんだって。いつもそうなんだ。数ヶ月とか数週間とか、三日のときもあったけど、戻ってきたと思ったらまたバタバタと出てくんだから。忙しないったらないよ」
「そうか」
波のない返答だった。何かをたくさん含んでいそうで、なのに奥の奥まで静かな感じ。
ここに来る人間は誰も彼も、多かれ少なかれ〝あの子〟に似ている部分を持っていたけれど、男はそうではないらしい。疑問の形をとりながら跳ねない語尾だとか、「さっき出発したばかり」だと教えたのに焦りもしない様子だとか、映画でギャングのボスが敵を脅すときに見せるような、堂々とした立ち姿だとか。
徐々に見えてきたものものに、突然寒気を覚える。だてに大家をやってるわけじゃない。狭い田舎町だけど変な店子のおかげで妙な人間と顔を合わせる機会はたくさんあった。この男は今までと違う。
手が震えた。滑らせた包丁の両脇で、等分になれなかった野菜がコロリと倒れる。
「何の用だったんだい? 急ぎなら取りつぐけど」
「できるのか」
「私が直接じゃないけどね。今のアンタみたいに何度も何度もすれ違って、とうとうあの子専属の連絡係になっちゃった不幸な人間がいるのさ」
「……想像がつく」
——あーらら。
私は一瞬だけ、慎重に考え込んだ。そして不意に生まれた柔らかい空気が消えないうちに、包丁を置いて男を見据えた。
「アンタ、こっちに来な。ほら、そこから入っておいで」
手招く動きに、ギャングのボスの脚は素直に近づいてきた。
そうしてすぐそばの裏口の前に立ち、開けっぱなしの木戸に手を添え、頭、肩、体、足と、極めて紳士な動きで全身を現す。
清潔な身なりの端々には、それでも長い旅を示す疲れがあった。最低限の荷物を詰め込んだような小さなバックパックはすっかり糊も落ちている。ようやくまじまじと拝むことになった顔立ちは、眉も目も口も重たげで、ちょっと神経質そうではあったけれど。険のない眼がきょろりと室内を動く様は、なるほど、どこかあの子に似ている。
「よかったら昼ご飯でもどうだい。話を聞かせとくれよ」
「身元確認か」
「ああそうさ。あの子とどういう関係なのか、まずはハッキリさせなくちゃね」
二、三と指示をすれば、男は言われたとおりに荷物を置き、洗面台で手を清め、鍋に水を溜めて湯を沸かし始めた。パスタを茹でたら、あとは簡単に味付けした野菜と作り置きのソースを使おう。
「このトマトもズッキーニもね、あとコレとコレも、今朝採れたばっかりなんだよ」
「そうか」
「あの子があちこちから種を持ってきて、とりあえずって感じで畑に蒔いたもんだから世話が大変でね。でもよく育ったよ」
太陽の光を溜めこむだけ溜めこんで、ツヤツヤと破かれる時を待っている赤や緑や黄色の実の数々。
カゴいっぱいのそれらを掲げて見せれば、男は「美味そうだ」と一言。
あーらら。結構わかりやすいじゃないか。
だてに大家をやってるわけじゃない。
待ち人乞い人尋ね人。どんな人間がどれだけ、どんな理由で、どんなふうにあの子を探して求めてきたか、知りたくもなかったのに知ってしまった人間がこの私だった。
「ほんと、アンタ運が悪かったね。もう少し早かったらあの子に会えたのに」
男はテーブルに落ちた水滴をさっと拭って、渡された皿とコップを並べ、ふと、小窓の外に目を向けた。
「いや」
家並みは白く、道は黄色く、空は青く。街を抜けて広がる地平はどこまでも緑色に。
太陽が平等に照らす世界でたった一点を探す眼をしながら、男はまた、柔らかく言ってみせた。
「待てるってのは、幸運なことだ」
「……あーらら、熱烈だね」
男が店子の一人になったのは、それから一時間後のことだった。あの子の比じゃないくらい掃除の手際が良かったから、三日だろうが数週間だろうが数ヶ月だろうが、このアパートはピカピカに輝いているはずだ。
あの子が帰ってきたときは、うんと豪勢な出迎えをしてやろう。
めでたし、めでたし。
〈了〉
(初出 22/08/12)