iI人ならどこまでも …原作/ずっとそこにいる、という話
iI人ならどこまでも …原作/ずっとそこにいる、という話
「壁の外よりもうんっと広い場所が、なんとこの壁内にあるんだけど、どこだか知ってる?」
首を限界まで曲げて空を仰いだ。血肉と塵芥を混ぜた濁りの色は、ここのところようやく薄くなった。今日などはポツポツと小さな雲を島にして、あとは大きな海が頭上を覆っている。
「空」
「惜しい! けど違う。もっと広い」
吹き荒んだ風には腐敗の臭いを感じた。どれだけ掃いたところで踏み潰された命の残骸は消えることなく、こうして地上に立つ人間に存在を主張しつづける。
体のすぐそばに死がある。転がっている。それから顔を背けようとして、初めて自分が生きていることを意識する。
昔ハンジに言われたことがある。『ここにはいない』というその不在を思う時にこそ、死者は死から逃れうるのではないか、と。わけがわからなかったから「わけわかんねぇなクソメガネ」と返すと、笑ってうやむやにされてしまった。
「どういう意味だよクソメガネ」と改めて問いかけて、これじゃあまるでアイツが生きているみたいだ、と気づく。
おかしな気分だった。日常のあらゆる場面に、もの物に、死んだやつらの姿が浮かぶ。
ナイフ。パン。水。雨。泥。煙。まずい酒。薄いスープ。よれたシャツ。汚れたブーツ。馬蹄の音。叫び声。笑顔。地面。空。
「正解は、——人間の頭の中さ!」
やかましいと感じたことは覚えているのに、やかましいと感じたはずの声を思い出せない。それでいて、与えられたものや、断っても無理矢理押しつけられたものについては無駄に覚えていたりする。知らない世界を無尽蔵に思い描いて、それを平気で壊す算段だってして、なのに無になってしまったものをもう一度触れられるまで甦らせたいだなんて願う。
人間ってのは勝手で馬鹿だ。もちろん俺も例に漏れない。
「空よりも広い場所が、リヴァイ、君の頭の中にもあるんだよ」
そうなんだろうな、と、今なら思う。家から家をつなぐ坂道が一生をかけても登りきれない山に見えたり、毎夜横たわるベッドが永遠に沈んでいきそうなほど深い器に感じたり。あの歪んだ地平線のずっとずっと先で、ハンジが笑っているような気がしたりする。
「リヴァイさん、そろそろ帰りませんか」
横に立つ男が言う。ハンドルを握れば尋ねる手間もなく俺を動かせるはずなのに、この律儀な気づかいはいつまで経ってもなくなることがない。ハンジならきっと、自分が行きたい所に俺を連れて行っただろう。
「もう少し先に進めねぇか」
「ですが、道も悪いですし……」
道なんて言っても、辺りに広がるのは大きさも疎らな石や土塊が転がった、ちっとも親切じゃないうねる大地で、もしこの両足が正常に動いたとしても歩くには相当苦労するだろうものだった。
行きたいところがあるわけじゃない。この脚がすぐにでもマトモにならねぇかと願うのだって、他人に迷惑をかけたくないという体裁が第一だ。それでも、頭蓋骨の裏にべったりと張り付いているかのように、先を見ずにはいられない。
俺は一体、いつになれば、どこまで行けるっていうんだ?
「思い描けばどこまでも行けるよ」
「詭弁だな。知ってることしか頭ん中に描けねぇんだ、なら知ってる場所にしか行けねぇだろう」
「〝知る〟という行為は〝知らない〟ものを増やすんだよ、リヴァイ。知れば知るほど、君の頭の中には未知の世界を描く道具が増えていく」
わけわかんねぇこと言うな。ハンジはまた笑って、けれど今度は誤魔化したりしなかった。誤魔化してくれなかった。
「ねえ、せっかく調査兵団にいるんだ。どうせなら壁の中で一生を過ごす人たちより、ほんの少し広い世界を求めてみないかい?」
深く息を吐き、吸う。
「……悪かった。連れて帰ってくれ」
隣に向かってそう告げると、男がホッとしたように肩を緩めた。
車椅子がゆっくりと動き始める。もどかしいほどの旋回に、地平線が流れて消えていく。
俺がその先を知らない、途方もない線だ。
例えば。
どうにかあそこまで行って、後ろを振り返って、ここまではお前がいない、ということを確かめたとする。それから前を向いて、また新しい地平線を目指したなら。
もしかしたら。いや、まさか。
そんな問答を繰り返しながら、腐った地上を延々と進んで、知り続けて。広がった世界を前にして、余計にここにはいないお前のことを考えたとしたら。
なあ。それはお前を、どうしようもない不在から逃すことになるのか。
逸る背中から少し離れて、周囲の危険を取り除きながらその背中に続く役目は俺のもんだった。望まずとも、望むことすら必要とさせず、ずっとそうだった。
だからなのか。頭の中で過去が喚く。正しい記憶かもわからないくせに、そいつは俺をせっついてやまない。
「行こう」と。
生きる理由なんて、それで充分なのかもしれない。
〈了〉
(初出 22/01/11)