TURN RED …原作/二人で知る未知の季節の話
TURN RED …原作/二人で知る未知の季節の話
季節は三つの要素であらわれる。
光と音と温度。
地下から来て学んだことの一つだ。
長いこと暗がりを生きた体は、地上の季節を渡り歩くのに万全であるとはまだ言いがたかった。今日は特にまぶしく暑く、ついでに喧しい。膿んだ脳と汗に汚れた体で飢えたガキのように陰を探してさまよう俺の背後に、虫や鳥の声にまぎれて、足音がひとつ。
ボロ傘みたいな葉を広げる木の下に潜り込み、振り返れば
「太陽は嫌い?」
案の定の人物。細めた視界を無理やり開こうとでもいうのか、ハンジが不躾な距離でこちらを覗き込んでいた。ぴょんぴょん跳ね出した髪や湿ったこめかみ、迫りくる人ひとりの体温が、ただでさえ暑苦しい肺をさらに狭くする。
「別に嫌いじゃねぇ。離れろ」
「本当に? いつも日向を避けて歩いてるだろ」
「癖みてぇなもんだ。むしろ気に入っている」
「それならよかった」
「なぜそんなことを聞く」
「いやあ、これから大丈夫なのかなと思って」
これから、の部分でひらりと踊った手は、おそらく空を示していた。人がモノにするのにもずいぶん苦労している地面の上より、ずっとずっとひらけているくせに、この馬鹿でかい空間はこれからもっと熱を溜めて温度を上げていくんだそうだ。夏がくる、とはそういうことらしい。
ふ、と頬に風を感じる。
「——オイ、いいかげん離れろ」
「暑い?」
「見りゃわかんだろうが」
「……そうだね」
レンズの向こう、動きのない眼が、なのにじっと俺の顔を舐める。
「肌が赤くなってるよ」
「だからどうした。お前も散々走り回ったあとだろう。時間をもっと有意義に使え」
暗に「構うな」と伝えたつもりだったが、伝わらないことは百も承知だった。表に出ない言葉をいちいち考える奴だったら今こうして話しかけてはこない。
ハンジは「うん、心配しなくてもちゃんと休むから」などと言って少し体を引き、それから視線をゆっくりと訓練場へ向けた。葉の群れを通ってきた太陽がその上半身にいろんな色の光と陰をまだらにかぶせていて、そんなのでも横顔の輪郭だけはハッキリ主張してくるものだから、なんだか眼がイカれそうになる。遠いものも近いものも、全部そばにあるような感覚。
持っていた水筒を煽り飲み、残りを頭からかぶる。飛沫が飛んだのかハンジが小さく何か言ったが、無視して俺も訓練場を眺める。日に照らされ白く輝くそこは、あまりにも輝きすぎて人が足を踏み入れるのを拒んでいるように見えた。戻るのが少し億劫になる。
「リヴァイってさ、肌が白いから赤くなると目立つよね」
ちっとも冷えない頭を愚鈍にまわして、また妙な事を言い出したハンジを見やる。シャツの襟で汗を拭い、ゆるんだ裾を直しもせず、ハンジは横顔で続ける。
「今日は特別暑い。だけど訓練の前まで君の肌の色に変化はなかった。運動量も君が難なくこなしている普段の訓練メニューと同じ。つまり気温や心拍数の上昇ではなく日焼けによって赤くなった可能性がある」
「あいにく暗くてジメジメして汚ねぇ場所で育ったからな」
「いや、日焼けによる炎症の程度は肌に含まれる色素の量で違ってくるんだ。だから赤くなるのも生来のものだよ」
「……そうか」
そうか、ともう一度呟く。俺と違ってたくさん陽を浴びて育ったんだろう色の頬に口角がゆるく食い込んでいて、ああこれは笑ってるのか、と遅れて気づいた。
「なにがおかしい」
「だって。あれだけ巨人相手に大立ち回りしてバカスカ酒飲んでも顔色ひとつ変えないリヴァイが、太陽には負けるだなんてさ」
「勝てるもんじゃねぇだろアレは」
顎で空を指し示す。光の線がほとばしる円。昼と夜のほんのわずかなあいだにしか生身を見せない、馬鹿でかい空間を簡単に暖めて照らすもの。
「そりゃそうだ。でもそんなこと初めて知ったから」
ハンジの瞳に俺が映る。自分が〝そう〟だと思うものを、もしかしたら他人も〝そう〟思ってくれるかもしれない。ハンジはいつも、そういう根拠のない期待に満ちた眼をする。そういう眼で俺を見る。
「正直——楽しくって。あはは」
そういうところが、なぜか無性にイライラする。
楽しいってなんだよ、と問う前に、休憩終了の笛が鳴り響いていた。
**
部屋の外が騒がしい。まだ遠いその音に耳を傾け、嫌な予感に目元が歪む。反射のように息を潜めるがたぶん無駄だろうと同時に思った。
「着いたぞ。リヴァイ、いるかー」
ノックと共に聞こえてきたのは男の声だった。隣の部屋の奴だ。声の震えから面白おかしい気分を必死でとどめているんだろうこともすぐに知れた。無視してやろうかという苛立ちも、さらに聞こえてきた声に散らされる。
「ありがとう、ここまででいいよ。あとは自分で話すから」
「いやいや、ちゃんと会えるまで案内しないとな……大事な仲間の逢引なんだし」
「合い挽き? なんで肉?」
大股で扉に寄り一気に開け放つと、間抜けな顔が二つ並んでいた。
「うわ、びっくりした」
「やあリヴァイ、もしかして寝てた?」
「何をしている」
問いながら睨みつければ、男のほうは苦笑いしてすぐに隣の部屋へ歩き出した。「邪魔者は消えるぜ」などとほざいていたがこの際見逃す。よっぽどデカい問題が、呑気に手など振りながらまだ目の前にあった。
「送ってくれてありがとう!」
「送る?」
「ああうん。リヴァイに用があったんだけど、男性棟を私一人でうろつくのもどうかと思ってね。彼が君の隣の部屋だって言うから『連れてってくれないか』って頼んだんだ」
「……とりあえず入れ」
「いやでもすぐ済む用事だし、」
「入れ」
言葉は存外強く響いたらしく、ハンジは一瞬肩をすくめ、それから少しだけ視線を下げると部屋に足を踏み入れた。外には夜に飲まれた廊下が静かに伸びていたが、その実、すぐ近くからこちらの様子を探ろうという気配が漏れ出ている。舌打ちを抑え、キョロキョロと室内を見渡すハンジに声をかける。
「飯は食ったのか」
「え、うん。ちょうど食べてる時にさっきの彼に声をかけたんだ。……扉閉めないの?」
「このままでいい」
今はまだ、とは言わない。ハンジは軽く頷き「そうそうそれで」とすぐに本題を話しはじめた。
「昼間の訓練の時の、日焼けのことなんだけど」
「気になるから調べさせろとでも言う気か」
「それはまた今度頼むとして。日焼けって一応は火傷扱いになるから、ヒリヒリしたり赤みが残ってるならすぐに冷やしたほうがいいよ」
「……は、」
「って、伝えようと思ったんだけど」
ハンジが首を傾げた。媚びやおもねる仕草ではなく、低い位置にある俺の顔を覗き込むためのものだ。灯りを絞った部屋の中で陰影が妙に繊細に動く。視線が重なる——ようで重ならず、ハンジの意識は俺の頬や目元をなでている。
「昼間はあんなに赤かったのに、もう治った……みたいだね?」
「自分じゃ見えねぇよ」
「痛みや火照りがないなら大丈夫だと思う、うん。……じゃあ」
続きを聞く前に体が動いていた。開け放っていた扉のフチを後ろ手に掴み、足を一歩分横に滑らせる。ほとんど無意識だったことに自分で驚く。
出口と自分とをつなぐ線上に男が立ち塞がる瞬間を、けれど肝心のハンジは見ていなかった。どころかゴソゴソとポケットを探っている。
「こぼれてー…ないな! はい、コレ」
パッと顔を上げ、取り出したものを渡してくる。手のひらに少し余る程度の薬瓶で、中には透明の液体が入っていた。瓶を傾けるとトロリと揺らつく。精製された油のようだ。
「なんだこれは」
「私が調合した日焼け止め」
「日焼け止め……」
予想外、そして立て続けの答えに意表をつかれる。
「調合? お前が?」
「安全性は保証するよ。私以外にも使ってる人はいるし。なんなら成分表も書こうか。まあもし使うなら念のためパッチテストしたほうがいいかも」
「これを渡すためにわざわざ来たってのか?」
「……だから、すぐに済むって言ったじゃないか」
ハンジがようやくバツの悪そうな顔をしたが、俺にしてみれば何もかもが遅かった。人の多い場所で男に向かって誤解されるような台詞を投げて、二人で連れ立ってこんなところまで来やがって。真実を知る人間が三人もいようと、誤りを信じる人間がそれ以上に多ければ意味がない。
夜が明けたころ、兵舎の一部に巣食うおしゃべり好きの奴らに一体どんな噂が広まっているかだなんて、コイツも隣の部屋の男も知りはしないのだろう。あるいは、気にも留めていないのか。
名前もわからない熱が、腹にゆっくりと落ちてくる。
「……」
「それ消炎作用もあるから日焼けしたあとにも使えるよ。ハイ、用は終わり。お邪魔しまし、」
横を通り抜けようとする体を咄嗟に片腕で制した。勢いに怯んだのか、ハンジは引き下がることもせずその場に立ち尽くす。顔の距離が近づいて、せわしない両眼がずっと見やすくなる。
「っ、なに?」
「まあ待て。まだ礼もしてねぇんだ、茶のひとつくらい飲んでいけよ」
「そろそろ消灯時間だけど」
「懲罰はくらわねぇ頃合いで帰してやる」
「帰してやるって、言い方がさぁ……」
「ハンジ」
間近にある肩が小さく跳ねた。おそるおそる傾く顔に、ことさら低い声で囁いてやる。
「どうにもまだ肌のあちこちがヒリつくようだ……自分じゃよくわからねぇから、お前がコイツを塗ってくれねぇか」
「え?」
眉が情けなく下がったのを見て、それ以上の愚考はすぐに消え失せた。
「と、俺が言い出したらどうするつもりだったんだ、お前」
「はあ? なんだよもう。心配したじゃないか」
こういう奴だ。少しくらい誠実にあったところで俺を玉無しのヘタレだと蔑む人間もいないだろう。
今度こそ、機能していなかった扉に手をかける。暗くて暑くて静かな喧騒から、どうにも熱くて喧しいコイツを切り離し、俺のそばに貼り付けるために。眩しく光る眼を見ながら、もどかしいほどゆっくりと。
「……私、君とだったら夜通し喋れるかもしれないよ」
「そうか」
ハンジは見たことのない表情をしていた。俺はそれに、はじめての感情を覚えた。
「楽しみだな」
**
「違うって、俺は部屋まで連れてっただけ。……誰のって」
ニヤついた視線を感じたがことさら反応もしなかった。意味深な動作で下卑た笑いを誘うのもそろそろ飽きていたところで、俺が何をせずとも、どうせ疑惑のもう一人が勝手に関心を煽るだろうという予想もあった。
「てっきりすぐ帰ると思ったら、仲良く話しだしてさ……部屋に篭っちゃったんだ」
「あ、オイ」
噂をすれば。立体機動訓練用の木々の合間をぬって、ハンジがあくびをしながら歩いてきた。目尻の涙を雑に拭ったところでようやく俺の存在に気付いたのか、とたんに顔が渋いものになる。くるりと踵を返した背中に何食わぬ顔で「ハンジ」と呼びかけた。そこで素直に止まってしまうところがどこまでもコイツだ。
「……なんだよ」
肩越しの返答はいやに固い。
「飛翔地点はこっちだぞ」
「今日は別のところから飛ぶ」
「なぜ」
髪の隙間から覗く、それはそれは赤い耳を眺めながら、のんびりとした足取りで近づいていく。
「……まともに飛べないだろうから」
背後までたどり着き、ちょっと動けば触れてしまう距離で、緊張した肩や首筋にじっと眼差しを注ぐ。ただでさえ暑苦しい肺は、いつだっていきなり、主にたった一人のせいで狭くなる。ここは特に危険な位置だ。それでも、誰かに譲る気はない。
「俺の視線は嫌いか?」
「べ、つに、嫌いじゃないけど」
「今日はずっと避けてる」
「それは昨日リヴァイが……」
色づいた顔で唇を噛む姿は、さて、野次馬の脳内にどんな像をかたどらせるだろう。実際は指の一本も触れずに一晩中口説きまわしただけなのだが、ただ言葉と視線を交わすだけの時間は、俺たちに存外たくさんのことをもたらした。
「……肌が赤くなってるな」
耳元で昨日と同じ指摘をしてやれば、どこの時点のことを思い出したのか、ハンジが悔しそうに俺を睨みつける。
「お前は感情が肌に出やすいらしい。……昨日も俺の一言でコロコロと」
「っだーもうリヴァイ! いいかげんにしろ!」
怒号がけたたましく飛び立って、森を四方に抜けていった。一瞬の静寂の後、生き物の声が呼応するように大きくなる。汗が背中を伝う。ハンジの肌や眼は、ずっと網膜を焼いてやまない。
じわ、と色づいていく肌に、ああ、違う季節が来たのだと俺は思った。
〈了〉
(初出 22/04/18)