犬の名前は成れの果て …転生/名前をたくさん持つ犬と彷徨う男の話
犬の名前は成れの果て …転生/名前をたくさん持つ犬と彷徨う男の話
史上長らく人類の友とはいえ、獣は獣、それなりに忌避も嫌悪もあるだろうとは思っていたが、犬はどこに行っても優しく歓迎された。
犬自身の性質もあったんだろう。自分を撫でくりまわしてくれそうな相手と見るや誰彼構わず突撃し、茶色い毛の全身を尾から頭までくねらせ、ついには地面に寝転んで腹を見せる始末。少しばかり動きに乏しい顔を持つ俺とは正反対だ。
「アンタの犬かい?」
「ああ」
「名前は?」
俺の名前を訊ねたわけじゃないんだろう。分厚くてこんがりと日焼けした手のひらを持つじいさんの視線は、ひたすら犬に注がれている。
「クロ」
今は、とは言わない。
「クロ? 茶色いのに?」
昨日道行きのクローバー畑で大暴れして、試しに「クローバー」と呼んだら駆け寄ってきたのでそのままになって、今日にかけてちゃんと呼ぶのが面倒になった末にクロになった、とは言わない。俺は無言で頷いた。
「それで、アンタら向こうに渡りたいのか?」
ふ、と顎向けられた対岸に、さて、俺は本当にあそこに行きたいのかと自問する。辿り着いたところで何が見つかるともわからない。今度は頷かない俺を見て、じいさんも口を閉じる。
が、犬は違った。それまで塩気の混じった地面でごろんごろんしてたくせに、急に体を捻って起き上がると、じいさんの脇をすり抜けて桟橋から船へと渡してあった板に飛び乗った。
呆気に取られる俺たちをおいて船に降り立ち振り返った犬は、それはそれは得意げな顔をしていた。じいさんはくたびれた帽子の下に指を突っ込んで頭をかき、「積荷を下ろすのを手伝うなら」と俺に言った。
「海が好きなのか?」
くだける波に向かってばくばくと口を開閉する犬に、地元の漁師たちが笑いながら声をかける。俺はボソリと言った。
「なんでも好きだ。クラゲとか、ナマコとか」
「本当になんでもだな。オーイお嬢ちゃん、魚は好きか?」
犬が嬉しそうに駆け寄ってきたので、やっぱり日焼けで真っ黒な顔の男たちと円になって、獲れたてだという魚介をその場で焼いた。骨を除いて味付けもなしに取り分けた魚を口の前に持っていってやると、犬はそれはそれは美味そうに食らい尽くして、また漁師の男たちを喜ばせた。
別れ際には「猫」と呼ばれていた。
れっきとした犬だ。
教会の鐘が聞こえる町で、犬はガキどもに捕捉された。片手じゃ足りない数の小さな体が黄色い声とともにどうっと押し寄せてきて、思わず犬を背に身構えたところで厚みのある女の大声が飛んでくる。
「こらっ! ダメ!」
小さいが手入れの行き届いた家の窓から、頬骨ばかりがつやつやと丸いばあさんが顔を出していた。ガキどもはキャアと鳴いて素直に散っていく。
てっきりそのまま追っ払われるかと思いきや、ばあさんに手招きされて俺と犬はしずしずと近寄っていった。
「旅の人?」
頷く。
「その犬はアンタのだね。ワクチンは打ったの?」
「今年の分は」
目の前の顔が途端にぐしゃりと崩れて、おおヨシヨシ、なんて猫撫で声をだす。犬も犬ですぐに口角をあげて、尻尾をぶん回して俺の脚にぶつけ始めた。
「かわいいね。名前はなんていうんだい?」
「バチバチデンキイヌ」
「なんだって?」
「キーヌだ」
ここのところやたらと静電気をまとって俺の手を弾いていた犬は、外に出てきたばあさんの愛撫にすっかりご満悦で、昼飯の残りの牛肉までもらっていた。
「お祈りして行ったら?」
ばあさんの勧めに従って、犬と並んで教会を見上げる。手順を踏んで祈れば、犬と歩いた道の先、俺は何に会えるのか。
ガキどもがチラホラと戻ってきて犬を撫ではじめた。犬は自分より小さな奴らにはおとなしい。
「いいこだね。いいこ」
小さな手指が毛のあいだに埋まり、地肌に触れて、生まれて数年の体にもう醸成されているらしい優しさを塗布する。目を細める犬に、ガキの一人が「ちゃんとお祈りしてるから、えらい名前をつけてあげる」とささやいた。
「よはん。ヨハンね」
「こいつはメスだ、一応」
山間の道でヤギに出会した。飼われているものらしい。近くに人家があるのだろう。
犬は案の定嬉しそうに近づいて、白いそいつの周りをぐるぐると歩き、あちこちの匂いを嗅いだかと思うと、ヤギと並んでヤギになったみたいな顔をする。
「いちいちちょっかいかけるな。行くぞ」
ええ? みたいに首を傾げる犬と見つめあっていると、道の向こうから飼い主らしい男が歩いてきて「うちのやつが悪いね」と話しかけてきた。ヤギを連れて帰ろうとする男になぜか犬も続こうとして、俺が連れ戻して、大笑いした男に家へと招かれて、結局一宿一飯の世話になった。
「お前は今日からヤギだ」
俺が渋い顔で犬に向かってそう言うと、男と男の家族は「山越えには頼もしい」と笑っていた。犬はたらふく飯を食べて、俺の脚のあいだで眠りについた。
「どこまで行くんだい」
「決めてない。一年を期限に戻って、また旅に出る」
「あてどなく彷徨ってるのかい?」
俺は犬を見る。犬も俺を見る。茶色い瞳に映る自分は何かを探している——いいや、何かを失くした顔をしている。
「さようなら、牛乳」
男の妻が愛おしげに犬を撫でて言った。また新しい名前をもらったらしい。
雨上がりの泥んこに飛び込んだ時はそのまま「どろんこ」と名をつけて、直後に洗ってキレイにした。植物の白い綿毛が鼻の頭についた時は「わたばな」と呼びつけて、少し目を離した隙にその白が全身に及んだので「わた」になった。犬は俺がどんな呼び方をしても反応した。口をぱっかり開けて駆け寄ってきて、顔中を舐め回して、また駆けていって、夜は必ず俺のそばで眠りについた。
犬は会う人間ごとにも名前をもらって、それぞれの声で呼ばれて、そのたびに正面から向き合っていた。そのどれもで嬉しそうだった。
稼ぐだけ稼いで、犬と旅に出る。街から町、山から野へ。犬が繋ぐ縁は膨大で、さらりと乾いていて、それが気楽だと思う反面、大きな欠乏は埋められない。
数週間が過ぎて、数ヶ月が過ぎて、こんな生活をもう数年も続けていて、それでも俺は、自分が何を失くしたのか知らなかった。
一年の期限が迫るころ、久しぶりに大きな街に辿り着いた。行き交う人間はいちいちバックパッカーと犬なんてありふれた題材に目を止めるほど暇でもなく、俺たちは大きな流れの背景になる。公園のベンチに座り、犬とサンドイッチを分け合う。ビルに切り取られた青い空を、飛行機が突っ切っていく。
リードを握ったまま、俺は少しだけ目を閉じた。何千枚の写真を一つに重ねたような像が瞼の裏に一瞬だけ映って、すぐに消えてしまう。光速で浮かんでは霞みがかる顔のなか、ほんの少しだけはっきりした輪郭は、きっと長くそばにあった証拠なのだろう。誰の、とも、いつの、ともわからないのに、記憶があるのは確かだった。視界を閉じれば、望めば何度だって会える。そして俺は、そいつの名前も知らない。
「……?」
目を開けたら犬がいなくなっていた。立ち上がって周りを見回し、歩き出す。犬を呼ぼうとして、飲み込み、走り、見回し、口を開け。ほとんど息だけの声を出す。
「ハンジ」
初めて犬に会った時、無意識に口からこぼれた音は、それきり紡げていない。
恐ろしさを感じたからだ。呼んでも答えない。答えてくれない。二度と、手に入らない。由来もわからぬ恐怖を。
いったい何を悟ったのか、まだ小さかった犬は、静かな瞳で俺を見上げていた。
不意に車のブレーキの音がして、冷たい過去から我にかえる。冷や汗に塗れた体を抱え、震える脚を動かす。
腹に力を込め、公園の外にできた人だかりに向かって叫んでいた。
「——ハンジ!」
「あの、それってもしかしてこの子の名前?」
背後から声をかけられ、体がつんのめる。かろうじて耐えた足を踏みなおし、何か考える前に振り向いた。
きらきら光る茶色い瞳。好奇心のままに鼻をひくつかせ、自分を愛するものにも、そうでないものにも、柔く端を上げる口。
紛うことなき犬と、犬と見紛う知らない女がそこにいた。
知らないはずなのに、女が呼び声に応えたことを俺は少しも疑問に思わなかった。
足元で犬が鳴く。屈んで全身を確かめたが、全然元気だった。
その背を撫でながら、女もまた、身を屈めて俺たちに近づく。
「この子、私のところにまっすぐやって来たんだよ。おんなじ名前だったんだね」
見合った眼が、同時に俺を捉える。
「それで、貴方の名前は?」
乾いた唇でどうにか象った名を、女が。ハンジが。愛おしそうになぞった。
「初めまして。——会えて嬉しいよ、リヴァイ」
〈了〉
(初出 24/02/23)