意味を問う話 …原作/機能不全な男同士の話
意味を問う話 …原作/機能不全な男同士の話
目が合ってから逸れるまでのあいだに、何かを窺うように瞼が動く。
ハンジと新しい関係になってから今までで、増えた習慣といえばそれくらいだ。
エルヴィンとミケには早々に打ち明けた。役職柄四人で行動することが多く、余計な詮索を受けるくらいならと思ったのもあるが、何より報告の義務があると思ったのだ。二人とハンジの付き合いは、俺とのそれよりも倍は長かった。
「そうか」
エルヴィンはそれだけだった。口を噤んでしばらくは言葉を探すようにじっとしていたが、結局何も加えることなくミケを見て、あとを引き継いだミケも「よかったな」と頷いただけだった。照れと、どんな反応が返ってくるのかという緊張でガラにもなく熱くなっていた俺の頭は、(癪なことに)随分高い所からこちらを見下ろす奴らの顔ですぐにその温度を下げることになった。なんてことはない。二人はとっくに知っていたのだ。
「そうだねえ、あの二人はまあ、察してたんじゃないかな」
「そういうことは先に言いやがれ」
「やだよ。恥ずかしいだろ」
「俺が恥ずかしいのはいいのか」と尖りそうになった声は、ハンジを見た瞬間に口の中で潰れてしまった。掌二枚じゃ到底隠せない範囲の肌を叩かれたように染めあげて、奴はどうしてかむっつりと床板の木目を睨みつけていたのだ。
「クソメガネ……なんだそのツラは。見せろ」
「うるさいこっち来るな。あああもう、バレてるだろうなって思ってたけど! いざ言われると……くそっ! 明らさまで悪かったね!」
「誰に謝ってんだ」
ベッドの上で暴れだしたハンジの腕を抑えながら、俺にしては珍しく埃が立つよりも別のことで頭がいっぱいになる。
ちょっと待て。こいつ今〝明らさま〟と言わなかったか?
ハンジと俺が、舌打ちですら吹き飛ぶほどおぼつかない仲間の線を越えたのはほんの三日前のことだ。と言っても越えたもんはあくまで……なんというか、感覚的な線だけで、別に体のあちこちに触るようなことをしたわけじゃない。
業務連絡の合間に「疲れたね」なんて一言ぽっちをほざいて、それだけでもういつもどおりに戻って去ろうとしたハンジを引き止めて、余計な台詞を発してしまった。それだけだ。
——先に線を跨いだのは、つまり俺だった。
そうしようと思って起きた結果じゃない。無意識だった。ハンジが振り返った拍子にこの間抜けな口からつるりと落としちまったことは、本当は奴を含めて誰に伝える気もないものだった。どころか、俺はその台詞が音になるまで自分がそんなことを望んでいることさえ知らなかった。幸か不幸か活発に動くことのない表情筋の下で、死にかけの老人が過去を視るように想い続けているだけで、それだけで満足なのだと。随分長いこと、俺はそう思いこんでいたのだ。
こうしてぼろぼろと欲望を零してしまった今となっては、「己を過信していた」というクソみたいな事実だけが残っている。零した先で拾われた幸運については、まあ別の話としてだ。
とにかく、あれから三日しか経っていない。よく考えてみりゃエルヴィンとミケが俺たちの関係を察するには短すぎる。まさか一日に五回はあるかないかの目配せだけですべて明らかになったわけじゃないだろう。
体の動きから情報を漏らさない術はガキの頃から身に染み付いたものだったし、公の場でハンジと接するとき、俺はその術を最大限使っていたつもりだった。そんなものを間違いなくつかむなんて、もう視線に色や形がなきゃ無理な話じゃねえのか。
そこで、最悪の事態に思い当たる。
もしも。ずっと音もなくそこにあると思っていたこの感情が、実はむざむざと呼吸を繰り返していたとしたら。そしてエルヴィンやミケや、当のハンジにまで息を吹きかけていたのだとしたら。過信どころの話ではない。俺は自分の姿かたちすら見誤っていた間抜け野郎だということになる。
「言っとくけど、私のことだからね」
思考がぐるぐると旋回をはじめた絶妙な頃合で、顔を隠したハンジのくぐもった声がそれを断ち切った。
「てっきりリヴァイにもバレてると思ってたんだけど」
「……何の話だ?」
「だから、君の前だと私、その……自分でもわかるくらい、わかりやすかったんだよ。そりゃエルヴィンもミケもとっくに気付いてただろうさ。でも何も言わないでくれたんだ」
私がリヴァイを、好きでいることに。
――癪に触る話じゃねえか。
結果を手にした後にその皮を剥いでみれば、一枚ごとに初めて知ることばかり。
俺は自分がこいつに向けるもんにも、こいつが自分に向けるもんにもまったくもって気付かなかったと、そういうことだ。
信じられないほどの己の愚鈍と、溶けた鉄の雫のように腹を焼いていく歓喜とを秤にかけて、存外単純な俺はまた頭を熱くしたのだった。
目が合ってから逸れるまでのあいだに、何かを窺うように瞼が動く。ハンジと新しい関係になってから今までで、増えた習慣といえばそれくらいだった。
ひくりと動いた薄い皮膚は、顔を近づければ茶色い目ん玉を半分まで覆い、その先まで行くと艶々とした光を全て隠してしまった。紙一枚の隙間の先に迫るぴたりと閉じた唇よりも、開かない両目に意識を持って行かれる。瞼の下にあるのは、〝仲間〟の距離のなかでどれだけ近づこうが、ハンジがかけている汚れた眼鏡の前では拝めもしないものだ。俺はその価値を知っている。
「ハンジ」
囁いたのが鍵になり、長ったらしく絡み合う睫毛が解けて中身を見せる。ポットの注ぎ口から落ちた最後の一滴が、凪いだ瞬間の紅茶の湖面。磨いたばかりの硝子に、真水をぶちまけてつくるなめらかな光。
そんなものに例えてしまうほどには、俺はその価値を知っていた。
目を合わせたまま、口付ける。ハンジの唇は、冬の風にも構わず活発に動くせいかひどく乾いていた。そして女の肌のように柔らかかった。自分の体にそんな柔さはあっただろうか。たったいま擦り合わせている同じ場所さえ石みてえに感じるのに。
離れ際に舌を出してそこを舐めると、ハンジはガチガチに固まったそこここを動かして胡乱な顔をつくった。
「……いま、舐めた? 普段の潔癖ぶりはどこにやったんだい?」
「俺は潔癖だと名乗った覚えはない。お前が勝手に吹いてまわってるだけだろう」
「いやいやいや、あんだけこだわっといてそりゃないって」
「現に舐めてんだろうが……ハンジ、閉じてねぇと次は舌突っ込むぞ」
「しっ……ん」
元の位置に戻ろうとする肩を掴み、もう一度口付ける。あいにくぴたりと閉じていたが、無理はしない。ただ接したままの状態を保つ。それでも、奴の全身から立ち上る緊張はいつまで経っても消えない。落胆はなかった。といえば嘘になるが、「まあこんなもんだろう」という気持ちこそ容易く手元に落ちてくる。俺たちは足の間に物をぶら下げた野郎同士で、野郎が相手になるのも(たぶん)初めてで、そもそも初まりがそうであったように、何かを交わすつもりは俺とて毛頭ありはしなかったからだ。
抱いた肩が震えたので手を離す。ハンジが黙って眼鏡をかけ直すのを見て「三度目はない」と悟った。
「……部屋に戻るか?」
「え?」
そのくせ、これだ。
かっぴらいた目とみるみる下がっていく眉尻。俺は失敗を知ったが、何が失敗だったのかまでを知る猶予は与えられなかった。一度開いたはずの距離を今度はハンジが詰めてくる。被さるような勢いに思わず仰け反った。
「え……し、しないの?」
「は?」
ぎらぎらと照る瞳の理由は、アレだ、こいつが何百回と頭の中で練った思考を表に出す時の光だ、とすぐに気づく。
ハンジは先ほどと違って目を逸らさず、けれど相手の疑問も読み取れないほど困惑しているようだった。やけに赤らんだ頬のまま捲くし立ててくる。
「私、その、大丈夫だよ? どっちも勉強したんだ。一応、念のためね? ご期待に添えるかわからないけど、だから、あなたがシたいなら、」
「……ああ。そういう」
「あっしまった! 道具を部屋に忘れてしまったよ。今から取りに、」
「待て、必要ない」
「なんで? 準備できてる? わけないよね?」
わけあるかクソ。辛うじて押し込んだ罵倒は、舌打ちなんていう代わりにもならない形で俺の口から飛び出した。もろに食らったハンジは干からびたパンのように縮んで固まってしまった。
「ごめん……今日は……しない?」
「今日だけじゃない」
部屋の明かりを落とした時の、突然の暗闇と同じ。ハンジの顔から表情が剥がれ落ちる。
「しまった」と思ったが、そういう後悔の裏でハンジのいじらしさを喜ぶ悪趣味な自分もいて、面倒になった俺はもうそこのところをまとめて蹴っ飛ばすことにした。ついでに意を決した。意を決するほどに、大事なことを伝えなければならなかった。
「できねぇんだ」
「できない? 何が……え?」
呆気にとられたハンジの顔が、すぐに思案のそれに切り替わる。俺の言ったことの意味を取り違えている様子はなかった。こいつはいつもそうだ。染み込むのにほんの少し時間がかかるだけで、それだって他の奴に比べれば随分と短い行程でそれをやりきってしまう。
もう少し先になるかと思っていた告白がこうも早く来てしまったことについては、良いほうに考えるべきなのだろう。ハンジの眼が気遣うように瞬いた。愚かしいほど真っ直ぐなこの視線に、隠し事はしたくない。
「……知らなかった」
「誰にも言ってないからな」
兵団かかりつけの医者も、上司であるエルヴィンも、性別を同じくする仲間連中も、誰も知らない。
ハンジだけが知った。
ここに連れてこられて生きるうちに、いつの間にか機能することをやめてしまった自身の一部について、俺は未練など欠片も感じていなかった。不思議なことに、ハンジとこんな関係になった今でさえそう思う。
壁の中でどろどろと濁りを増す空気、それと違うものが吸えるのなら。
騒がしくも邁進することに暇のない男、その隣に居られるのなら。
そんなことさえ叶えば、俺にはもう、十分だったからだ。
「そっ……か。まあ、ここじゃあ別段珍しい話でもないけど、できないんだね、リヴァイ」
念を押すように繰り返すハンジの体から、徐々に力が抜けていく。そこから感じ取れたのは間違いなく安堵だった。何に対してかはわからない。
「……お前が突っ込むほうでも、俺は構わねえが」
「えっ、経験あるの?」
「ねえよ」
「あそう、わかったわかった。うーん、じゃそっちは別にいいかな。正直全然自信なかったんだ、怪我させて感染症にかかったりしたらどうしようとか」
「別にいいったって……お前それで、その、おさまるのか?」
「性欲のこと? 明確な理由があればね」
『理由があれば』の言葉一つで収まるなら苦労はしない話だが、さして興味もないような言い方がこいつは本当にやってのけるのだろうと思わせる。「おかしな体だな」と指摘すると、「なに言ってるんだよ。そもそもここは頭のおかしな連中ばかりが集まる場所じゃないか。体もおかしくったって何も不自然じゃない」ともっともなことを返された。
「まあわたし女の子相手にも経験ないし」
さらりと付け足された事実は、驚いたことに今日一番俺を喜ばせた。遅れてハンジの安堵の理由を知る。
(滑稽だな)
素直にそう思った。似て非なる異常を持ち寄って、同じ喜びに変えているだけの寂しいホモ野郎が二人。端から見ればさぞかし笑える光景なのだろう。中心にいる俺たちにとっては、とっくに過ぎた昨日よりもどうでもいいことだった。
一人用の寝台は、いくら細身と小柄を揃えてみても男二人を寝かせるには当たり前のように狭かった。左肩と右肩を窮屈に重なり合わせたまま、俺たちは夜に侵食されていく天井をぼんやりと眺めた。隣にいながら、互いの視界に相手を置かない。そのことに違和感も抱かない。どれほど見慣れた景色か知れないからだ。今日この瞬間まで、自問することすらなかったほどに。けれどそれは、こんな関係になった俺たちにとってはひどくおかしな状況のはずなのだ。
「ちょっと考えたんだけど」
ハンジが小さく呟く。
「私たちの関係って、これからどう変わるんだろうね?」
「……奇遇だな。俺もそれを考えていた」
兵舎で生活をしていれば、早朝だろうが深夜だろうが、望む望まぬにかかわらず顔を合わせることになる。生きる場所も死ぬ場所も同じ。目指す場所も同じ。浴びる血も飲む辛酸も、俺とハンジ二人に限らず、ここで生きて死ぬ兵士たちは全てを共有する。
例えば、もう二度と間近に瞳を見合うことがなかったとしても、俺とハンジはこれからも隣に居続けるだろう。兵士でいる限り。それは『死なない限り』と同じ意味だ。不能と童貞が、口付けもまともにこなせず、内側を知り合うこともない体を並べてただ夜を過ごすことに意味があるというなら、それはなんだというのだろうか。
「……仲間のままでだって……」
ハンジは最後まで言わなかった。けれど俺は、その先をわかっていた。そして答えもとっくに知っていた。
実を言うとな、ハンジ。
お前の中の俺が、何もかもが鉋で均されるように色味をなくしてしまっても、俺は一向に構わねえんだ。茶色い眼や赤い顔をとくと眺められるのが今日で最後だったとしても、惜しいとも思わない。そう思う。
ただ一つ。
俺がハンジに、ハンジだけに心底望むことは、この先も一つだけ。
「——〝俺の前でだけにしておけ〟」
「……それ、三日前も言ってたね」
硬い体が寝台を軋ませ、俺の右半身に恐る恐るその重さを預けてくる。視線を感じて顔を傾けるとハンジがこちらを見つめていた。他の誰の前でもけして浮かべることのない、疲れきった表情で。
俺の前でだけにしておけ――お前の弱さを、痛みを晒け出すのは。
それはハンジに強者の顔を強いる、傲慢な願いだった。俺のいない世界で斃れることを許さない、酷な願いだった。
あの日、軽々しくも口から飛び出した言葉に含まれた意味のどこまでを悟って、ハンジは頷いたのだろう。今、ここでこうしているのだろう。確かめるべきか、と降って湧いた義務感は、ハンジが浮かべたあどけない笑みを前に、星のような速さでどこかへ消えていった。
「わかった。君の前でだけ。約束する」
こいつは俺なんかよりも随分頭の良いやつだから、きっととっくに知っていたのだろう。わざわざ口に出してまでその意味を問うたのは、もしかしたら、俺を逃さないための手順だったのかもしれない。それは今夜いちばん愉快な想像だった。
ハンジの肩を引き寄せる。柔くもなく、馴染みもしない。俺が欲した男の体だ。
この部屋が暗がりに沈んでも、そこに嬌声や睦言が響くなんてことは、たぶんこれからもないのだろう。
夜はいつだって遠く、朝は暴力にも等しい眩しさでやってくる。
それで構わない。俺たちはそれでいい。
その日、二つの体温が混じり合うまでにかかったもどかしいほどの時間と、その意味と、価値を。
俺はきっと、一生忘れない。
〈了〉
(初出 19/不明)