所詮残らぬ熱だから
所詮残らぬ熱だから
三、薄明
「ああ、間に合った」
厩舎の中は暖かかった。生き物の吐き出す音と匂いが、熱となって冷えた体に染み込んでいく。
馬房の入り口に立ったハンジがひっそりと発した声に、馬の陰からリヴァイが顔を出した。昨日ぶりに顔を合わせた彼はハンジを見て少しだけ目を見張り、すぐさま怪訝な表情を浮かべる。
「なんでこんなところにいやがる」
「昨日散々『王都に行く』ってアピールしていたのはそっちじゃないか。見送りに来てあげたのさ」
「いらねえ」
すげない答えだった。吐き捨てたリヴァイは顔を引っ込めると、再び出立のための準備に手を付けはじめた。ハンジなどそこにいないかのように、淡々と、黙々と。
見えないことを承知で、ハンジはおおげさに肩をすくめる。そして馬を挟んだリヴァイの反対側に来ると、「やあフリッツ」と一度だけ硬い腹を叩き、垂れ下がった腹帯を手に取った。鞍を整えるハンジが到底立ち去る気もないのを察したのか、リヴァイが聞こえよがしに舌打ちをする。
「てめえ、自分がみっともなくぶっ倒れたのを忘れたのか? さっさと部屋に戻って二度寝にしけこんでろ」
「ああ、うん……また迷惑かけたみたいだね。悪かったよ。でも夕刻から数えて十時間は寝たんだよ? 十分じゃないかな?」
夜明けを過ごす馬たちに気を遣いながらも、ハンジの声は明るかった。並んで開いた首出し窓から徐々に、弱々しくも辺りを照らす朝日が忍び込んでくる。曙光が馬肌の隆起の上でゆっくりと波打つのを、ハンジは静かな目で眺めた。
「……まだ顔色が悪い」
リヴァイが言った。吐息に紛れそうなほど低く潜められた声には、隠しきれない憂心が滲んでいる。それを掬いとったハンジは穏やかに笑った。
「もう大丈夫だって。……ありがとう」
露に濡れた道を、二人と一頭で歩いていく。
日ごと冬の匂いを増す壁内で、人も動物も植物も忘れていた寒さを思い出し、切々と身を丸めている最中だった。じきに吐き出す息も白く染まるだろう。
林立する木々の、夜を越すたびに色を亡くしていく枝の編み目から、先刻よりも眩しい日差しが伸びてくる。出立の予定時刻はとうに過ぎているようだったが、それを急かすはずの日の出が少しも暖かくないせいか、リヴァイとその愛馬の歩みは依然として緩やかだった。ハンジもそれに倣う。
そういえば。
冷えきった朝靄に頬を撫でられて、ハンジは思い出した。
『昼間の暖かさは、一体どこ行きやがったんだ?』
日が沈み、冷気が大地を満たし、太陽の名残が跡形もなく消え去った暗い夜の深まりに、リヴァイがそう零したことがあった。ずいぶんと昔の話だ。彼にしては珍しく、子どものような拗ねた口調を隠せてもいなかった。なんせ、とても寒い夜だったから。
太陽が地上に与えた熱は、一体どこに行くというのだろう。深緑のマントに顔の半分まで埋めて、彼はそう独りごちた。
壁に限界を決められようと、地上は地下よりもずっと広い。日の光がなくなってからの気温の下がり方はリヴァイの想像を超えるものだったらしく、彼は色のない肌をさらに青ざめさせていた。
そして、そこだけが感情の読めない瞳で言ったのだ。死体に触れた時と同じ冷たさだ、と。
「夜は何もかもが死ぬ時間なのか」と。
その時ハンジはなんと返したのだったか。
リヴァイがハンジの中に残すものは、どんなものであれ全て大切だったはずなのに、二人で歩む時間が幸福にも長くなるにつれて、こうして失くすものも増えていってしまう。交わした言葉も、視線も、熱も、めまぐるしくハンジの上を通り過ぎていく時間にあっという間に攫われて、過去の掠れた記憶の一つになっていく。
三つの影が兵舎の門にたどり着いた。
綱を引く指先が手袋の中で十分に温まったことを、掌の開閉で確かめると、リヴァイは鐙を踏んで馬上の人となる。
そしてハンジを、氷の下に沈んだ冬の湖のような瞳で、真っすぐ見下ろした。
目を逸らしてしまいそうになる自分を、ハンジは必死に抑えた。リヴァイを煩わせるようなものが自分の視線や行動から漏れ出やしないかと胃を引き絞らせ、何でもないような表情で見返す。
何もかも、微塵も見透かされたくなかった。
ああそうだ、とわざとらしく両手を挙げ、ハンジはコートのポケットから折り畳まれたクラバットを取り出す。
「これ。昨夜部屋に忘れただろう?」
汚れがないかと神経質に表面を撫でて、リヴァイへと手渡した。
「ああ……悪い」
「いや、元を正せば私が悪いんだけど……って、おしゃべりしてる時間もないか」
見れば、足下の影は薄くとも色を塗り重ね、その黒を濃くしていた。日が昇りきるまであと少し。
「じゃあ……いってらっしゃい」
そう言って出立を促すと、リヴァイは一つ頷き返して前に向き直った。白んでいく空を割るように伸びた背中がハンジから遠ざかっていく。
彼はしばらく進んだところで馬の腹を蹴りあげ、全身にかかる重さをいなして静寂の中を駆けだした。
一度も振り返ることなく。
その姿を網膜に焼きつけて、ハンジはそっと目を閉じた。
二、未明
目を開けてすぐ浮かんだ顔に、会いたくて堪らなくなった。
ゆっくりと起き上がった肩を毛布が滑り落ちていく。冬を微かに含んだ夜気は冷たくハンジを抱きしめ、背中を小さく震わせた。
無意識に手をのばした先で、眼鏡がカチャリと音を立てた。〝彼〟がいつも決まった場所に置いていくので、身体が覚えてしまったのだ。醒めきらない頭で弦を耳にかけるも、度入りレンズの向こうで輪郭が確かになったはずの世界は、暗闇にその形を隠したままだった。
月明かりも雲に沈んだ、水底のような夜。
ハンジの全身はいまだ、眠りの淵にひっかかっていた。己がいつベッドに入ったかも定かではないが、充分な睡眠を摂ったとは言えないのだろう。つま先から天辺までをまんべんなく走る怠さ、熱さが、ねえ、ベッドに戻ろうよ、と訴えてくる。
ハンジはそれに抵抗したくて、小さく囁いた。
「……リヴァイ」
甘くて弱くて、無防備な響きだった。
体温が残る寝床をあんなに求めていた身体が、あっという間に跳ね起きるための準備に入る。従順なる我が身に呆れるしかない。冷たい床をおそるおそる探り、部屋履きに足を突っ込み、ハンジはベッドから抜け出した。
慣れてきた目で周囲を見ればますます夜は深いのだとわかった。人の声がしない。歩哨の足音すら潜められているようだった。
ハンジは机上にある、上部に持ち手がついた箱を手に取った。そしてその側面に作られた、縦にスライドする扉を開けた。途端に、眩しい光が箱の中から溢れ出す。
秘密の王の下で隠されてきたものの一つ、発光する鉱石。この物質は燃料の問題で制限されていたハンジの行動可能時間を飛躍的に伸ばしてくれたが、なにぶんその光が強すぎた。ハンジはいつも大雑把な調節をしては、その度に目をすがめている。
顔に当たる光から逃げたハンジの目に、あきらかに自分のものではない物が映った。思わず、は、と息が止まる。
角を揃えて畳まれた白い布。リヴァイの首回りを飾り立てるクラバットだった。
「珍しい……」
リヴァイの痕跡があること自体には特に疑問もなかった。
昨夜この部屋にハンジを運び、就寝に適した姿に整えてベッドに収めたのは彼だと、目が覚めた時にはわかっていたからだ。
もう数年前のことになる。
調査兵として中堅に入ろうかという頃、ハンジはうまく眠ることができなくなった。
憎悪に汚れた目で、ひたすら駆除する対象として見ていた巨人が、ある時を境にハンジの『理性』の舞台に登ってきたことが原因だった。自然界の法則に反し、人間だけを食い殺す存在、あるいは事象。百年も苦しめられている敵について、人類はその発生源すらもいまだ知らない。
ハンジはその時、本当の意味で巨人に対峙した。
──そして絶望した。負け続け、失い続ける調査兵団の過去と現在と、未来に。
己の力不足を噛み殺したいほど憎んだ。大勢の誰かの代わりに自分が生き残った意味をなんとか見出したくて、毎日、苦痛に悶えながら巨人という存在に向き合った。
夜半、休息を欲する肉体を、精神の糸で無理やり机の前に縛り付ける。眠りたくなかった。眠るたびに何かを、もしかしたら仲間や人類を救うきっかけになる何かを指の間からこぼしている気になったからだ。本気でそう思っていた。
そうやって限界まで自分を酷使した後、ハンジはいつも棘だらけの眠りの底に叩きつけられた。シーツの上に横たえた身体の腕や脚の芯が鈍く痛み、まどろみの端を掴むまで延々と苛まれる。頭の中は泥をかき混ぜるようにぐるぐると回り、役に立たない思考ばかりが顔を出しては底に戻っていく。
浅く苦しい眠りで命を繋ぎ、起きている間も悪夢が続く。
眠りの呼吸はすなわち、苦痛の喘ぎだった。
リヴァイの手中に救いがあると気付いたのは、マリアの壁に穴が空いてからだ。
「ひでぇ面だな、クソメガネ」
自らの脳内に作り上げた思考の迷路にはまり、周囲に迷惑をかけ、不摂生と不健全を極めたハンジが頭皮をかきむしりながら唸るのを、リヴァイは冷たい眼で見下ろした。
──リヴァイだけは、眼をそらさなかった。
一歩も二歩も身を引いていた周囲に構わず、ただまっすぐとハンジを見つめた。
そしてある日、とうとう雁字搦めで風呂に投げ込まれ全身に湯をぶつけられて、信じられないことだが頭のてっぺんから足のつま先まで念入りに洗われた。心底驚いて抵抗を忘れたハンジを、リヴァイはきっちりとベッドまでエスコートしたのだ。乱暴な脱水付きではあったが。清潔な寝具に包まれて、ほ、と息をついた瞬間、ハンジは意識を失っていた。日が昇るまでその眠りが脅かされることはなく、目覚めた視界は常にないほど明瞭だった。
それからというもの、ハンジが我を忘れるたびにリヴァイがやって来た。痛みを伴いながら身を清められて、苦しみも歪みもない眠りに強制的に落とされ、何度も生き返った。
何度も、何度も。
スン、と鼻をならせば石鹸の香りが肺を満たした。他でもないリヴァイが風呂場を使った証拠だ。ハンジが使ってもここまでは香らない。今回もきっとリヴァイの手を煩わせて、彼は彼でうっかり忘れ物をしてしまったのだろう。
だろう、というのは、ハンジの記憶が定かではないからだ。
今日、マリア奪還作戦に向けた、エレンの硬質化実験の最終段階を終えた。ウォール・マリアに空いた穴と同程度の大きさの洞窟を塞ぎ、項から自力で脱出、次の作戦行動に移る。
設定した時間内にこれをやり遂げたエレンは体調に不安なところもなく、実験は成功と言って間違いなかった。最近は少年らしからぬ沈んだ表情を浮かべることも多かったエレンだが、それでも全身を喜色でいっぱいにし、ハンジの「よく頑張ったね」という言葉にも快活に返事をしてみせた。ハンジも嬉しくてたまらなかった。
訓練場から戻る途中で硬質化を利用した兵器のことを思いついたのは、その成功も影響していたのだろうと思う。
「ハンジさん、少し休まれてくださいよ」
「自分の限界くらいわかるから大丈夫だよ。今日はお疲れ様、モブリット」
立ち去る靴の音に背を向けてハンジは研究室へ飛び込んだ。机上に思いきり紙を広げた瞬間、後ろから伸びてきた手がハンジを捕まえた。
「おいこら、ハンジ」
「うわっ!……リヴァイ!」
現役兵士の背後に音もなく立つことができるのは、調査兵であればリヴァイしかいない。必然ハンジが驚かされるのも彼にのみ、ということになる。毎回同じ反応のハンジに舌打ちしたリヴァイは、書物に伸ばされていたハンジの手を一瞥し、眉間の皺を深くした。
「今日はもう終いだ。てめえが此処に篭ってちゃが下の奴らが休まらねえだろうが」
「えっ、いやでもまだ、思いついたことが……」
「ハンジ」
低く、重く、独特の圧を持つ声がハンジを撫でる。その声はハンジに、四肢に降り積もる疲れを自覚させた。
リヴァイがハンジを鎮めようとする時、リヴァイの発する何もかもが眠りへの契機となるのが、ハンジには不思議でならなかった。
ぐ、と肩を落としたハンジに構わず、リヴァイは点けたばかりの明かりに近寄り「消すぞ」と一言だけを告げた。彼が部屋から出るよう促しているのは容易にわかったが、その時は歩くのも億劫になっていた。
(……それから? それからどうしたんだっけ?)
クラバットを手にとると、室内の湿気を吸ったのか生地がしっとりとハンジの肌に乗り、胸が高鳴った。こうして眠りから覚めた後、自分の肌の上や室内にリヴァイの痕を探すようになったのは、いつからだろう。大抵は香り以外に見つからないのだけど。
部屋を見渡して、ハンジの記憶はまた数時間前に戻る。
そうだ、部屋に帰る途中で思い出したのだ。自分がもう何日もまともに寝ていなかったことを。思い出すともう駄目だった。胸まで泥に浸かったまま進むかのように、自室を目指すハンジの足は重たくなった。
ふらつくハンジを仕方なさそうに支えながら、意識を保とうとするためだろうか、リヴァイが色々と話しかけてきた。ハンジも懸命にそれに答えた。昼間の実験のこと、他兵団からかき集めた新兵のこと、技術班と額を付き合わせて開発している新武器のこと、リヴァイが持ち帰った巨人化薬のこと。
途中、リヴァイがぽつりと言った。
「明日、王都に行く」
「……うん……」
王都で三兵団の勢力均衡のために力を尽くすエルヴィンから現女王ヒストリア・レイスを引き継ぎ、調査兵団支部に連れて帰るためだ。「早朝に発つ」と続けたリヴァイに、確かハンジも「気をつけて」と返したはずだ。
顔を見ずとも、リヴァイが何かを言い淀んだのがわかった。「俺はいないんだからな」とだけ返してきて、それ以降黙ってしまったので、ハンジもその後は口を開かなかった。
リヴァイは大方「だからお前は何もするなよ」と釘を刺していたのだろう。非常時の指揮権は状況次第で移り変わるとはいえ、エレンは今もってリヴァイ班所属の兵士だ。リヴァイのいないところで実験を進める気など最初からないのに。
──そこからまったく思い出せない。
部屋に辿り着く前に意識を落としたのだろうか。帰結がベッドの上、しかも清められた身体で、なのだから、リヴァイに迷惑をかけたのは明らかだった。
自分に対してため息をつきながら、意識はそわそわとこの場から離れはじめる。明日か明後日、リヴァイが王都からヒストリアを連れて帰るまでがハンジの休息の時間だ。逆にそれからリヴァイとゆっくり話す時間はないかもしれない。いや、確実にないだろう。
手元のクラバットに目を落とす。王都までの道に必要なものでもないだろうが、私物は私物だ。
(返しに行って、少し話すだけなら……)
会いたいという気持ちが、またしくしくと温度をあげていく。
リヴァイはいつからか、ハンジが走り続けるために欠かせない存在になっていた。いつからそうだったのか正確なところは覚えていない。執着とはいつも後追いでできあがるものだ。
ただ、自分の想いが消せないところまできていると気付いたのは、リヴァイの手によって眠りに落ちて目覚めた、とある日の朝だった。
ひどいきっかけだ。リヴァイだってきっと怒るだろう。彼は他でもない兵団のためにハンジの頭脳を買ってくれて、それを損なわないように力を尽くしてくれているだけなのに。
親切を受け取る側のハンジが、一方的にそれを歪めてしまっている。
兵士として、誰が、どこで息絶えても、前に進まなければならない。そう覚悟をして生きていながら、どうか彼は、彼だけはと願ってしまう心を、憎みながらどうしても捨てられないでいる。
人類のため、仲間のため、……リヴァイのため。
もはやその信念がどのような比重で自分の中にあるのか、それすらもわからなくなっていた。目指すところは同じというだけで体面を保ち、ハンジは戦っていた。
巨人を殺し、人類を壁の内側より解放し、リヴァイをただの人間に。彼の望みなど知らない。お互いに過去や未来を話すことなどなかった。兵士として一生を終えたいというのなら、一度まっさらになった後またその道を選べばいい。
ただ、彼の眼前に少しでも多く選択肢を増やしたい。たくさんの生きる道を前にして、彼が選んだ方向へゆっくり歩き出す様を見てみたいだけだった。
こんなこと誰にも言えないし、言ったこともない。
ハンジは逡巡した。こんな夜更けだし部屋を訪ねるのも、と思いながら、リヴァイは何時であろうと深くは眠らない事実も知っている。彼は椅子の上で浅い眠りから休息を掬うのが上手だった。本人には言わないが、ハンジが心底欲しい能力だ。
(さっと部屋を訪ねて、礼を言って、すぐに帰ろう)
そう決めた時だった。
──コン、コン。
まさに手をかけようとしていた扉が、外から誰かに叩かれた。ハンジの心臓がドキリと跳ねる。
「……誰だ?」
扉に向かって努めて硬く声を発した。声に反応したのか、扉の向こうで気配が動く。けれど返事はない。
「消灯時間はとっくに過ぎているが、緊急か?」
最近、憲兵団や駐屯兵団から大人数の移籍があったせいか、団内の規律がわずかばかり緩んでいる、と報告があがっていた。幹部として、問題行動を発見したならすみやかに罰する必要がある。自分こそが夜間に出歩こうとしていたのだから、注意できた体でもないのだが、だからといって無視もできない。
扉の向こうの誰かは、何も言わない。不安が胸中に満ちる。頭に調査兵団舎内で殺された男が過った。
「ハンジ分隊長」
後ずさろうとした足に待ったをかけたのは、若い男の声だった。聞き憶えはない。
「夜分にすみません。クラース班所属の者ですが……」
「クラースの?」
他兵団から移籍した新兵の班だ。覚えがないのも納得だった。けれど、ハンジの担当ではない班の兵がこんな夜中に何の用だと言うのだろう。
「あの、実は……リヴァイ兵士長のことでご相談が」
「リヴァイ、って」
リヴァイも新兵の訓練の教官を務めているが、そのことだろうか。ハンジは首を傾げる。
「なぜこんな時間に私の所へ? クラースやリヴァイには言えないことなのか?」
「……」
黙られるとハンジとて反応のしようもない。どうしよう、と意味もなく部屋を見渡す。椅子の背に皺を伸ばして掛けてあったジャケットを手に取り、寝間着の上から羽織った。髪も適当にくくり、その間も沈黙を貫いていた訪問者に向かってハンジは言った。
「……今開ける」
寝起きを言い訳にしても警戒の足りない行動だった。
鍵を開けた瞬間、弾け飛ぶように開いた扉にハンジが後悔したのも、すべては遅すぎるくらいに。
「──っ!?」
視界いっぱいに白一色の光が広がった。痛みすら感じる眩しさに、咄嗟に強く目を瞑る。顔をかばって挙げた手を誰かに掴まれ部屋の奥へと押し戻された。害意を感じる強さに、ハンジは反射的に抵抗する。
「あっクソ、暴れんな!」
「早く抑えろ」
両手が固く動かなくなる。恐慌状態に陥ろうとする自分を懸命に宥めながらも、騒がしく重なる足音と声に複数人の存在を感じたハンジは、拘束から逃れようと激しく身を捩った。
「ちょっと、大人しくしてくださいよハンジ分隊長」
「っ……!」
耳のすぐ後ろ、髪を湿らせるような距離で、生温い息が肌を撫でた。背中全体がぞっと粟立つ。男が一人ハンジの背後に回り、両腕を腰で拘束していた。チカチカと明滅していた視界がようやく落ち着いてきて初めて、ハンジは自分の置かれている状況を見ることができた。
(……眩しい……!)
部屋中を明るくしていたはずの灯りは消え去り、ハンジの顔面に向かってのみ強い光が向けられていた。あの鉱石のものだ。光の向こうの闇に隠れて黒い影が蠢いている。
見えずともその気配を探ったハンジは、少なくとも三人以上が自分を囲んでいると判断した。
「……お前たち、調査兵団の人間か?」
「そうですよ」
「だったらしていることの重大さがわかるだろう。上官に対して何の真似だ」
言葉尻が震えたことに勘づかれたのだろうか、ハンジの後ろにいた男が微かに笑った。その嘲笑は伝染し、部屋にいた男たちに広がっていく。
「俺たち、分隊長に頼みがあって来たんですよ」
暗闇の中から影が言った。
「身体、使わせてくれません?」
「──は?」
呆気にとられたハンジの全身から緊張が抜けたのを、何を勘違いしたのか、背後の男が愉悦を滲ませながら口を開いた。
「乱暴なことはしませんから。一晩遊んでくださいよ」
「……何を言っている?」
「え、わからないんですか?」
目の前の闇から突然、ぬ、と大きな手が現れたかと思うと、節くれ立った指をハンジのジャケットの合わせ目に潜り込ませた。そして息を飲むハンジの震えごと、寝間着の上から胸を鷲掴んだ。
「!? な、」
「ああ、ちゃんと柔らかいんですね……。こういう意味なんですけど、わかりました?」
男の手は答えを強請るかのように、ハンジの胸を捉えたまま握ったり開いたりを繰り返す。
「やめ、……っ!!」
逃れようと引いた脚に背後から固いものが当たり、ハンジは身体を強張らせた。両腕を捕まえたままの男がハンジの尻臀に自らの下半身を押し付け、肉を掻くように円を描いている。男は髪の間に鼻先を埋めながら囁いた。
「分隊長、良い匂いがしますね……リヴァイ兵士長に洗ってもらったんですか?」
「はっ……?」
男の口から出たハンジもよく知る名前は、しかし身に覚えのない色を纏っていた。
「今日もひっついて一緒にいたし、やっぱり噂は本当だったんですね」
「よかったぁ。散々ヤッた後のままの姿だったらどうしようかと思っていたんですよ」
周囲の男たちがまた笑った。一層下卑た響きで。
(なんの話──)
「ねえ、人類最強ってどんなセックスするんですか? 壁外調査の後とかやっぱり凄いんですか?」
──『セックス』『散々ヤッた』
あからさまな言葉を浴びせられて、ハンジはようやく理解した。ハンジとリヴァイが肉体関係にある、と。この男たちはそう思っているのだ。
全身を激しい怒りが突き抜けた。
「……ふざけるな!!」
背後を塞いでいた男に全体重を乗せ、思いきり足を振り上げる。
「うわっ!」
爪先が何かを掠めた。が、決定打にはならなかったようだ。ハンジの身体を受け止めてよろけていた男はすぐさま体勢を立て直し、腹に手を回して抑え付けた。前からは別々の人間の腕が飛んできて、暴れるハンジの脚をそれぞれに抱え上げる。
「離せ、クソッ! お前たち、懲罰房行きじゃ済まさないからな!! 私とリヴァイはそんな関係じゃ、」
「あーはいはい、そういうのいいんで。静かにしてくださいね」
「怒っちゃったよ……面倒だなぁ」
そう言って近づいてきた男が、衣服越しのハンジの腹に、人間の身体にはない硬さを押し付けた。視線を落としたハンジは目を見開く。刃渡り十センチほどのナイフが、ハンジに触れたまま鈍く照り輝いている。
「……脅しているつもりか?」
「そうですよ、わかりやすいでしょう」
男がハンジの耳元に顔を近づけ囁いた。肉薄してきたにもかかわらず、その全貌は見えない。盛り上がった片頬と上がった口角が白い光に縁取られて、ニヤついている、ということをただハンジに伝えただけだった。
「ハンジ分隊長、人類を救う大事な作戦が控えてますよね? 前線に立てなくなったら困りますよね?」
「俺たち全員、兵法会議にでも並ばせます? 呼ぼうと思えばまだまだ男ども集められるんですよね。全員仲良く開拓地行きかなぁ」
「せっかく他の兵団から貰い受けた兵士、皆いなくなっちゃうかもですよ」
一言、一言。誰かが口を開くたびにナイフは身体を登り、途中で躓いた寝間着のボタンをブツリとちぎり捨てていく。落ちて転がるボタンの音が止んだ時、背後の男が言った。
「大丈夫ですって。大人しくしてれば気持ちよくなりますから、ね」
男たちは肩から脱がせたジャケットでハンジの腕をまとめ、後方で縛りあげた。と、一人がハンジの掌に握り込まれていたクラバットに気付く。
「なんですかこれ、ハンカチ?」
「ぁ、やめっ……!」
嫌がるハンジから無理矢理奪い取ると、拘束の上から腕に巻き付けた。そして残骸となった寝間着の前を慌ただしく開き、中に着込んでいたシャツをも引きちぎる強さでたくし上げた。
眼前に曝されたのは、思っていた以上に白く、魅惑的な曲線を描く乳房だった。普段日の下に出ることのないその領域は立体起動装置のベルト痕こそ色を濃くしているが、間近で見れば皮膚の薄い箇所に青白い血管さえが浮かんでいる。大きくはないが、鎖骨から流れて緩やかに頂点までのぼった曲線は色づいた山頂からはもったりと重たげに胸の麓まで降りていて、見た目だけでも充分に柔らかい形をしていた。
『性別すらわからないこともある』と言われる奇人の兵士が、衣服の下にそんなものを持っているなどと、誰が想像しただろう。男たちはわかりやすく興奮した。
ねっとりと湿った視線で、口元には軽く笑みを浮かべ、一人が言う。
「服脱いじゃえば、ちゃんと女ですね」
その声は喜びと、溢れるほどの狂気に満ちていた。
女だから蹂躙する。欲望からなる至極簡単な理論だ。思い思いに手をのばす彼らはもはや獣と同等だった。
「……んっ!?」
男が晒された上半身に顔を近づけ、濡れた舌で胸に触れた。不気味な色をした肉厚なそれをチロチロと左右に動かしながら、膨らみをしつこく舐めまわす。
「何もしてないのにこっちも勃ってきましたよ」
「い"っ……」
別の男も同様に懐に潜り込むと、片方の乳房を掴んでちゅぷ、ちゅ、とわざとらしく音を立てながらしこりを吸い上げた。男たちの腕の中で女の体は隠しきれないほど震えを大きくしていく。与えられる感覚を懸命に拒絶しようとしているのか激しく頭を振るハンジに、与える側の男たちは悦をにじませた声で笑うだけだった。
「おい、お前下脱がせ」
「へいへい……」
ハンジを刺していた光が、ゆらり、と動く。
後ろで灯りを持っていた男は、言われるまま光源を床に置くと、ハンジの前に膝をつき寝間着の下に手をかけた。固く締まった脚のふくらはぎまで何の躊躇もなく脱がせると、兵団支給の装飾もない下着が現れる。そんなものでさえ、今から行うことを思えば部屋の空気は濃密になっていく。
男は、下着をすぐには取り去らなかった。腰の括れから腿までの滑らかな凹凸を何度も、何度も撫でて、腰骨や、太腿を横に走るベルトの痕に唇で触れ、舐めまわし、次第に大きくなっていくハンジの震えを触覚で楽しんだ。
「──おい、急げよ」「うるせえな。わぁかってるよ」
「っ! いや、だ!」
裸に剥こうとする手に、ハンジもわずかばかりの抵抗を示す。が、ナイフがちらつけば押し黙るしかない。ぎゅうと噛み締めた唇が哀れで、愉しくて、男たちはますます口角を緩ませる。
男はハンジの脚にわだかまっていた布を一気に引き下ろし、片足ずつ抜いて床の上に放った。右脚の膝裏に手を差し込み、持ち上げているように他の男に指示をする。
男の顔の前に秘められた場所が、がばり、と開かれた。ハンジの悲鳴じみたうめき声にも構わず、男は静かに息づく女の肉に顔を寄せた。
「どれ……」
内股の肌が光を受けてつるりと輝いている。膝裏から真ん中の溝に辿り着くまでの道を、筋走った腿裏、ふっくらとした尻肉、多少は骨張っているが充分に脂肪をまとった脚の付け根まで、視線でたっぷりとなぶる。
そして身体の中心、脚と脚の間。
柔く盛り上がったその部分に、入り口を守るようにさらに一枚、萎れた花のような肉が内側についている。刺激を与えれば血を蓄えてぷくりと膨らみ雄を悦ばせるであろうソコを、これから堪能するのだ。男は生唾を飲んだ。
淡い下生えは秘部を守るには頼りないように見えた。さわり、と指で遊ぶように撫でると柔らかく流れ、簡単にその奥の皮膚へと接触を許してしまう。
内部への扉はまるで清純を示すかのようにピタリと閉じていた。指先で触るとさらりと乾いており、侵入者を許す気もないようだった。
男は両手の親指で、その入り口を割り開いた。
「……石鹸の匂いがする」
ポツリと落ちた言葉に、ハンジの胸を忙しなく揉んでいた男が小さく吹き出した。
「良かったじゃん、清潔で」
「ハンジ分隊長ー、ここもリヴァイ兵長が洗ってるんですかぁ?」
「いや、さすがに自分でやるだろ?」
「ばーか、意識ないところを風呂に入れてんだろ? そう言うことじゃん」
秘された粒をくりくりと探って剥き出しにしながら、男はハンジを下から見上げた。
光の中に浮かび上がった裸体は、血が通っていないかのように真っ白だった。おまけに肌はふつふつと粟立っている。唇も目も堅く閉じ全身で状況を拒絶しているその様は、けれど何の制止にもならない。ただ「面白くない」という味気なさが男たちの上を通り過ぎるだけだ。
「あのねえ分隊長、ちゃんと見てなきゃ良くなりませんよ」
後ろからまわってきた手に顎を固定され、ハンジは無理矢理に下を向かされた。
相変わらずハンジの顔を中心に向けられた光が暴漢たちの識別を不可能にしている。わかるのは、群がっている男たちのおよその体格と、にやけた口元と、濁った色の咥内だけだ。たっぷりと唾液を乗せた舌先で乳首をいたぶる様子に、内臓が冷えていく。
しゃがみ込んだ男はしきりにハンジの性器を撫でまわしていた。時折、太い指を強引に隙間にねじ込もうとしている。背後に立った男は、耳穴を舌で犯しながら尻にしきりに腰を押し付けていた。ハンジの口に指を突き入れ、耳朶を噛むたびに悲鳴を押し殺そうとするのを決して許そうとしない。
──気持ち悪い、気持ち悪い!
男たちの蹂躙に、ハンジの身体は正常な反応もできなくなっていた。不快を感じる部分はとっくに振り切れて、ゾクゾクと際限のない悪寒を生み続けている。
(……犯される)
怖い。今すぐ叫びたい。「助けて」と、大声で。
己の中の怒りが徐々にすり切れて、ただひたすら恐怖に飲まれていくのがわかる。それでもハンジは、助けを求める声を必死で殺した。
卑怯なクソ野郎どもは嫌らしいほど調査兵団の状況をわかっていた。今、戦える兵士が圧倒的に足りないのだ。
ハンジ自身が壁外に出られないような怪我を負えないのはもちろん、最終作戦に参加する新兵だって一人も欠かすわけにはいかない。彼らの人間性がどんなものであれ、調査兵団が壁内中の兵団からかき集めた貴重な人材だからだ。
人類の解放に、なくてはならない存在だ。
くそったれ、と胸中で罵りながら、ハンジは身体に与えられる刺激から懸命に意識を逸らしていた。彼らが他の女性兵士に対して同様の愚行を働いていないだろうかと考え、リヴァイの名前にえらくこだわっていたことを思い出す。
彼らはハンジとリヴァイの関係を誤解し、半ば興味本位でハンジを襲ったのだ。自分たちの立場を逆手に取って。
「集中してくださいよ、ハンジ分隊長」
「っ!」
裸の太腿を音が鳴るほど叩かれて、ハンジの意識は呼び戻された。
「ていうか全然濡れないなぁ、今日は兵長と何もしてないんですか?」
「ちがっ……」
回答など最初から求めていなかったのだろう。背後の男はしかたないな、とでも言うように肩をすくめると「そろそろベッド行きましょうか」とハンジの腕を引いた。ハンジがベッド、と絶望の表情で呟いた声は、男たちの足音にかき消される。
「俺らも本当に乱暴にしてまでヤりたいわけじゃないんですよ。娼館も良いところは金かかるし、ただヤるのもつまんないし、」
「どうせもうすぐ死ぬなら、なんか特別なことしたいなって」
知らず、男を振り返っていた。ただハンジを害そうとするだけだった汚泥のような存在が、闇の中で初めて、ぼんやりとだが輪郭を得る。
「……死ぬ?」
「え、だって死ぬでしょう?」
そう言って急かすようにハンジの背中や肩を押す男たちの手は、どれもこれも熱くて厚い、訓練を重ねた兵士の手だった。
抜け出したままの形を保っていた毛布の上に追いやられ、腕にわだかまっていたぐしゃぐしゃの衣類を奪われる。一糸纏わぬ姿にさせられる間、ハンジの頭の中にはぐるぐると困惑が渦巻いていた。
「お前たちは……命を捨てる前提で〝ここ〟にいるのか……? こんなことを……」
調査兵団の兵士にとって、『死』という言葉はあまりに近く、そして重たいものだった。仲間を亡くすたびにその重さを積み上げて、けれど立ち止まれないから自分の番に怯えながら前に進んでいる。
男たちはそんなものを当たり前のように口にして、他人を蹂躙する理由の一つに組み込んでいた。
ハンジには、あまりにも理解できない心情。
空気が変わったことに鼻白んだのか、男たちは乱暴にハンジの腰を掴むと身体を四つん這いにさせた。
「俺たちだって馬鹿じゃないんですよ。付け焼き刃の兵士が戦場でどういう扱いされるか、ちゃんとわかってますから」
「ね、だからさ、俺たちのモチベーション上げるためにも頑張ってくださいよ」
「こういうのも、いつも兵長にもしてあげてるんでしょ?」
一人がヘッドボードに背中を預けて座り、ハンジの前で脚を開いた。髪の結び目を掴むとグッと自分の股間に押し付ける。兵服の生地の下で息づく硬さを感じ、ハンジは今度こそ吐き気を催した。
腕を突っ張って逃れようとする姿に興奮を取り戻したのか、三人の手がハンジを抑え込む。その間に、目の前の男がこれ見よがしにベルトを外していく。必死で首を逸らすもナイフで背中を叩かれて、ハンジはとうとう『それ』と向き合わされた。
暗い室内で否応なしに届くのは、視覚情報よりもまず臭いだ。
『それ』は、むっと生臭い熱を発していた。直接触れずとも、湿り気を帯びていることがわかるほど。
首の後ろを掌で無理矢理抑え付けられ、屹立した欲望で顔の表面を撫でられる。男は何が楽しいのか、ハンジの眼鏡の縁を何度も先端で揺らし、カチャカチャと音を鳴らした。頬に軽く埋めて動かし、擦り付け、荒い呼吸を頭の上に落としていく。
「分隊長、ほら。口を開けて」
指がハンジの顎をまさぐり、唇をこじ開ける。噛みちぎりたい衝動をハンジはすんでのところで抑えた。
どこまでが拒絶の限界だろう。身体のどこかに常に凶器を押し付けられていても、こんな暴虐を易々となんて受け入れたくなかった。
男はハンジの舌を引きずり出すと、柔らかなそれに丸い先端を触れ合わせた。そして小さく腰を揺する。何度か摩擦を繰り返し、突然、ズッ、と性器を咥内にねじ込んだ。
「あ、ぅぶ……っ⁉」
「歯、たてないで……くださいね」
つるりとして弾力のあるものが、その性質を利用してハンジの喉奥まで入ってくる。えぐみのある臭いが鼻腔に広がり喉はハンジの意思よりも早く異物を吐き出そうと引き攣った。
ハンジを留めたまま、男は胸のポケットから光る鉱石の欠片を取り出した。苦痛に歪む顔の横に掲げ、滲んだ涙が弾く光を見てさらに激しく抽送させる。
「ん、ぶっ、うぐ、…っ!」
「いい加減従順になりましょうよ……なあ、ちゃんとしゃぶれってば」
「んぁ、ん、」
口蓋の凹凸で亀頭を遊ばせ、歯が当たれば髪を掴んで咎め、押し返そうとするハンジの舌が括れを撫でれば声を出して悦ぶ。頭をぐしゃぐしゃに掻き混ぜる指にも、ガチャガチャと揺れる眼鏡にも、先走りを口内に満遍なく広げようと動き回る『それ』にも。ハンジは目を閉じて耐える。
頑なに閉じようとしていた口内の奥が突然、びくんっと大きく動いた。
手と膝をシーツについていた姿勢から自然と突き出す形になっていたハンジの尻に、男の顔が近付いたのだ。両手の親指で尻肉を割り開いた男は、ぱくりと開いて露わになった濃い色のそこに、ふ、と息をかけると、尖らせた舌先でゆっくりと溝をたどり始めた。
「うん"っ、ゃ、あ"」
ぬるぬるとした唾液を摺込んだ男は、舌の広い部分をぴたりと性器全体に触れ合わせ、そのまま顔を小刻みに横に振った。敏感な感覚ごと揺らす刺激はハンジの腹の底まで響き、望まない熱をそこに蓄積させていく。
男はさらに腰をがちりと抑え込むと、喰らいつく深さと強さでハンジの入り口を蹂躙した。ふざけるようにちゅ、ちゅ、と啄ばみ、そうかと思えば柔い防壁の肉を口に含んで吸い、次第に綻び始めた隙間に舌先をねじ込み、内壁をこそぎ、抜き出し、挿入を真似て前後に頭を動かす。
「あ、あっあ や、だ」
戯れに後孔の窄まりをねっとりとなぞられた時には、ハンジの体は限界まで強張った。
前からは口の、後ろからは性器の粘膜を他人の体液に汚されるハンジは、手元のシーツを必死に握りしめ、内臓を直接舐められているような圧倒的な不安と不快とをやり過ごそうとする。……誤摩化したいものは他にもあった。
男たちは明らかに、ハンジの性感を高めるために動いていた。触れ方を十分に心得た手や舌が、感情を置き去りにしろ、体だけ開いてよこせ、とジワジワと攻め立ててくる。
屈したくない。屈したくなどなかった。
なかったのに。
「……ああ、濡れてきた」
嬉しそうに呟かれた言葉が、ハンジの中の壁を一つ、打ち壊した。秘部を開いていた指が、男のものではない粘つきを捉えたのだ。間髪入れず潜り込んできた男の指が、泣き出したハンジの内側を遠慮なくかき回す。ぐちゃぐちゃと聞こえてくる音が、ハンジに屈辱と羞恥を押し付ける。
けれども、呼吸が制限されているせいかその思考はぼんやりと霞み始めた。全身が膿んだように熱を上げ、剥き出しの神経を嬲られるたびに腫れ上がった患部を針で刺される心地になり、ハンジの身体は細かく波打った。
腕が力を失い、上半身がガクリとシーツの上に崩れた。勢いで口に埋められていた男根が抜け、しばらくぶりに開いた喉が空気を通す。めいいっぱい息を吸うも粘つく生臭さに犯されて音が濁った。
頭上から呆れた声がする。
「このくらいでヘタレちゃうんですか。しっかりしてくださいよ、いつも兵長の相手してるんでしょう?」
──殺してやる
脳裏を掠めた言葉に、ハンジはぎくりと動きを止めた。身体を占めていた怯えが、端からじわじわと赤い怒りに染まっていくのを自覚する。
死ね。死んでしまえ。
兵士たちに「生きろ」と叫びながら、同時に死の戦場へと駆り出すことが、ハンジ・ゾエの、分隊長としての責務だった。そうやって何人も死なせてきたのだ。決して、彼らが死ぬことを望みながらではなく。
なのに、指揮を飛ばす馬の上にいるわけでも、兵服をまとった分隊長でもない、ただの〝女〟として、ハンジは今、目の前の男たちの死を切実に願っていた。
戦場での名誉ある死ではなく、この手で切り刻んでやりたいとすら思っていた。
けれど暴漢どもには、兵士としての役目があった。ハンジの〝女〟を踏みにじる存在が、それでも兵士ならば。犯されているこの口で生きることを命令しなければならないのだろうか。こんな──クズどもに。
できない。したくない。
でも、それは許されない。
身体が二つに裂かれるようだった。
「もういいかな」
混迷を極めるハンジにそう声がかかる。弄られて熱を持った秘部にピタリと沿う異物の感触。
「まっ……‼」
気づいた時には遅かった。制止を求める手は届かない。
硬い先頭が合間に埋まり、閉じた部分を割り開きながら、ゆっくり、ゆっくりと進んでくる。少し進むと腰を引き、またもう少し進む。押し返そうとするハンジの壁はあまりにも無力だった。
「あああ、ぁっ」
「うあ。きっつい……」
ぬっ、ぬぢっ、と音を立てながら、男は緩急をつけて奥を開いていく。腰の動きはだんだんと大きくなった。
男は焦らなかった。ゆっくり、ゆっくりとハンジの体の中心を進み、ついには行き止まりに辿り着いた。ハンジの最後は、こうしてあまりにもあっけなく汚された。
隘路をみっちりと他人の肉に満たされ、身体中の毛穴から冷たい汗が噴きだす。口ははくはくと苦しさに喘ぐしかできない。強張って震える四肢も見開かれた目も、整わない呼吸も、挿入がハンジの体にかけた負担を如実に表している。けれど、男たちにはどうでもいいことだった。
男は一息つくと、触れていた腰をさらに強く引き寄せた。密着したままの鈴口が子宮口を容赦なく押し上げ、ハンジの内臓を圧迫する。
「ぅあ 、ぁ……」
「あー……めっちゃくちゃ狭いんだけど……」
「やっぱり憲兵の女とは違うか」
「さっさと終わらせろよな」
次が詰まってるんだから、と。衝撃で動きを止めていたハンジの脳に、その言葉は冷たく差し込んだ。
「つ、ぎ……」
「うん? そうですよ分隊長、全員一回はするし」
「兵長とは一晩で何回ヤるんですかぁ? あの人、回数すごそうですよね」
「──」
ハンジはただ、ゆるゆると頭を振るしかなかった。
リヴァイとは一度だって体を重ねたことなどない。片手じゃ足りない年数を生きのびて、誰よりも近づいて、けれどもそういう雰囲気になったことは今まで微塵もなかったのだ。
ハンジの心のどこかに〝女〟がいたとしても、リヴァイとハンジは兵士だった。
どこまでも、兵士だった。
犯されたことを知ったら、リヴァイはハンジをどう思うだろう。どう扱うだろう。今までどおり、ハンジを兵士として見ることに徹してくれるだろうか。
──それとも、傷つけられた〝女〟としてハンジを遠ざけてしまうだろうか。
皺だらけのシーツの上に、その背中を思い描く。
リヴァイは、調査兵団が払い続ける犠牲に静かな視線を注ぎながら、その心情の奥底までを誰かに明かすことは決してしない人だった。彼が周囲に、ハンジに求めるのは、同じ調査兵としての目線だけだ。
小柄な背中が、振り返ることもないまま、暗闇にぼやけて消える。
ハンジの眦から一粒、何かの発露がこぼれ落ちた。
男たちが蹂躙を再開した。
尻を爪痕が残るほど両手で掴み、ガツガツと奥を穿ち始める。十分に解れもしていない中を無理やり行き来し、痛みを訴えるハンジの体に慣れと麻痺を強要する。
不快な熱に乱暴に擦られた粘膜はだんだんとその温度に犯されて、ハンジの意思に関係なく潤んでいく。男の指が前に回り、硬い男性器を飲み込む入り口の上で赤く腫れ上がっている芽をぎゅっと摘んだ。
「んあっ、ぁっ!」
肉に沿ってピタリと沿うだけだった膣内が驚いたように引きしぼられる。その媚びた動きに男はだらしなく声をあげ、クリトリスをいじりながら小刻みに抽送を繰り返した。
「うああ! あっ──」
「あーっ、気持ちいい……」
「ハンジ分隊長、こっちもちゃんと最後までやってくださいよ」
シーツに埋めていた頭を叩かれ、ハンジはのろのろと顔を横向けた。男はいきり勃ったままの欲望の先を頬に擦り付け、虚ろな目のハンジにその解放を強いている。
伸ばした手は諦めだった。受け入れなければ終わらないからだ。
ハンジは男の腿に縋り付き、女を犯すことに興奮して涎を垂らす、赤黒い狂気に舌を伸ばした。芯を持って浅ましく揺れる性器のどこを舐めればいいのかわからず、脈動する血管に沿って下から上へ、後ろから突かれる反動を利用して緩慢な愛撫を繰り返す。男も小さく腰を動かし、ハンジの拙い動きからも快感を拾っているようだった。頬の内側に亀頭を強く押し付けられ、飛び出た部分を外側からぐりぐりと動かされ、無理を強行する男に口内のあらゆる箇所が軋んだ。
「あ、あ、出る……! んっ」
一際その熱が膨らんだ瞬間、男はハンジをペニスから遠ざけるとその顔面に向かって白濁を吹きかけた。びゅる、びゅくりと音が聞こえそうなほど間近でしぶいた性器を、ハンジは汚れたレンズ越しの無感動な目で見つめる。後始末まで強請ってきた男をハンジが頬張ると、その頭を別の男が撫でる。『次は俺だ』と教えているのだ。
「あっ……!」
背後の男が、ふいに律動を止めた。ぼうっと薄く意識を飛ばしていたハンジは、その焦りを含んだ声に意識を呼び戻された。そして、気づく。
胎内で、ビクリ、ビクリと震える性器に、皮膚の下でジワリと広がる生温い何か。
(……中に……)
「出ちゃったよ、はは」
「ふざけんなよお前、あとがあるんだぞ」
言葉とともに、繋がっていた体が離れる。ハンジを散々抉った欲望もあっけなく抜き取られ、いたぶられた余韻とぬるつきだけが残った。
ハンジを放り出して軽口を交わす男たちは、自分の撒き散らしたものが根付く危険など少しも考えていないようだった。
当たり前だ。「どうせ死ぬから」と、未来を投げ出してここにいるのだから。
今日この夜の出来事は、誰の中にも、どこにも残らない。
何も残さない。
「終わったんならどけよ、おら」
言うや否や、別の男がハンジの足に触れた。先ほどの手よりも大きく有無を言わさない強さだった。男はハンジを裏返して両足を広げると、腫れて濡れそぼった秘所にペニスを押し込んだ。異物感は最初だけで、あとはもう痛みと熱と、ただ『擦られている』という感覚だけがそこを占めた。
「はあ、ずっぽり入ったぞ……分隊長ったって、突っ込んじまえば一緒だな」
「おいおい、『兵長専用』だぞ、一緒じゃねえだろ」
笑い声があがる。
「そういや俺ら全員、人類最強と穴兄弟になるな」
「バカ! 見るたび笑うからやめろって」
男たちの誤解を解くタイミングはどこだろう。全て終わってからだろうか。リヴァイに迷惑がかからないようにしなければいけない。
そうぼんやりと考えるハンジを、上から男が覗き込んだ。
「ねえ、ハンジ分隊長。リヴァイ兵士長に俺たちのこと言いますか?」
そう発した存在を、何の感情もなく見返す。ハンジを犯すその姿はついぞ、闇の中で輪郭をなくしたまま。
「……言わないよ……誰にも」
なんだ、つまらないな、と騒ぐ男たちの声を聞きながら、ハンジは目を閉じた。見えないのなら、もう意味はない。
大丈夫、明日の朝には綺麗さっぱりなくなって、また彼の前に立てるはず。
瞼の裏に残るものは、何もなかった。
一、夕刻
鐘が鳴っている。
肌にまとわりつく湯気と何枚もの扉を通して聞こえるその音に、リヴァイは必死で耳を傾けていた。目と鼻と手指は今、意識のない女に占領されている。
──三つ、四つ、五つ……音は七つ目で止んだ。
消灯まであと、二時間。
タオルを広げ、重たい女の頭を包む。パイル越しに地肌をこする掌は、人の頭部を扱っているにもかかわらず危なげない。次第に湿り気を増す布を慣れた手つきで動かしながら、リヴァイはひたすら思考を巡らせた。
本日、成功でもって一段落した硬質化実験は一旦エレンを休ませるというかたちで脇に置き、リヴァイは明日、中央へ発つことになっている。
王都にいるエルヴィンから引き継いで、ヒストリアを連れてくるためだ。兵団のお飾り女王の仕事がひとまず終了したということだろう。誰よりも自分の役目を知り気丈に振る舞う部下を、せめて仲間の元で休ませたい。心からそう思う。
ミットラスまで単騎で半日。明日の早い時間にここを発つ予定だった。
あらかた水気を吸いとったことを確認し、リヴァイはタオルを畳んで浴槽の脇にかけた。女のぐったりと弛緩した身体をいよいよ隣室まで運ばなければならない。
ふ、と何気なく目を下ろした瞬間、浴槽の壁にもたれて力なく俯く女の項から生まれた水滴が、リヴァイの視線を奪った。首筋を前へつたって鎖骨の窪みに溜まったそれは、あっという間に骨の縁を越え、泡を流して拭ったばかりの肌をすべり落ちていく。膨らんだ乳房のふもとを、淡くへこんだ鳩尾を、リヴァイの小指の先ほどのヘソの脇を、柔さの少ない下腹を。
意志を持った指がなぞるように、するすると。うっすらと秘部を覆う焦げ茶色に吸い込まれた後も、リヴァイはそこから目が離せなかった。茂みの暗がりの中の小さな谷間と、張りのある腿が作り出す三角。ベルトの痕が残る薄紅色の皮膚の上には、小さな黒子が一つ。
リヴァイの喉がぐ、と動く。熱くなる眼球を抑えるように、強く目を閉じた。そしてゆっくりと、深く息を吐く。
再び動き出した手は、浴室の何よりも無機質だった。
眠る女に服を着せる動作が早くなった。
なんてことに慣れてしまったんだ、と頭を抱えたくなる。けれど『では他人にこの役割を任せるか』と聞かれれば、自分は絶対に首を横に振るだろう。
こんなトチ狂ったこと、部下や同僚に投げては気の毒だ。
──その理由に、まったく力がないことはわかっている。
固い寝台にぐったりと沈み込む女……ハンジは、服を剥がされ風呂に突っ込まれ全身を磨かれ、そうまでしても目を覚まさなかった。
ハンジ自身の「眠い」という言葉と、徐々に意識を朦朧とさせていく様を見ていなければ、リヴァイも『気絶』として医療班に抱えて行っていただろう。いや、こうまでしても起きないのはもう気を失っているのと同じではないのか。気絶と睡眠の違いがわからなくなる。
実験成功後、硬質化を利用した新兵器の開発案があるらしいハンジは、自身を心配するモブリットすらも軽くいなして研究室に駆け込んだ。それを制止したのは、他でもないリヴァイだ。焦れたような視線を無視して「休息をとれ」とハンジに命令した。机に向かう顔に浮かんだ疲労が、あまりにも濃かったからだ。
調査兵団の中枢が痩せ細ったツケは、幹部一人一人の負担として返ってきた。ハンジは特に光る鉱石が見つかってからというもののますます夜から遠くなり、「燃料の消費を気にしなくていい」と朝まで紙と文字に目を奪われている。
エレンの硬質化実験・訓練、技術班と連携をとりながらの新武器開発。巨人研究の要でもあるので、ケニーよりリヴァイに渡った『人間を巨人化させる』液体の分析、先の戦いで出現した巨人の詳細調査、鎧と超大型巨人への対策についても先頭に立っている。合間に、コニーの母親と思われる巨人の様子を見るためにラカゴ村までも赴いている。
壁内の情報統制に関して「一部に顔が効くから」という理由で呼び出された時は流石にリヴァイも苦い顔をしたが、ハンジは仕方ないだろうと笑っていた。
他兵団から移籍してきた新兵の訓練などはもっぱらリヴァイや他の班で行っているが、新しい武器が出来上がればハンジも指導者として訓練への参加が必要だし、最終作戦の調整には欠かせないだろう。
自室まで連れ帰る途中、ハンジが夢うつつにも語った職務内容は膨大で、リヴァイの把握していないものまであった。明日は自分がいないため、エレンに関する業務には手を付けないだろうが、正直それだって大した休みにもならないだろう。
ハンジの決して良くはない顔色を眺めながら、リヴァイはその髪に指を通した。立ち上る香りを嗅いで「しまった」と思うが、もう遅い。
ハンジに意識を向けたまま、彼女に触れてしまった。
後悔した後も、リヴァイの手はハンジの髪のあいだから離れない。厳しくリヴァイを見据えていた理性が、ゆっくり、ゆっくりと目を閉じる。空風を正面から受けたかのように喉が急激に干上がった。そのくせ、頭の中はどんよりと熱く重たくなっていく。
心を抑え付けることは、肉体の掌握よりもずっと難しい。首の根を捕まえて渾身の力で捩じ伏せても、そいつは飽きもせずリヴァイを見上げてくる。獣じみた眼で、獲物を喰らいたいという欲望を隠しもせず。
『少しでも、負担が減れば』
リヴァイに支えられてようやく自室に戻ったハンジが、意識を失う直前に呟いた言葉が、ずっと耳から離れない。
「お前は色々背負い込みすぎだ……俺にできることは少ないだろうが、もうちょっと他に回せ」
部屋に担ぎ込んだ時には目も開いていなかったハンジを相手に、きっとこの会話も覚えてないのだろうな、と思ったリヴァイはつい本音を零してしまった。意外にも返事が返ってくる。
「ごめん……でも、できること、なんでもしたいんだよ……」
ちっとも反省してねえと舌を打ちながらベッドの前に立ったところで、ハンジがか細い声で囁いたのだ。
「だって戦場じゃ、君が一番、……空を飛ぶだろう」
リヴァイに掴まる手が一瞬だけ、縋るように力を強くする。
「少しでも、負担が減れば、と思って」
リヴァイの背筋が、ゾク、と甘く痺れた。
こうやってハンジが〝兵士〟に向ける言葉を、懸命に拾い上げて大事にしている自分が、リヴァイは滑稽で仕方がなかった。滑稽で、それでもやめられなかった。
心が期待を持つと、身体も勘違いする。
長年募らせた思慕が、ハンジがリヴァイに寄せる兵士としての期待を「リヴァイ個人の無事を求めている」と、少しずつ歪めていく。ハンジが寄越す、あくまで同僚としての域を出ないはずの気遣いに触れると、リヴァイの身体は簡単に押し殺したはずの熱を甦らせた。
眠るハンジから、目が離せない。
産毛にのみ触れるような距離でハンジの額に手をかざす。盛り上がる鼻梁をたどって、吐き出される息を掌に感じ、最後に、微かに震える指先を唇にあてた。
ここに自分の同じものを当てても、思う存分吸い尽くしても、今ならきっと気付かれない。誰も知ることはない。
リヴァイはそっと顔を寄せる。
──脳裏に、過ぎる者たちがいた。
全てを知ることなく命を落とした部下。遺体も見つからなかった同僚。切り捨てた敵。
二度も勝手に去っていった男。最期の瞬間まで、リヴァイを見つめていた母。
リヴァイの中に残る、たくさんの死。
肉体を失した後も、生者に意味を託し続ける者たち。
募った欲望をここで晴らしたとしても、心の内で凝っているその想いは誰にも……ハンジにすら知られない。
どこにも残らない。無意味だ。
最終作戦で、どちらかが死ぬかもしれない。リヴァイは、だから動こう、という気にはどうしてもなれなかった。死線の先だけを見つめているハンジにとって、きっとリヴァイの想いは邪魔なだけだ。なりそこないの男と女の関係で終わるよりも、高潔な仲間として同じ戦場に立ちたかった。
どちらにせよ、ハンジを失ったあとの自分は長くは生きられないだろうとリヴァイは思っている。逆も然りだ。リヴァイとハンジは、戦いの場に置いて限りなく存在を重くする兵士だった。
リヴァイは指先を離した。ハンジの唇から掠め取った熱が空気に触れてなくなっていく。一人で生んだ熱は、誰かに分け与えた瞬間からもう消えていく。
ハンジの肌も、夜気にさらされた部分が温度と色を放出していくように見えた。心臓が止まった生き物と同じように、何もかも失くして冷たくなっていく、そんなふうに。
夜は熱の死ぬ時間だ。
大昔の自分が吐いた子どものような戯れ言を思い出す。
「じゃあ、夜明けは再生になるわけだ」
そのとき、そばにはハンジがいた。リヴァイがぽつりと零したものを、気まぐれに、馬鹿丁寧に拾い上げて、独りよがりに解釈してから雑に投げ返してくる。今でも変わらないハンジの悪癖の一つにリヴァイがそっと耳を傾けてみれば、やれ太陽は甦りの象徴だの、夜は死者の国だのの話が続き、最終的に始まったのが「そういえば巨人」だった。だからなのか、記憶はそこでふつりと途絶えている。
当時は聞き流していたハンジの声を、見逃した横顔を、リヴァイは横たわる女の上に映し描く。その瞳がリヴァイに向くことは、ない。
再生。
何度捨てても、殺しても、見ないふりをしても、思い出したように生まれては腹の底で渦を巻く、泥のようなこの熱にこそふさわしい言葉かもしれない。
そう考え、小さく笑う。
視線や掌に乗せても受け取る人間はいない。結局はどこにも残らずに消えていく。決してリヴァイを見ないハンジに、そんなどうしようもない熱が許されるような、ましてや肯定されるような気がしたのだ。すべては願望だ。
捲り上げていたシャツの袖を戻しボタンを留める。椅子の座面に置いていたジャケットを取り上げ、机の上のクラバットに手を伸ばし、──しばし逡巡する。畳んだそれは、結局は置いたままにした。
目を覚ましたハンジがこの痕跡に気付けば、日にちを置いたとしても必ずリヴァイの元に来るだろう。
『やあ、迷惑かけたね』
そんな言葉と視線だけで、きっとまたリヴァイは、兵士の顔をしてハンジの隣にいられる。
生まれては消えていく熱を自覚しながら、それでも何食わぬ顔で傍にいられる。
最後の瞬間だってきっと、彼女に兵士として必要とされたままでいられる。
リヴァイはもうどうにも諦められない自身を嘲笑いながら、僅かでも未来を見た行動を「悪くない」と思ってもいた。
ランプの戸を下ろし、静かに部屋を後にする。
鍵のかかる音の後、リヴァイが残した熱は、部屋の端から広がっていく闇に溶けて、すぐに消えていった。
〈了〉
(初出 16/09/04)
『DESPERATE』より再録