瞳よ、熱く君を映せ
ハンジと首だけになったリヴァイの話
瞳よ、熱く君を映せ
ハンジと首だけになったリヴァイの話
調査兵団第十三代団長、エルヴィン・スミスが振り上げた左腕は、屍と瓦礫が無惨に散らばる戦場で数多立つ白煙の中にあってなお強く、光を纏ったかのように天を突いた。
傷ついて地に伏した兵士たちはみな、面を上げて彼を仰ぐ。
そして、声。
人が持ちうる全ての力を極限まで溜めて爆発させたような、雄叫び。
辺り一帯に響き渡るそれが勝利の宣言だとわかった時、生ける者たちは皆、慟哭した。
壁の中の人類は、勝った。
解放の声が地を鳴らす。歓喜と悲痛と、もしくはあらゆる感情を乗せたその便りを、ハンジも確かに聞いていた。
けれど彼女は。
彼女だけは、空に眼を移すことも、叫ぶこともしなかった。
ただただ、裸のまなざしのまま、目前で熱を失おうとする瞳を見ていた。
「 ……お、わっ た のか 」
「うん」
「 す げえ、な 」
「うん」
リヴァイは、一目見て助からない状況にあった。
身体のほとんどを何処かに置いて来たせいでハンジの半分ほどの体長もない。
頭部だけが綺麗に残っているのは、きっとリヴァイが最後まで敵を見据えようとした証だ。
ハンジはその最期を見届けるため、ぎゅっと唇に力を込める。
彼を取り巻く血の黒は、冥府への穴に見えた。
「 はんじ 」
「うん」
「……なくな……」
「……うん……」
ハンジがずっと、心の奥底で愛していた男は、今まさに命を失わんとする時ですらハンジの濡れる目尻に眉をひそめ、泣くな、と願う奴だった。
ゴプリ、と口から溢れた血がその頬を汚す。
どうしても言葉に落とすことのできない愛しさをせめて指に乗せ、ハンジは際限なく流れる赤を何度も拭った。
「 ……はん、じ……」
「ここにいるよ……」
「 ……おま、に……い、たい ……ど……」
「うん……っ、なに……?」
そっと身を屈め、か細くて断続的な呼気を耳に受ける。
ぜいぜいと濁りが混じる声で、リヴァイは言った。
一度でいい
お前と寝たかった
ハンジは耐えきれずに嗚咽を漏らし、そしてぶつけるように喚き始めた。
「バカっ‼︎ バカ、バカ、バカ‼︎ バカりばい‼︎」
分隊を率いる兵士であることも、未知の恐怖を切り開く研究者であることも、ハンジはこの時、全て忘れた。
「寝ろよ! 寝てみせろバカ‼︎ なにおっ死んでんだ‼︎」
「 ……ぐ、っぞ…… 」
「抱いてみせろよ! 私を女にしてみせろっ! ねえ⁉︎ 逝くなっ、逝かないで……おねがいっ……‼︎」
泣き縋るハンジの手の下で、辛うじて動いていた胸が大きく盛り上がる。そしてリヴァイは、長く長く、肺から空気を抜くように息を吐いた。
「あ」
幾度もハンジの前を流れた、人の命の終わり。死にいく者の最後の息。
リヴァイがゆっくりと瞼を閉じた。
もしかしたら、光を失くした眼に、ハンジが映らないように。
それは下手くそな愛かもしれなかった。
**
調査兵団第十三代団長、エルヴィン・スミスの示した手の先に鎮座する"モノ"を見て、一番に悲鳴をあげたのはエレン・イェーガーだった。
「げえっ! 机に兵長が生えてる‼︎」
「……うるせえぞエレン」
「いや、えっ⁉︎ だっ、えっ……⁉︎」
今しがた閉めたばかりの扉に張り付き、エレンは震える指で机上の"モノ"を指差した。共に入室したアルミン・アルレルト、ミカサ・アッカーマンも、眼を見開いて声を失っている。
彼らの混乱もさもありなん。ソファに座り、その"モノ"の後頭部を見ながらハンジは思う。
「リヴァイ兵長の……生首……? しかも、喋った……」
自失から最初に立ち直ったのは、やはりアルミンだった。知性煌めく青の眼に、この世に存在するはずのない異様をしっかと映す。
団長の執務室の真ん中に位置する机の、湖面を思わせる天板の上に、彼はいた。
「ようお前ら、久しいな……」
リヴァイ・アッカーマン元兵士長の、生首。
首から下をスパッと失くした元上司が、エレン、ミカサ、アルミンを順々に見て口角を微かに震わせた。
三者、再びの絶句。
当たり前だ。大戦で夥しい数の敵を葬り死んだはずの人類最強が、なぜだか生首だけの姿で目の前に現れ、しかもなんか喜びに身(頭)を震わせている。
気を失わずに必死で状況に適応しようとしているだけでも、おそろしい精神力だと言えよう。
呆然とリヴァイ(の生首)を見つめる彼らに、さてどこから説明すべきか、と頭を悩ませていると、
「三人とも、今から話す内容は極秘のものだ。心して聞いてほしい」
エルヴィンの一声が瞬時に室内を緊張で満たした。
エレン、アルミン、ミカサは反射的に重心を正し、引き締まった表情で敬礼をする。
目前の奇怪より上司の言。立派な兵士になったものだ。彼らの辿って来た人生にジン、とハンジの胸が痛む。
「……ハンジ」
「はいはい」
ほんの僅かに湿った声の気配から「リヴァイも同じ痛みを感じたらしい」と察したハンジは生首をそっと持ち上げた。
「ひぃっ……!」
リヴァイの頭を膝に下ろすハンジに、エレンが小さく戦慄く。
構わず片手で頭を支え、懐から最近持ち歩くようになったハンカチを取り出し、彼の目尻に優しく宛てがう。
「チッ……ゴミが入っても自分で拭えねえ。不便だな」
「不便……⁉︎ そういう問題なんですか……⁉︎」
「実を言うと、そういう問題なんだ」
エレンの困惑を置いて、エルヴィンは話し始めた。
**
三ヶ月前の巨人との最終戦において、その終盤、調査兵団は司令塔を集中的に攻撃され散開した。
エルヴィンを守りながら戦う精鋭と、各隊の先頭に立ち指揮を執る幹部、連携をとり立ち向かう各班の兵士たち。
方々でブレードをしならせる彼らとは別に、リヴァイは圧倒的な機動性を生かして戦場を飛び回った。
己の肉体に課された全ての制御を壊し、視界に入る巨人を端から薙ぎ払い、仲間の声が彼を、救いを求めれば、骨さえ軋む速さで拾いに行く。
──そしてエルヴィンの勝利の宣言を聞くずいぶん前に、彼は死の淵に立った。
空中で聞いた破壊の音は、パキン、といやに軽かった。立体機動装置が彼の極限に耐えきれなかったのだ。生命線の死をリヴァイが察したその瞬間、巨人の掌が彼を横凪に払った。
耳の横で空気を裂く鋭さを感じた後、リヴァイは壁に叩き付けられた。
背中から激突し、弾かれて数m下の地面へ。わずかに受け身を取ろうと藻掻くもむなしく、破れた石畳にそのまま落ちて転がる。
脳震とうを起こしたのか、混濁した意識の中で数秒間、リヴァイは苦痛に喘いだ。
狭まった視界に黒と白が明滅し、血の匂いが起こす強烈な吐き気。どちらが上下か、空と地の区別もつかない。
そしてわずかに醒めた時、リヴァイの下半身は全く動かなくなっていた。
右腕も使い物にならなくなっている。
(どこか……屋内に……)
片腕をついてなんとか上半身を起こしたリヴァイの前に、奴らがいた。
地べたに這いつくばったままなので顔は拝めない。脚だけで数えるなら二体だが、建物の影にまだいるかもしれない。
──死ぬ。
リヴァイの脳内に、ポトン、と声が転がった。
──ここで死ぬ。
巨人の行進が、ズン、と響く。情けなく地に伏すリヴァイの、全身を揺らす。
誰よりも多く巨人を削いできた彼には、己の最後が手に取るようにわかった。
摘みやすいところ──今の場合は頭か──を気味の悪い皮膚の指に捕らえられ、獲物を見定めるように臭い息を吐く顔の前に掲げられて、ニヤけたまま飯を喰うように、あの地獄と同じ口内に──
ボロボロの体内から湧いたのは、怯えでも、命乞いでも、ましてや走馬灯でもなかった。
団服のポケットに押し込んでいた固くて小さな箱を、痙攣する手で取り出す。
──まだ何も
留め具を弾き飛ばして箱を開け、何重にも巻かれた布を噛んで引き千切り、露にした命綱。
──言ってないし、できてない。
リヴァイは、注射器を首筋にあてた。少しも迷わなかった。
**
「注射器……?」
「ロッド・レイスが所持していた物と同じ、巨人化の薬だ」
「え⁉︎……へ、兵長、巨人化したんですか……?」
「してねえ」
相変わらずハンジの膝の上に収まったまま、リヴァイはエレンの問いに素気なく答えた。
「身体も修復されなかった。俺ができたのは、ボロ雑巾みてえな身体で"動くこと"だけだ」
そして、戦って死んだ。ハンジの目の前で。
「でも……巨人化の……」
「そこはもしかしたらアッカーマンの血が関係しているのかもね」
ハンジがリヴァイの前髪を弄りながら独り言のように呟く。
「肉体の全てを己の制御の下に……アッカーマンの特異点は肉体ではなく脳にある……無知性巨人への否応無しの変化にも、特定の条件を経なければいけない知性巨人への変化にも、対抗し得るだけの力を持っているということか……?」
「えっと、お、恐れながら……それでどうして、今の首だけのお姿に……?」
アルミンの言葉に、ミカサとエレンも改めてリヴァイに目を向ける。
彼は普通の人間としてあり得ない存在だった。心臓も肺機能も何も、全てをなくして、生首だけで自律しているなんて。
「……一度死んだが、気付いたらこうなってた」
「………"こうなってた"、って……」
他に言い様がない。リヴァイの頭を抱くハンジの腕に、ぎゅ、と力が籠る。
そう、リヴァイは死んだはずだった。生き続けられる状態ではなかった。
目の前で起きた彼の"死"は、無防備なハンジをほとんど暴力のように襲った。
悲しみなのか、恐れなのか、とにかく「これ以上生きていけない」という強烈な衝動を彼女に浴びせかけた。
唇を噛み締めて血を流していなければ、すぐにでも狂ってしまう。ハンジの理性を繋ぎ止めていたのは、人類の解放にむせび泣く仲間たちの声だ。
それだって、だんだんと湖底に沈んでいくかのように遠くなっていく。
(──誰か、誰か。 私を、この世に抑えつけてくれ……)
痛みでも、怒りでも、何ででも構わないから──
「……なんって面してやがる」
すぐ近くでハンジを嗜める声がした。それはまるで、彼女の愛しい男の声帯が震えて起きたかのように、彼のものに似通っていて、
「………ん⁉︎」
ハンジは手元を見下ろす。そして息を止めた。
驚愕でもって、ハンジはこの世に留まった。
つい今しがた永遠に別れたばかりの男が、とても怠そうな眼でハンジを見ていたからだ。
「リ……ヴァイ……?」
生きてる? 生きてる。 リヴァイが。
信じられない。
けれど、数分前まで真っ白だったリヴァイの肌は血を通したように色づき、何より濁っていくばかりだった彼の瞳がくっきりと鮮明さを取り戻し、ハンジを見つめている。
「ハンジよ……再会を喜びたいが、とりあえず……助けろ」
いや、でも、助けるったって。
思わず目を細めながら逸らした視線に、ぐちゃぐちゃの身体が映り込む。
「首から下は……死んでる……感覚でわかる……」
何言ってんだこの男。
ハンジは困惑しながらリヴァイに問いかけた。
「え、え……どう、どうすればいいのっ?」
「……首を……落してくれ」
ハンジは言葉を失った。
「く、首を落とすっ? ちょ、死ぬよ⁉︎ あなた死ぬよ⁉︎ 今度こそ!」
「どっちにしろ、このままだと……あー……くそ、だるい……」
問答する間にも、生き返ったリヴァイの眼がグラグラと揺れ、舌がまわったりまわらなかったりを繰り返している。
様子がおかしい。
「たまをひっこぬかれそうな、かんかくだ……ハンジ、はやくしろ……」
常はよく回るハンジの頭も、この時は全く役に立たなかった。状況がさっぱりわからない。
それでも「壊死を放置すると最悪、敗血症の恐れも……」と弾き出した苦しい回答でもって、リヴァイの死んだ胴体と生きている頭を切り離そうと決意した。
そうしてハンジは、奇跡的に鞘に収まっていた最後のブレードを、彼の上で閃かせたのだ。
結果から言って、リヴァイはなぜか生き続けていた。
あの場を誰かに見られていたなら、ハンジは『人類最強の遺体を愚弄する悪魔』として処刑台に立っていただろう。
天性のカリスマを如何なく発揮してくれたエルヴィンに感謝しつつ、ついでに簡易的に張った司令部のテントの中でこっそりと、マントの下からリヴァイを取り出して見せた。
リヴァイが挨拶する前に、エルヴィンは号泣した。
恥も何もなく、顔も覆わずにおいおいと泣き始めた団長に、ハンジもリヴァイも度肝を抜かれた。
「エ、エルヴィン……」
「ハンジ……リヴァイの最期を見届けたか……」
「あ、うん、それ、」
「そうか……ハンジ……今は好きなだけリヴァイのそばにいていい……けれど時が来たら……」
「あの、はな」
「元の所に戻してくるんだ……」
未だ納得しない三人を見据えるエルヴィンの端整な横顔を見ながら、ハンジは涙に濡れた彼の表情を思い出していた。そして次に、「俺は犬猫の類か」と声を発したリヴァイを見た時の顔を思い出した。
滅多に見られるものではない、が、もう二度と見たくもない。
胸が潰れてしまう。
エルヴィンを見つめるハンジの腕に、ふっ、と息が吹きかけられる。
リヴァイだ。咎めるようなその行為を、ハンジは彼の頭を撫でて諌めた。
「ハンジの見解では、事前に打ち込んだ巨人化の薬によって、生首だけで自律できる機能がリヴァイの脳に生まれたのではないか、とのことだ」
「何言ってんだって話だけどね……でも人間の脳って元々その全てが機能しているわけではないらしいんだ。解明されていない未知の部分も多くてさ。あるいはそこに、人が生首だけで生きていける器官がもともと備わっていたのかも。それが薬で目覚めたとか」
説明するハンジとて、全く根拠も明らかでないことだとよくわかっている。
今日いきなりそんなことを告げられた三人とてすぐに受け入れることなどできないだろう。
「ええっ、と……?」
「し、信じがたい話ですね……」
「まあ、目の前にこうして俺がいることが何よりの証拠だ。……生首だけで生き残る価値が、俺にあるかはわからんがな」
ポツリと落ちた言葉にハンジは嘆息した。
「ねえ、三人とも。とりあえずさ、リヴァイに会えて嬉しくないかい?」
「……!」
兵団、また壁の中の世間に対して、『リヴァイは死んだ』と伝えられていた。
その身体も残らないほど、凄絶な最期を遂げた、と。人々は嘆き悲しんだ。調査兵団で彼と共に戦ってきた同志たちの悲痛など底なしだった。こうして奇異に表情をゆがめる彼ら三人も、それは同じである。
人類の進撃を阻む連中の思惑に嵌められ、調査兵団の存続も危うかった厳冬の時、エレンたちを含む104期を鼓舞し、守り、率いたのは他でもないリヴァイだ。
どんな戦いの最中にあっても、その背中は誰よりも強かった。
口が悪くて、時と場合には暴力も辞さない、そして驚くほど清廉な魂を持った、最強の男。
その彼が、生きていた。
「……リヴァイ兵長……」
それまで沈黙を守っていたミカサが、初めてリヴァイを呼んだ。不安定に揺れて掠れた、ただ彼を慕う部下の声で。
「……へぇぢょお……‼︎」
「リヴァイ兵長……どんなかたちでも、い"ぎで……っ‼︎」
エレンとアルミンも、途端に目から大粒の涙を零す。鼻から垂れたものと相まって奔流と化したそれらに、リヴァイも静かに、汚ねえな、と返しただけだった。
生首と部下の、奇妙で温かい再会。執務室の午後はゆっくりと過ぎる。
**
ただの女となったハンジ・ゾエが見せた景色に、リヴァイは驚く他なかった。
「……ハンジ……ここは……」
「新しい我が家さ。退職金つぎ込んじゃったよ」
戦後半年を過ぎた頃、ハンジはリヴァイを連れて出て行く、とエルヴィンに宣言した。
兵団を辞して、少なくはない金で田舎に小さな家を買い、荷物や手続きもそこそこに兵舎を飛び出した。
──もちろん、リヴァイの生首を抱えて。
空気穴を空けた頑丈な箱に分厚く柔らかい布を敷き詰め、最後にそっと生首を納めたハンジを見上げ、リヴァイは「何処へ行くのか」と問いかけた。
ハンジが「少し遠いところ」とだけ返すと、どうせ痛む尻もねえよ、と彼は目を閉じてしまった。
数時間揺られて辿り着いたそこは、ハンジとリヴァイの新居だった。生首を抱えた変人女が生きていくのにちょうどいい、狭くて小さくて、鄙びた場所にある家。
エレンたちとの再会の後も、リヴァイの生首だけの生存は極秘にされた。その存在が人々に与える影響が全く予測できなかったからである。
彼のことを知るのは兵団内の一部の人間と、新たに設立された研究機関の特別班のみ。
研究機関に預けられたリヴァイは数ヶ月間もいじくりまわされたにも関わらず、結局彼についての謎を解明することはできなかった。
どうしてこんなことになったのか、なぜ生きられるのか、寿命はいつなのか。
いくつか判明したこともある。
呼吸は必要だった。
口と鼻を覆えばもがき苦しみ、酸欠の時と同じ感覚に陥った、とリヴァイは話した。
──恐るべきはその呼気の強さというか。
涙まみれのエレンが「にしても兵長、さらに小さくなりましたね」と笑顔で言い放ったので、
必死で取り繕うアルミンの言葉を聞き流したリヴァイは、机上のペン(エルヴィンの私物)を自分に咥えさせるようハンジに指示したかと思うと、端を咥えた瞬間プッ、とそれを吹き出した。
ペンはエレンが立つ横の壁に物凄い速さで突き刺さった。その身の半分以上を白の壁に埋まらせながら。
四肢全てにみなぎっていた人類を超越する力が、生首だけとなった彼にどれだけ、どのような形で残されているのか、まだまだ未知数である。
……まあ、痛みによる躾が可能なくらいはある、らしい。
青くなるエレンと真顔になるエルヴィンを見ながら、ハンジはそう結論づけた。
それから、食欲は基本的にない。
固形物を食べて飲み込むこともできたが、喉奥に溜まっていたようで後でそのまま吐き出してしまった。
ただし、紅茶だけは飲む。
摂取した水分は戻って来なかった。何処に行ったのかもわからない。吸収する部分が脳にあるということか。
睡眠も摂る。目を瞑って植物のように沈黙する様を「眠っている」とするなら、およそ二、三時間。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。五感も正常。
生首の断面は厚い皮膚に覆われ、彼を物の上に置いた時の安定はもはや揺るぎない。
皮膚はきちんと代謝を繰り返したので、清潔を保たなければリヴァイはおおいにブスくれた。
彼の肌に馴染む温度の湯で洗うのはいつもハンジの役目だった。
そんな風に、生首というかむしろ別の生命体として爆誕したようなリヴァイを抱え、ハンジは新天地へと降り立ったのだ。
「お前……兵団を去るなんて一言も……」
「急に思いついたからね」
「……俺のせいか」
「リヴァイのおかげだよ」
薄暗い室内に脚を踏み入れたハンジは、閉じられたカーテンを引き窓を開け放つ。直前に管理者が清掃もしてくれたらしいが、よく見れば最低限のようだ。
これは早急に取りかからねば! と掃除用具を取り出す背中を見つめるリヴァイが、そっと重たく口を開いた。
「……俺に、それだけの価値はあるか……?」
弱くて、疑いに満ちた、ただの男の言葉。
薬を打ち込んだ時、強烈に求めた未来は、今のリヴァイの姿からはほど遠い。
ハンジは振り向かなかった。
「ここ数ヶ月……生き返ってからずっと考えてたんだが」
リヴァイの頭にずっとこびりついていた、冷たくて暗くて、一度覗き込めば引きずり込まれてしまう、そんな思考。
「もう、飛べない、何もできない俺は、生首だけの俺は……お前を縛り付けるだけの……」
奇妙で不可解で、邪魔な生き物だろうか。
「リヴァイは、どんな答えを望んでいるの?」
暗雲を真っすぐ裂くような声で、ハンジはリヴァイを遮った。
リヴァイに向き直ったその瞳は眼鏡のレンズの奥でキュッと窄まり、逃げることを絶対に許さない。
「そうだよ、無価値だよって言ってほしいの? それとも違うよって? で、私が何かしら答えたとして、それはあなたの中にストンと収まるのかな」
「……」
「十数年も捧げた心臓を返してもらって、今度はここであなたのために鳴らそうとしてるんだけどさ。 それって答えにならない?」
「──ハンジ」
「リヴァイ、あなたはどうしたい?」
何処に行きたい? どうやって生きたい?
己の身の振り方について、──死に際に彼がハンジに願ったことについて、この半年間全く何も言わなかったリヴァイに対する怒りが、ハンジの腹の底から湧き起こる。
それは凶暴な熱となって体を突き上げた。
「リヴァイが何も言わないから、こんなとこまで連れて来ちゃったよ? どうしようか? 戻りたい?」
「ハンジ」
「私はね、戻りたくない! 全部放り投げて来ちゃったのに、みんな優しい顔で背中を押してくれたんだよ! "どうかリヴァイと幸せに"って‼︎」
ハンジは机の上で唖然とするリヴァイを見つめた。
この真っすぐな黒髪が、青灰の虹彩が、滑らかで熱い皮膚がハンジを惑わす低い声が顎や頬の固い骨が、彼の全てが失われてしまうあの直前、ハンジはちゃんと、彼に請うたではないか。
抱いてみせて。
ただの女にして。
──逝かないで。
余人がいくら幸福を願ったところで、リヴァイが望まなければ、求めなければ、全くもって意味はないのだ。
「首だけとか、気にする前に……ちゃんと、言いたいこと言えよ……」
「ちゃんと……」
「私のことは二の次でいい。どうでもいいことに時間は割かない質なんだよ。ねえ、知ってるだろ?」
「……!」
「どうしたい? 何がしたい? できるかどうか、するかどうかはそれから考えよう?」
「……俺は、」
窓から入り込んだ風に、リヴァイは匂いを感じた。夏の初めの、草木が温度を上げる直前の、そんな匂い。
そして、暖かさも、柔らかさも。
リヴァイはまだ、生きていた。
「お前と寝たい」
愛しい女の肌を受けて、その瞼が小さく震えた。
**
裸の胸に抱かれ、髪を梳かれながら、リヴァイは微睡むハンジを懸命に繋ぎ止めていた。
「仕事はどうするんだ」
「んー……巨人研究について……民間に委託されることになっただろ?」
「まあ、実質調査兵団の傘下みてえなもんだと聞いたが……」
「退役って形にはなったけど、そこの顧問として仕事を貰うことになったんだ……研究書の編纂とか、管理とか……」
ひとまず生活の心配はないということか。
安堵する頭の上でハンジが深い溜め息をつく。リヴァイは思わず、柔らかく上下する膨らみの頂点を噛んだ。
「ちょっ……」
「寝るな」
「だって、朝から馬車で揺られっぱなしだったし……」
「……俺はまだ何もしていないんだが」
意図せず拗ねた口調になってしまったことに、リヴァイは「クソ」と小さく毒づいた。
ハンジが、ふふ、と笑う。
「首だけになってもおっさんはおっさんだねぇ」
「当たり前だろうが」
「そうだね。人類最強の称号を失くしたあなたは、少し甘えたで、偏屈で、なのに馬鹿正直で、面倒なただのおっさんだ」
「……そんなおっさんには、そのうち、飽きるかもな」
ゆっくりと、ハンジが身を起こした。シーツの上に転がる頭を抑え、ひたと視線を合わせる。
「懲りない人だなあ」
「……お前を、喜ばせることもできねえ」
「おや? 意外と世間知らずだね。その唇と舌は何のために付いているのやら」
リヴァイは瞠目した。
「お前……俺が首だけになったこと、あんまり重要に思ってないな?」
「遅い!」
夜に似つかわしくない、明るい声が弾けた。
明日から二人に開かれたるは、奇想天外で予想もつかない、人の目には触れられない毎日。
歩く足は一人分、両手は生首で埋まっている。
「ああでも、リヴァイが首だけになって一つだけ残念なことがあるなぁ」
「……なんだ」
「もうあなたが淹れた紅茶、飲めないんだなって」
「教えてやる。覚えろ」
それでも、己を映す互いの眼に。
二人は何度も笑うだろう。
〈了〉
(初出 15/12/01)