花往く路の先
遠い場所で出逢う少年少女の話
花往く路の先
遠い場所で出逢う少年少女の話
目指す街に近づくにつれ、車内には人の数が多くなった。
少年の隣りにも数時間前に停車した駅から知らない男が座っている。
恰幅の良いその男が分け合った座席の半分以上を占領しているせいで、小柄な身体の少年は窓際に押し付けられ、男の大仰な笑い声と線路を駆ける振動に無遠慮に揺らされていた。
汚れた木枠に囲まれて後ろに流れて行くばかりの、青く澄んだ空と薄い緑の地。
故郷とは違う匂いの風が少年の黒い前髪を巻き上げる。
目前を通り過ぎて行く民家を数えようと少年がもう何度目かもわからない試みに目を瞬かせた時、ゆるくカーブした線路が伸びる先の地平線に、小山が出現した。
「『トゥフロレ』だ!」
誰かが叫ぶ。
乱雑だった車内の喧噪が示し合わせたように窓の外に向いた。
少年は青灰の瞳を煌めかせ、徐々に街の形を成していく塊を見つめる。幼さが消え去った顔に、ほんの少しの疲労、固い決意と。
他人には窺えない、複雑な何かを乗せて。
タラップから下りた少年の足は異郷の地をしっかりと踏みしめた。歳のわりに大層鋭い目が、構内の端から端、人が溢れかえる駅を用心深く見渡す。
長旅の疲れによろける客、家族や友人との再会を喜ぶ客、車内で交流を深めた人間と次の機会の約束をする客、荷物が紛失したと騒ぎ立てる客──
少年は溜め息を一つつき、トランクを持って歩き出した。
──賑やかな街だ、と。それしか聞いたことねえな。
(……騒がしい。妙なニオイもしやがる)
二週間前に少年が暮らす街を発ってから、今日、やっと吸い込むこととなったこの地の空気。
期待したほど心地いい物ではなかったためか、少年の眉間に深々と皺が寄る。
少年が南の地方で一番大きなこの街に訪れたのは初めてだった。
南部各街の交流の中心地であり、近年は商業都市として栄えているという話のとおり、この街の建物と建物の間には常に活気が満ち満ちていた。
そこら中で多種多様な人や物、音や匂いが行き交っている。けれど少年の目に映るのは、ごちゃごちゃと喧しく五感を刺激する、煩わしい街。陰鬱な気分で駅の人波からまろび出た少年は、ものの数分でさらに途方に暮れた。
道がわからない。
目的地はあるのだが、どうやってそこに行けばいいのか、今いる場所はそもそも何処なのか。
この街の地図はどこで手に入るんだ? 案内所は?
まさか駅に戻る必要があるのか、と振り返った少年の目の前に、突然帽子を被った男が転がり出てきた。男は不安定な体勢を直しきれず石畳に思いきり突っ伏する。
男の抱えていた大きな荷物がそこら中にぶち撒けられた。飛び出た酒瓶がコロコロと回りながら少年の足元にたどり着く。
驚いたのは少年である。
手を貸そうと足を踏み出した時、男が悪態をつきながら顔を上げた。
草臥れたハンチングの下の痩せた頬には、脂汗と焦燥。ギョロリとしたその視線に認められ、少年の身体に緊張が走る。
「待てーっ‼︎ コソ泥が!」
男の後ろから飛んだ怒号に少年が気を取られた瞬間、素早く起き上がった男が己の帽子を少年に押し付けた。
手の中の小汚い布に呆然とするうちに走り出した男は雑踏に紛れ、少年がその背中を探す頃には代わりのように別の男たちが現れていた。
「いやがった こんの泥棒め!」
「ぁあ?」
少年を泥棒呼ばわりしたその男はがっしりとした体躯に鈍色の制服を纏っていた。
フサフサとした金髪に乗る糊のきいた帽子、腰にぶら下げた警棒、そして、薔薇の紋の腕章。
(……警備隊の人間か)
少年の知る姿とは少し装いが違うが、薔薇の紋を掲げられるのは警備隊に所属する兵士だけである。
警備兵の後ろから息急き切って現れた男に、少年は見覚えがあった。駅構内で『荷物がなくなった』と騒いでいた客だ。
「兵士さん、この子、っですか?さっきの男と、違い」
「上下黒、小柄! あのきったねえ帽子! ガキのくせに凶悪なあの面! 証拠十分だ!」
(ふざけんな、不十分だろうが)
少年は口を開いたが、どんな言葉を吐けば自分の嫌疑を晴らせるのかさっぱりわからず、結局舌打ちしかできない。
その態度を見た兵士が気色ばんだ。
(ああ、クソ)
こんな時、母親に嘆かれた顔と回らない口が憎らしくなる。
「……!」
不意に目の前に現れた手を、少年は横跳びで避けた。ほとんど反射だった。
避けられたが、速い。
少年が捕縛の手を逃れたことに、兵士は一瞬だけ呆気にとられていた。
が、すぐに獲物に向き直る。少年の身のこなしに警戒を強めたらしい。
爛々とした眼で少年を睨み、分厚い布の上からでもわかるほど隆々とした筋肉を漲らせて少年の次の動きに備えている。
逃げる隙がない。背を向ける時間で脚に跳びつかれて、地面に引き倒されるだろう。
──上手くやれ。厄介ごとがさらに複雑になんねえようにな。
(そんなことはわかってる……)
証拠の一つである帽子を投げ出し、少年は軽く膝を曲げて身構えた。睨みつけるその視線は不穏で鋭い。
「……抵抗する気か?」
兵士の手が警棒にのびる。
その時、さらりと風が吹いた。
「ウィアトル!」
明朗な声が空気を破る。
と同時に、少年の背中に勢いよく何かがぶち当たった。背筋を走り脳天に響く衝撃。
「っ……!?」
全神経を前面の敵に向けていた肉体をいきなり後ろから脅かされたのだ。
臨戦体勢はあっけなく瓦解、少年は情けなくたたらを踏み、どうにか地面に膝をつくことから逃れる。
兵士どころではない。背後を取られた。首に腕をまわされている。
「すっごく探したんだよ!? 駅の中で待っててくれって言ったじゃないか!」
声も上げられずに振り返った少年が見たのは、目を細めて彼を見下ろす、全くもって顔も知らない、
(──女?)
乱雑に括られた髪は渋い紅茶の色。
あっさりとした蜂蜜のような肌。
弓なりに筋を作った鼻。
銀枠の華奢な眼鏡を一枚隔てた、強くて力のある瞳。
やはり知らない人間だ。そして女で間違いがないようだった。背に当る身体は柔らかい。
少年は緊張を解いた。女の榛色の虹彩が親しげに彼を写していたからだ。少なくとも兵士よりはマシだ、と判断する。
力を抜いた少年に小さく頷くと、女はとぼけた顔で兵士に目を向ける。
「おや、どうしたの? まさかまたその人相が原因で絡まれた?」
「……うるせえ」
肩を一つ、二つと叩かれ、女の後ろに下がる。
「どうも、ご苦労様。精が出ますね」
女が笑いかけると、驚く事に兵士は敬礼で返した。が、その意識は抜かりなく少年を刺している。
「……お嬢様、その少年と知り合いで?」
「彼は私の友人です。名前はウィアトル。今日ここで会う約束をしていたんだ」
兵士の態度。お嬢様。友人。
(何だこの女)
「彼には窃盗の疑いがありましてね。事情を聞きたいんですが」
「事情だってさ。何があったの?」
ひょろりと高い背が、舞うように少年を振り返る。
「……男が目の前でこけて、荷物が散らばった。そいつはコレを押し付けて逃げた」
ぼろ切れのような帽子を顎で示し、少年は低い声で答えた。
「ふむ。これがその荷物?」
「……そうだ」
女は周りを見渡し、大げさに肩をすくめた。
その場違いな朗らかさが周囲の緊張を強引に薄めていく。
兵士も、兵士の後ろで呼吸を忘れたように縮まっていた客も、その表情にだんだんと困惑を滲ませ始めた。
「よし! じゃあまず散らばった荷物をちゃっちゃと片す! ほら、三人とも拾って拾って!」
女の号令に、兵士と客は慌てて動き出した。
「ウィアトル。ぼーっとしてないで」
女は少年にも急かすような視線を投げる。
──場を飲み込んじまう奴には、逆らわないほうが賢明だ。命の危険がありゃ別だが。
(くそ……)
少年は渋々と道に目を落とした。
十分前は敵意で向かい合っていた男たちが、今は尻を並べて地面にうずくまっている。次々と現れる人の足をはね除けて革靴を拾い上げた少年はここが駅前であることをようやっと思い出した。
人通りの多さから考えて、一連を目撃していた人間がいるかもしれない。
(というかあの女どこ行った?)
「諸君、どうもご苦労さま! 目撃者を連れてきたよ!」
満面の笑みの老婆と腕を組み意気揚揚と現れた女に、三人は疲れた顔で返事をしただけだった。
**
「や、災難だったね。あの兵士は腕は良いんだけど少し熱くなるきらいがあって。悪く思わないでやってよ」
「それは腕が良いとは言わねえ」
「おや手厳しい」
老婆は駅前の飯屋の店主だった。店番を雇い人に任せ店前で一服していたところで、少年の冤罪事件の始終を目にしたと言う。事実は判明したが、犯人は消えた。
荷物が多少の泥をかぶって戻って来た客は、兵士と女と少年に丁寧に礼と謝罪を述べて去って行った。
兵士は、予想に反して少年に素直に謝ってきた。そして少年がひとつ頷いて返すと、さっさと仕事へ戻って行った。
老婆は、店で問題が起こったらしい雇い人に呼ばれて老婆らしからぬ俊足で戻って行った。
最後に、呆気にとられる少年を背中を叩いて正気に戻したのは、女だった。
そしてその女はと言うと、
「さっきの手を躱す動き、見てたよ! すっごく反応がいいんだねえ、ビックリしちゃった。あっ、もしかして君も兵士なのかな? 正規兵?」
「……」
なぜか少年の横を歩いている。
日は中天に座していた。
二週間も汽車の揺れに耐え痛む尻を携えて、街に降りてみれば泥棒扱い。そして恩人とはいえ、奇妙な女に纏わり付かれる始末。
少年は己の少しの不幸を呪って女に向き直った。
「……礼はしたはずだが、金か?」
「別に困ってないよー。現在進行形で困っているのはウィアトル、君の方だろう?」
「何の話だ」
「今どこに向かっているの? 道に迷ってるんじゃないかな」
「……」
少年の口がそう達者でないことを差し引いても、何かと彼を沈黙させる女である。
だいたいこの女、「お嬢様」などと呼ばれていたわりには、ちっともそれらしくなかった。
背は少年より高いし、髪はあちこち飛び跳ねているし、簡素なシャツに細身のズボンで、少年とて先ほど触れた身体がなければ未だに性別の判断に迷うところだ。
故郷で少年の周りにいる異性はもっと、小鳥のように姦しく、そして華やかなのに。恥じらう身振りで俯いて、この女のように真っすぐと見つめてくる事などないのに。
女の瞳は不思議だった。
暖かい木肌のような茶色かと思えば、光を透かした若葉の緑にも、秋の野原の金色にもなる。
眼鏡越しで良かった。
そうでなければ、そのまま吸い込まれそうなほど、強くて──。
(アホか)
少年は振り払うように目を逸らした。
「目的地はどこ? 宿? 道案内するよ」
「……宿は決めてない」
「そうか。長旅で疲れているだろう? 中心地から少し離れているけど、お勧めの──」
「お前、一体なんなんだ」
疑惑がしんしんと募っていく。
なぜ少年を助けたのか。なぜ助けようとするのか。どうして少年の来し方を知っているような口を利くのか。
(お前は、誰だ……)
女は優しさを湛えた笑顔で少年を見た。
宥めるように。
安心させるように。
「私はハンジ。ハンジ・ゾエ。この街の住人だよ」
ハンジ。
不可思議な存在は名を持った瞬間、その輪郭を濃くする。
「君、大きなトランク持って疲れた顔してるし、せっかく仕立ての良い服を着ているのにお尻や背中が皺くちゃだよ。汽車で長く揺られたんだろう? 遠方から来たんだね」
あと少し汗臭いよ、と続いた言葉に少年は顔を歪めた。
正解だ。存外わかりやすい理由で少年の経路は知られていた。
「それから兵士に詰め寄られた時、一発かまして逃げようとしたね? ここの警備隊の情報網を侮ってはいけない。すぐに街中を歩けなくなる」
さっきの犯人だって夕刻には捕まってるよ、とハンジは両手をあげる。
「だからあんな小芝居うったってことか」
「お節介だったかな?」
そうは言えない。事実、ハンジの機転に助けられた。
覗き込んでくるその瞳に少年はまた顔を逸らす。
「あと、えーっと、知りたい事は? ウィアトル」
「……その、ウィアトルってのは何だ」
「古語で『旅人』って意味だよ」
ハンジは最初からネタばらしをしていたわけだ。その神経に少年は呆れ返った。
「それでだ。君さっきから足取りはしっかりしてるのに、目線が時々上向きにふらふらしている。急に道を変えた先で次の道を探したりしている。これは『道に迷っているけれど人に尋ねにくい』の表れ。違うかな?」
癪だがやはり、正解だった。
目的地の支号まで頭に入っているし、地図も手元にあるというのに、少年はどうにもこの、バラバラの背丈、外観の建物が細々とひしめき合う街に負かされてしまったようだった。
助けを求めれば良い話だ。
〝自分は困っている。助けてくれ〟と。
けれど、出来ない。
自身を大人へと押し上げたがるその矜持のために、少年は自分で自分の喉を塞いでいる。
少年は今まで、一通りのことは自分でこなして、なおかつ不自由なく暮らしてきた。己の対処が可能な範囲を超える事態には出会った事がなかった。
今日、知らない罪を着せられて、『そんな事態』に遭遇して、初めてそれが起こりうる事を知った。足をつけていたちっぽけな世界が端からポロポロと崩れる音がする。
少年の無表情の下で、焦燥感が激しく渦を巻いた。
──お前…空でも飛べりゃあ良かったのにな。
不意に、熱い塊が少年の胸を満たした。目の届く何処にも、少年の知らない人間しかいない。
いざ助けを叫んだ時に、誰が手を差し伸べてくれると言うのだろう。
生まれた土地からずっと遠い、本当に遠いこの街で、少年はたった独りーー。
「君が望む所まで、私が連れて行くよ」
少年の小さな孤独を破ったのは、温かな声だった。
「……なぜだ?」
「まあ、お詫びの意を兼ねてね」
「詫び」
「せっかくこの街に来てくれたのに、泥棒に罪を擦りつけられたり兵士に喧嘩ふっかけられたり、散々だったろう?」
ハンジは続ける。
「私、この街が好きなんだ。この街に来た旅人さんにだって好きになってほしいと思ってる」
(……そんな理由で)
少年がこの街を好きになるかと言えば、答えは否だ。ここに来るまで、来てからも、うんざりするようなことばかり。絶対に叶わない願いだ、少年が拒絶すれば、ハンジはその親切を押し込めて笑顔で去るだろう。
拒絶すれば。
──自分には助けがいる、と自覚しろ。
(自覚、した)
だから、拒むなんて無理な話だった。
**
ハンジから渡されたその食べ物は、開いた固いパンに肉と野菜を強引に挟んだものだった。
無理やり齧りつくと、口いっぱいに広がる充足感、パンの香りと肉の旨味。
悪くない。
少年は咀嚼を続けた。
ハンジと少年は噴水脇のベンチに並んで腰掛けていた。
ようやく助けを得た少年の腹が大きな音で空を訴えたために、一旦昼食を摂ることになったのだ。恥ずかしさから顔を顰めたままの少年にずいと差し出されたのは、ハンジお勧めのサンドイッチ。
器用に口を動かしてさっさとそれを平らげたハンジは、少年が食べ終わるまでにこにこと彼を見ていた。
「さて、君の行きたい所ってのはどこなんだい?」
「……ここの、宛先だ」
少年が上着の内ポケットからそっと取り出したのは、掌ほどの大きさの封筒だった。良質な用紙に落とされた封蝋に一瞬だけ目を留めたものの、ハンジは記された住所を見て眉を下げる。
「ここから真逆じゃないか! 君って迷子の才能があるね!」
「うるせえ!」
「あっははは! まあこの街は道が複雑に入り組んでるから、歩いてるとわからなくなるんだよね。上から見れば地図どおりなんだよ」
短い爪の指が膝の上に広げた地図の上を楽しげに、軽やかに踊る。
「君、空でも飛べれば良かったのにね」
「……前に同じ事を、人に言われた」
「へえ? もしかして『リッタイキドウで飛びまわれたら』とか言われたのかな」
「立体機動装置か。……あれは固定された建物なんかにアンカー刺して、ワイヤーを巻き取る力で跳び上がるモンだ。鳥みたいに自由に飛べるわけじゃねえ」
ハンジの目が驚きに見開かれた。
「そうそう! よく知ってるねぇ。というか、知ってる人に初めて会ったよ!」
「……実物を見たことがあるだけだ」
「と、言うことは……貴方もしかして旧都から来たの!?」
旧都ミットラス。その昔王政の中心を誇った都市である。
ハンジの言うとおり、少年はミットラス出身だった。市街地に敷設された鉄道を使ってここ『トゥフロレ』に来たのだ。
「まさかそんなに遠くから……この手紙の住所に居候でもしに来たわけ?」
「しねえよ。目的を果たしたらすぐに帰る」
「ふうん、慌ただしいねえ……。じゃあ、そろそろ行こうか」
二人はハンジ曰くの『真逆』方向に歩き出した。
一つとして同じ形のない建物の群れが青い空をどこまでも切り取っている。夏を過ぎた涼しさを感じられるが、少年の知る初秋よりは少しだけ暖かかった。
「歩いて三十分くらいかな。宿はその場所の近くで探そうか」
「……頼む」
「ぶふっ」
隣からの噴き出す声に少年は訝しげな目を向ける。
「ウィアトル、君って面白い人だね」
「……お前は、わけわかんねえな」
結局、少年はウィアトルと呼ばれていた。
ハンジが旅人として少年をひとときだけでも歓待したいと言うなら、それで満たされるというなら、少年は別に訂正することもないと思った。
どうせ正しい名前を知る人間は、ここにはいないのだ。
自分の足取りが微かに軽くなったことに、少年は気付かないままだった。
「さっきの『立体機動装置』の話だけど、ミットラスではまだ使用されてるの?」
「祭りとか王族の式典とか、そん時くらいか。ちゃんと使える奴がもういない、らしい」
発明された当時は人間の宙での行動を可能にする画期的な装置だったが、その代わりに肉体に過度の負荷をかける物だった。必要がなければ持ち出される事もない。ミットラスの外の地域で使われる事はないし、ミットラスでも使用される機会は滅多になかった。
と、ハンジの眼が俄かに煌めく。
「──ミットラスには、まだ『カベ』が残ってるんでしょう?」
「……少しだけな」
少年の生まれるより以前ミットラスを囲っていたという巨大な『カベ』は、今は春先の溶け残った雪のように、あちこちにまばらに見られるだけだ。少年の膝ほどの高さもないそれらに代わり、化粧石に覆われたブロックを芸術的に組み上げた白い壁が今は都市の周りをめぐっている。
「そうか、行ってみたいなぁ、旧都。『キョジン伝説』の中心地だもんね。史料もたくさんあるだろうし……」
(『キョジン』……)
『カベ』も『立体機動装置』も、かつて人類を脅かしていた『キョジン』に対抗するための物だった。
ほんの数十年前だ、と年嵩の人間は言う。けれど彼らも『キョジン』を直接見たことはなかった。人間を何十倍にもした『キョジン』たちと戦った人間は既に世から失せて残っていないのだという。実を知らない人々が伝聞や文字から作り上げたその存在は、今や伝説に近いものとして誰かの口にのぼるだけだった。
と、少年の脳裡で、〝彼〟が鮮やかな色を取り戻す。
幼かった少年の言及に、彼は二、三度口を開閉して…何も言わないまま目を伏せた。
その時の少年は、「やはり彼も『キョジン』など見たことがないのだ」と肩を落とした。そして起こってしまった彼への失望にいささか恥じ入った。
赤い感情と、彼のもの言わぬ横顔だけが強烈に残っている記憶である。
少年は頭を振った。
「南方にも『キョジン』伝説があったはずだが……」
「そう! そうなんだよっ!」
少年がぎょっとするほど近づいてハンジが叫んだ。
「旧都で起こった巨人戦争を経て、人類は二つに分かれたんだ。人類だけしか認めない人間と巨人たちと共存を図る人間だ。後者が南に流れて興した集落がここトゥフロレのルーツだと言う説があって、旧都と南方が十年ほど行き来を断絶していたという史料からもその説は、」
突然始まった演説に、すれ違う人間が誰も彼も二人を振り返る。が、皆ハンジの姿を認めると苦笑いをして顔を戻してしまった。中には共にいる少年に「おや?」という表情を向ける者もいたが、話しかけてくる事もなく去って行く。
どうやらハンジ・ゾエは街の住人に存在が広く知れ渡っているらしい。この熱中が過ぎる喋りもいつもの事のようだ。
「よせ……近い!」
「あ、ごめん」
一応謝罪をしつつも、ハンジはまだブツブツと呟いている。
「史料は少ないけど推測としてはこの街が一番有力なのに……どうしてこうも『キョジン』の記録が残っていないんだろう……」
「おい、道はこっちで合ってるんだろうな」
「あ、うん。あそこがご希望の場所さ」
「ぁあ!?」
ハンジが指した先に、少年は愕然とした。白い壁に糖蜜色の窓枠と屋根、玄関には色とりどりの花々。
淡い緑の看板に掲げられた文字は、
「……紅茶専門店?」
「この街で随一の紅茶店だよ。てっきり視察にでも来たのかと思ってたけど……違うみたいだね?」
少年の持つ封書の宛名には、その店の主の名前が記載されていた。
**
店主は不在のようだった。
ならば、と店の者に封書を見せると、少年はそのまま大慌てで奥に通された。
そう広くはないが清潔な応接間の、質の良いソファに座るのは、少年一人だけ。ハンジは着いて来なかった。
背を向ける彼女に「どこにいくのか」と問うた少年に向かって、「そんな顔しないで。そこらへんにいるから、終わったら合流しよう」と笑顔で一言。
頷いて、ここまで来て、そもそもあれでは自分が寂しがったような言い方ではないかと少年は気付いた。
道案内が終わってまで付き合ってもらう義理も、ない。
それとも、本当に宿や、ましてやここにいる短い間の面倒も見るというのだろうか。
ハンジがそう申し出たとして、少年の内にはそれを少しも断る気が起きない。
半日も経っていないというのに、少年のハンジに対する警戒心は微塵もなく消え去っている。
(……クソ)
と、慌ただしく扉が開く音。
「お待たせして申し訳ありません! まさか当日に来られるとは思いませんで……おや?」
軽やかな声で室内に入ってきたのは、壮年の男。
「もしかして…坊ちゃんでございますか?」
少年は歪もうとする表情筋を懸命に抑えた。
「十年以上前に一度だけお会いしたきりですからね、覚えていらっしゃらないでしょう?」
「……はい」
「ご家族の皆様はお元気でございますか?」
「……息災です」
どうやら少年の親族と縁故のある人物らしい紳士は、少年とも面識があるという。少年には覚えがなかったが。
「しかし……毎年遅くとも、二週間前には人を遣わされていましたでしょう? 今年は今日まで音沙汰もなかったのでどうしたものかと思っていたんですよ。まさか坊ちゃんが来られるとは思いませんでしたが……」
そう言って少年が渡した封書をナイフで開き、折りたたまれた便箋に目を通した紳士は、驚きに眼を見開いた。
間違いない。彼は知っている。この手紙の意味を。
「……来年からもう、誰も来ません」
「──それは……」
「先月曽祖父が亡くなりました」
少年が人生で初めて経験した、近しい人の死。
「俺は曽祖父の最期の願いを、果たしに来たんです」
**
店を出ると街は薄く橙に装いを変えている。
少年がぐるりと周囲を見回して見つけたハンジは、石塀に背を預けて本を読んでいた。そっと近付くと、陰った手元に気付いて顔を上げる。
「あ、終わったん……」
「墓地に連れて行ってくれ」
ハンジの声を遮って、少年は言った。芯の通った強い口調で。
「頼む」
「……」
その願いに、迷いや照れはない。ハンジを頼ろうとする、全き純粋な心が滲んでいる。
ハンジは少年の手が握っているものに目を留めた。そして、何も言わずに歩き出した。
街から出て小さな森を抜けた先の、開けた場所に墓地はあった。
丁寧に刃を入れられた芝に磨き上げられた墓石が並ぶ敷地内を、ハンジはどんどん進んで行く。
閑散な墓の群れから離れた小高い丘に、二人の目指すものがあった。
「着いたよ」
静謐な青い石には、街を見下ろすこの場所に眠る人の、その名前だけが刻まれている。
《ハンジ・ゾエ》
少年の持つ一輪の花が、柔らかな風に揺られた。
「……お前のその名前、偽名なのか?」
「ううん、ちゃんと本名。ひいおばあ様の名前をいただいたんだ」
「そうか」
「名前のせいなのかなんなのか、私って生前のひいおばあ様にそっくりなんだってさ! 私が生まれる二十年も前に亡くなったから、本当かはわからないけど」
少年を振り返ったハンジは、スッキリと晴れた眼をして微笑んでいる。
「……君が、ひいおばあ様の誕生日にずっと、〝その花〟を贈ってくれてた人?」
「んなわけあるか、俺は代理だ。俺の曽祖父……ジジイの」
少年の、曽祖父。
小柄な体躯に骨と皮が目立つような姿でも、その眼光だけはいつまでも鋭い人だった。
若い頃に悪くした脚や、長年の何かしらの圧迫による歪んだ骨格を持っていても、いつもその佇まいは堂々としていて。
顔や手や腕の皺ひとつひとつが少年の想像も及ばない経験を刻んでいるようで、少年の憧れだった。
彼は、粗野な口調と滅多に動かない表情のせいで、一族の中では少年と、少年の両親としか親しく話すことがなかった。彼の一人暮らしが難しくなった時、少年の両親は喜んで同居を願い出た。
彼は少年にたくさんのことを教えてくれた。学舎で教えるような事はからっきしだから、俺が知っている事だけだが、と。人よりも少し身体能力の優れた肉体の使い方は、少年を多いに助けてくれた。
が、残念ながら少年は、彼の教えた言葉の半分の、おそらく表面しか理解できなかった。教えが役に立つ日がいつ来るかも、その時にその教えが上手く使えるのかもさっぱりわからなかった。
けれどそれで良かった。
共にいる時間に比例して彼の言動や癖が移ってしまったことを両親に大笑いされたが、それでも彼が大好きだった。
彼は少年を子供扱いせずに対等に話してくれた、唯一の大人だったから。
少年が十五歳になった今年、ミットラスで風邪が流行した。
家にその風邪を持ち込んだのは少年だった。少年の快復と入れ替わるように、彼は病床に入った。
すぐ良くなる、昔から一日と寝付くことがないからな、と話す声がしっかりしていたので、少年は寝る前の時間を彼と過ごして、安心して自室に帰った。
翌朝、彼は冷たくなっていた。
棺に入れた物は少なかった。
彼のお気に入りの銘柄の茶葉に、古びた膝掛け一枚。
少年は彼の葬式で、彼から貰った言葉の一つ一つを思い出していた。
少年が小さな世界の大きな事件で涙を流した日に与えられた、不器用な慰めも。
きっと、少年がもっと大人にならなければ理解できない忠言も。
そうして、彼が永遠に眠る前の晩に呟いた言葉を。
『今年で……』
『……なんだ?』
『花は、今年で最後だ』
少年への言葉ではなかった。
独り言に近い、彼自身のための言葉だった。
少年の両親はその意味を知らなかった。しこりのように心に留まるその言葉の意味を考えていた折、少年は彼の部屋で封筒を見つけた。
彼から話を聞いたことがある土地と、知らない名前が宛先。差出人は書いていない。けれどもその癖のある筆跡は間違いなく彼だった。
少年は両親が止めるのも聞かず汽車にとび乗った。予感がした。全てが、彼の言葉もこの封書も、全てがその場所に集束するのだと。
待っていたのは、一輪の花と、死人と、死人と同じ名前の女。
手紙には、店主に宛てて感謝の言葉が綴られていた。「先代から今まで、花の用意をすまなかった」と。
紅茶店の店主は、父親がもともとミットラスの出身であったが、とある理不尽な事情で追われる身となった。
誰かを巻き込むわけにもいかずに死ぬしかないと絶望している時、少年の曾祖父に助けられ夜に紛れて都市を離れたのだという。
曾祖父のとある頼みを聞くことを条件に。
「それが、毎年ひいおばあ様の誕生日に花を届けること?」
「ああ。律儀に毎回依頼の手紙も届いたらしい」
まだ鉄道もない時代だ。汽車で二週間の距離が、昔は馬で三ヶ月である。曾祖父の花を頼む想いはその距離を駆けたのだろうか。
──贈る相手が死んだ後も。
「お前のひいばあさん、花の話は……」
「おばあ様が聞いてみたことがあったけど、答えてくれなかったって」
ハンジ・ゾエが手に取って沈黙し続けたその花は、汽車で南に下ればどこにでもある普通の、間もなく盛りを迎える花だった。
じっとそれを見つめる少年に、店主は「『カベ』が崩壊して初めて見つかった花だと言われています」と、それだけを伝えて、少年が店を出るまで頭を下げていた。
微かな風の音に、舌打ちが混じる。
「だっせえ」
「えっ?」
「何十年も片想いして花贈るだけの人生かよ」
少年の心に初めて、尊敬していた曾祖父に対する嘲りが表れた。その黒々とした濁りは次第に粘度を増していく。
「曾孫までいたのに、未練がましい」
「未練って……恋愛じゃなかった可能性もあるじゃないか」
「だったらこんな回りくどいやり方しないで直接会いに行けばいい。わざわざ相手も自分も隠すような真似しやがって」
手紙はいつも差出人無記名で送られて来ていたそうだ。
ハンジ・ゾエに花が贈られる際も、絶対に贈り元がわからないようにと頼まれたらしい。
紅茶点の店主がミットラスを訪れた際、赤ん坊の少年に会った時も、決して手紙や花の事は口にしなかった、と。
それに、長年贈り物を続けている相手の名前をついぞ家族に話す事をしなかったのだ。少年の両親はもちろん、少年にも──。
「何か事情があったんじゃない?」
「どんなだよ!」
「さあ、わかんないや」
少年の怒鳴り声に、ハンジはあっけらかんと答える。
「何十年も人から誕生日に花を貰う経験なんてないしさ。逆も然り。あなたはどう?」
「……ねえよ。十五だぞ、俺」
「だよねえ。えっ!? 十五歳!?」
ハンジの驚きを無視して、少年は墓に向き合う。
例えば隣りいにいるハンジの言うとおり、ただ友人が生まれた日の祝いの言葉を花に代えて送っていただけだとしたら、受け取ったハンジ・ゾエはどうして何も返してくれなかったのだろう。
そこに友情や絆があるというなら、曾祖父だけが花を贈り続ける人生ではなかったかもしれない。
それとも、やはり曾祖父が恋情から花を贈っていたとして、今は地面の下でとっくに骨になっているこのハンジ・ゾエは、一体何を思っていたのだろう。
答えをはぐらかしながら、その心は?
喜んでいたのだろうか。気味悪がっていたかもしれない。そもそも、曾祖父の事を知っていたのだろうか。
風に遊ばれるだけの花が、少年には哀れで冷たく見える。
「……やっぱり、事情があったんじゃないかな」
「だから、どんなだよ」
「それはわかんないけど。二人とも亡くなってるし」
ハンジの手が少年の持つ花に伸びた。
そっと触れた温かさに拳を解けば、花はハンジによって飛ばないように小石で固定され、墓前に添えられた。
「この街の名前、知ってるでしょ?」
「……トゥフロレ」
「そう。ひいおばあ様がつけたんだ」
ハンジは言った。なんてことないように。
「古語で〝君の花〟って意味なんだよ」
少年は目を見開いた。
「この街ね、ひいおばあ様が中心になって興した街なんだって」
だからこんなに大仰な墓が建っているのだ、とハンジは続ける。
「若い頃にここに流れてきて、まあその経緯の詳しくは不明なんだけど、とにかく集まった人たちで小さな集落から生活を始めて」
辺りが夕焼けに染まり始めた。少年の感情をかき乱した街も、家々も、赤に沈んで行く。
「人が増えて、集落から小さな町になって、家族を作って、家も大きくなって」
ハンジの声は静かだった。
「街にその名前を付けて」
見た事もない過去を覗き見て、何かを感じているかのように。
「……そうして歳をとって死ぬまでのあいだ、この街でずっとあなたのひいおじい様から花を受け取って」
少年を振り返ったハンジの瞳は、やっぱり不思議な色をしていた。
夕刻の色が写り込んで、血のように紅いのか、金塊のような黄味なのか、判別がつかない。
「ひいおばあ様、幸せだったと思うんだよね。……あなたのひいおじい様は、どうだろう?」
「ジジイは……」
あの人は。
少年と共にいて、微かな笑いを零した。
懸命に乞われて、曾孫に己の昔の名を与えた。
添い遂げたい人の手を決して離さなかった孫の、唯一の味方だった。
遠い街から何十年も、相手が死んでも、花だけを贈り続けた。
あの人は……。
「幸せだった……と、思う。思いたい」
「そうだねえ。花にどんな意味があったのかはわからないけど……二人ともきっと幸せだったよ」
「……今ごろ呑気に、茶でも飲んでたりしてな」
「積もる話もありそうだよね」
小石が押さえる花が、丘の風に遊ばれる。そのうち小さな花びらたちが、舞い上がりながら空の路へ消えて行った。
行方など知りようもなかった。
留める者などいないのだから。
すっかり闇に沈んだ道を、ハンジと少年は街へと歩いていた。
「さてウィアトル! 次はどこへ行きたい?」
「はあ?」
「私たちは何処へでも行けるんだからさ! 君が望む所まで、私が連れて行くよ」
今日のいつかに聞いた言葉である。少年はなぜか急に、可笑しくて堪らなくなった。珍しく笑い出しそうですらある。
「……とりあえず、宿だな」
「それなんだけど、私の家に来たらどうかな?」
「!? どっ……」
どういう意味だ。
先刻まで規則正しく脈を刻んでいた少年の心臓が急激に加速し始める。
「君のひいおじい様の封書の、封蝋なんだけどさ」
「ふうろう?」
「そう、封蝋のシンボル。翼が二枚重なった印璽だよ! ひいおばあ様の遺品で見た事があるんだ!」
この話の入り方──。嫌な予感が少年の背を這い上る。
「さらに言うと、史料で似た紋を見たことがあるんだよ! 貴重な史料なんだけどこの街の図書館に置いてあって、」
「あ、あぁ」
「その昔存在したと言う伝説の兵団の紋がそれなんだ! ねえ! もしかしてあなたのひいおじい様と私のひいおばあ様はそこに所属していたのかもしれないよ!? だからあなたのジジイの話が聞きたいんだ! あなたの曽祖父のジジイね!」
「落ち着け、ハンジ」
「ウィアトル! お願い! もうちょっとこの街に滞在してよ!」
暗闇に浮かぶハンジの眼は星のように輝いている。
夜目の利く少年は思わず走り出した。ハンジの盛り上がりも怖いが、少年が一番怖いのは断れそうもない自分だった。
「ウィアトル! 待って!」
「俺はウィアトルじゃねえ!」
少年はなんとなく、来年も自分がここにいる気がした。
そしてその時の少年はたぶんもう、旅人ではないだろう。
それは予感だった。
だってこの街には、あの瞳のハンジがいる。
少年は足を止めずに大きく息を吸い込んだ。
「よく聞けハンジ! 俺の名前は〝リヴァイ〟だ!」
〈了〉
(初出 15/12/01)