The serial temperature
尻と手、心を温め合う二人の話
The serial temperature
尻と手、心を温め合う二人の話
もしかして、わざと音を立ててる?
と、疑問に思ったのは七回目の夜だった。
普段から気配も衣擦れも呼吸も他人に悟らせずに兵士の背後に立ち、難なく鍵を開けて部屋に侵入までできるような男が、はたして、眠りに沈んだ人間を引き上げるほどの迂闊を働くだろうか?
で、本人に直接「私を起こすために毎回うるさく登場してるの?」と訊ねてみたら、彼にしては珍しく拗ねたような吐息を返してきた。どうやら正解だったらしい。暗闇でのやりとりだったから〝拗ねたような〟は私の想像だけど。
「そんな気遣い必要ないよ」
はっきりそう伝えたにもかかわらず、彼はそれ以降も相変わらず同じ調子で私の寝所に忍び込んできた。だから私も、これはもう彼が自身に設けた何らかのルールなのだと理解して何も言わなくなった。
ついでに慣れてしまったのかちょっとやそっとの音では起きなくなってしまったので、彼は結局、もっとうるさい登場の仕方をするようになる。
「ハンジ」
「んぇ……? あ、りぁい……」
侵入者は今夜も、相応しくない騒がしさでベッドの脇に現れた。揺り起こされて目を開けたはいいものの、まどろみから覚めきれない私は横たわったまま毛布を捲ってそれを手招く。寝ぼけて甘ったれた所作になっていたかもしれない。けど侵入者ことリヴァイはすんなり潜り込んできた。
体が近づいて、縋りつくように胴体の下と上とに腕が回されて、熱くて厚い両手に尻を包まれる。すりすりと丸みを撫でられる感覚のあと、緩やかな円を描く動きがくる。あったかい。
手が下方に向かえば、腕からつながる上半身や頭も当然それに続いて移動する。リヴァイの顔が胸の位置に下がってきて、ふう、と吐息が肌を温めたものだから、私はほとんど反射のように腕を動かしていた。見た目よりずっと柔らかくてクセのつきやすい黒髪に指を差し込んで、自分のお尻に施される心地よさを真似して、優しく地肌を撫でたところで――しかしすぐさま頭が持ち上がる。すごい勢いだった。
「……何もするな、寝てろ」
「んー……」
奇妙な態度には引っ掛かるものの、中途半端に浮いていた意識は低くとも温かな声に覆われ、温かな手にも引っ張られて、また素直に潜伏しはじめる。きっとこのまま、朝まで浮上しない深さにいくのだろう。
リヴァイは家族でも恋人でもない。信頼する仲間ではあるけど、それでも社会的にはまったくの他人だ。そんな男にパーソナルスペースへの侵入と体への接触を許し、というか尻を揉ませ、あまつさえその状態で意識を曖昧にするなんて、普通なら正気を疑われるだろう。
だけどこれは、誰でもない私の許可によって成り立っていることだった。リヴァイは私が意識を失った後も好きなだけ私の尻を揉んでいていいし、好きなタイミングでそれをやめて、とっとと自分の塒に帰ったっていいのだ。
それが、契約も約束もなく、だけど当然のように私たちのあいだに醸成した習慣だった。
発端は、私とリヴァイが互いの存在をすっかり認知しあったころ。もっと刻むと、リヴァイの衝撃的な入団から三ヶ月ほど経過した時期にさかのぼる。
いろいろと込み入った事情があって、当時のリヴァイは荒れていた。何人も寄せ付けない雰囲気をまとっていた。ついでに私も荒れていた。これもいろんな事情からだったけど、今になって思えば、お互いにたった一つの子どもじみた不満を、子どもじみているなりにどうにかしたくて足掻いていた故の表出だったんだと思う。
要するに、反抗期だったのだ。
大人の反抗期ってものは、下手に口も頭もまわるせいで狭まった自己認識の打開が難しい。身の内に渦巻く鬱憤を「上手いことやり過ごす」という形でなかなか昇華することができない。私たちは変なところで拗らせていた。恥ずかしい思い出だ。
とにかく、あの日。
ちょっとしたことから仲間と口論になった私は、伸びてきた手を避けようとして後ずさった足を踏み損ね、階段から転落しそうになった。
そこに現れたのがリヴァイだ。
階段を上ってくる途中だった彼は、目の前に降ってきた私を咄嗟に避けることができず、ぶつかるのを防ごうとした手で体の一部を受け止めることになってしまった。
何を隠そう、彼の両の掌にその時フィットしたのが私の尻だったのである。
比較的幅のある空間で事が起きたのは幸いだった。
リヴァイの手によって受け止められた私は勢いを殺されて横に転がされ、自分でも受け身をとったので怪我もなく踊り場で着地。口論相手は私が落ちた先のとてつもなく鋭い眼光を目の当たりにして逃走。再起不能に陥るような負傷者はゼロ。事態は血が流れるまで発展せず、始まりと打って変わって静かに終了した。
残された唯一の問題は、兵士一人の落下を受け止めたリヴァイの、骨や筋の具合だけだった。
「悪かったよ。腕を見せてくれ」
「要らねぇ。汚いナリの奴が触るな」
「人には新陳代謝ってもんがあるんだよリヴァイ。ついでに言うと、私は見せかけの清潔をでっちあげるためだけに湯水や貴重な洗剤を使いたくないんだ。……とにかく手首だけでも見せろって。見せないと油汚れみたいにしつっこく君のあとをついて回るからな」
私がぎゃんぎゃんに研がれたリヴァイの視線を無視してその拳に触れることができたのは、ほとんど自棄になっていたからだった。心のどこかで「どうなってもいい」と嘯いていた。不躾な態度がリヴァイの逆鱗に触れて、キレ散らかした彼にめちゃくちゃにぶん殴られてボロキレみたいに置き捨てられても構わない、なんてことまで思っていた。今の私なら唾が飛ぶほど笑ってしまう認識だ。
結局渋々と差し出された手からもわかるように、当時でさえリヴァイはそんなことする男ではなかったのだ。
「うわ、おっきな手。背は小さいのに」
「鼻ごと舌ァ削ぐぞ」
正面から掌を合わせて、手首の可動に問題がないかを確かめながら、命知らずな私の口は止まらない。
「君ってずいぶん体温が高いんだね。さっきも、服の上から一瞬触れられただけですごく温かいのが伝わってきたよ。羨ましい、手が悴んでブレードの扱いがおぼつかなくなるなんてこともないんだろうな」
「……は。テメェの立ち回りが下手なのは手が冷たいせいだってか」
「あっためて上手くなるんなら毎回巨人の腹に手を突っ込んでやるのに」
「やめておけ。刃を無駄に消費するだけだ」
こんな調子だ。別に喧嘩を売っているつもりはなかったけど、私もリヴァイも相手のとんがった空気はきちんと感じ取っていた。それでいて診察が滞りなく進んだのは、二人とも貸し借りを作りたくなかったからだと思う。そのくせ相手をつつく目を伏せられない。
二人して、心の奥の絨毯裏に『誰かと関わりたい』という願いを隠していて、だからその場をさっさと離れることをしなかった。
これも今だからわかることだ。
「お前こそ、男みたいなナリでケツはそこそこデカい」
「へえ? 初めて言われた。この程度の尻に反応するなんて、もしかして君は女性経験がないの?」
「……少ない奴が尻の大小なんぞわかるか」
「うん、だからその基準に疑問があるって言ってるんだけど」
「そっちこそやたらとベタベタ触るが、男の体が初めてなんざ言わねぇよな」
「ある意味では初めてだね。こんな平均程度か少ないくらいの筋肉量であんなブレード捌きができる腕なんて、過去にもお目にかかったことがない。……本当に痛めてないのかい? 信じられないな。これでもタッパはあるほうなんだよ、私」
「どこが」
鼻で笑う気配があったので、腕から彼の顔に観察を移す。口角こそ下がったままだったけれど、目元がちょっとだけおかしそうに歪んでいた。その時の私は、咄嗟に浮かんだ「君が他人の背丈を笑えるんだ?」といういじわるを少しだけ吟味して、脇に捨てることを選んだ。
「さっき私のことデカいって言っただろ」
「勘違いするな、ケツだけだ」
「さては特別お尻が好きだな、君」
「ほらな、オツムのほうはそう大きくもねぇらしい」
「手と態度だけデカいやつが言うなよ」
「……やけに俺の手にこだわるな。そんなに気に入ったのか?」
リヴァイとしては挑発のつもりだったんだろう。けど、あいにく私は昔から「好き」とか「気に入る」とか「興味がある」なんて言葉に反応しがちで、一旦そういう基準が頭に浮上すると目の前のものについてじっくりと考えずにはいられなくなる性質だった。
その時も例外じゃなかった。
「気に入る。……そうだね、うん。触られて嫌な気はしなかったかな」
「は」
「たまにあるだろ、否応なく人を安心させる感触ってのが。君の手はきっとそれだ。意外と医者や教育者に向いてるかもしれないね。まあ顔が怖いからその恐怖で相殺されそうだけど」
「馬鹿言え」
ついに手が振り払われたが、叩き斬られるくらいに思っていた私は、その優しい拒絶に驚いた。リヴァイが視線を避けるように横を向く。
「じゃあなんだ、テメェは俺にケツ触られて安心したってのか。力いっぱい掴まれたってのに?」
それじゃあまるで私が変態みたいじゃないか。そう反論しようと思ったのに、なぜか私の気力はみるみるうちに萎んでしまい、喉まで出かかっていた言葉も腹に戻ってしまった。ボロい造りの兵舎に隙間風が吹いて、指先からどんどん冷たくなっていく。リヴァイの手に感じた温かさなどもう遥か彼方だ。
「……少なくとも、尻を掴まれる原因になった奴よりかマシだったよ」
熱を失くしていく体は、同時に心も硬くする。思い出したのは仲間の剣幕だった。
アイツ。リヴァイの顔を見て逃げてった、あの不届き者。まだ話も終わってなかったのに。考えはじめるとムカムカしてきて、今から追いかけて議論を再開させてやろうかと目論んでいたら、リヴァイがいきなりハッとこちらに顔を向けた。
「お前まさか、」
「え?」
「……いや」
「なんだよ?」
どれだけ問い詰めても飲み込んだ言葉を明かさなかった彼は、私が腕に異常はないと診断した瞬間、素早く踵を返して去って行った。私は私で、逃げた喧嘩相手を探しだして舌戦の続きを叩きつけた。……恐怖を浮かべて「生還したのか」と私を見る目に、もう戦意は残っていなかったんだけど。
ただ、事はそれで終わらなかった。
私が一人きりでいる時に限って、リヴァイが奇妙な視線を寄こすようになったのだ。悪い思惑を含んだものじゃなく、どこか慎重な眼差しからくるものを。
気づくとそばに立っていることもあった。気配も何もなくそこにいて、けれど話しかけてくるでもなくいつのまにかいなくなっているのだ。
いかにも思わせぶりな態度をとる男に無関心を貫けるはずもなく、私はリヴァイを追いかけて、とっ捕まえて、質問攻めにして、それでも無言に徹する彼をとうとう自室に引きずり込むようになった。半月もしないうちのことだった。
現体制への不満、とりとめもない仲間への愚痴。自身の力不足への怒り。無事に明日が来るかもわからない不安。――日常に転がるちょっとした笑い話。隣の誰かと分け合った幸福。今夜も、リヴァイと会えた喜び。
そんなものを幾多にも混ぜ込んで散らかす、夜を徹しての長話。
『歩く統制不能師団』と恐れられていた男(嘘、そこまでは言われてなかったはず)が、奇人として遠巻きにされていた私に文句を言いながらも付き合う姿は、他人が見ればさぞや奇妙なものだっただろう。
今ならはっきりとわかる彼の真意を、当時の私も、うっすらとは感じとっていた。「そんなことする必要ないんだけど」と思いつつ、勘違いを正すこともしなかった。そして、自分で思うよりもずっと彼に感謝していた。
誰かが自分を気にかけてくれている、と感じられる日常は、それ自体がとても貴重なものだ。次第に、リヴァイも同じものを感じていればいい、と思うようになった。いつかこの勘違いが是正された時、私たちの積み重ねた時間はあっさり失くなってしまうんだろうとどこかで予想していて、それを少しだけ恐れていた。違う理由でそばにいてくれるようになればいい、なんて願っていたことまではきちんと自覚できていなかったんだけど。
だから、といえばいいのか。
とある壁外調査の数日後、体以外の疲労がちっとも取れていない様子のリヴァイに対面したあの夜。
私の口から飛び出したのは、突拍子もなく、計画性もなく、それでいて私とリヴァイに、私とリヴァイだけの〝特別〟を付与して他への開示を許さないような――完全に後に戻ることはできないような、そういう提案だった。
「あのさあリヴァイ、おっぱい揉まない?」
「……あ?」
「真偽のほどはわからないけど、柔らかくて温かいものを揉むと癒されるという話を聞いたんだ。試す価値はあるんじゃないかな? どう?」
リヴァイの反応は鈍かった。どこか一層高いところを見ているような、ぼうっとした目をしていた。そうとは言わずとも、やはり相当疲れていたんだと思う。
「……〝柔くて温かい〟なら、尻のほうがいいんじゃねぇか」
「お尻?……ああ、君、前に私のがどうこう言ってたね。確かにそっちのほうがいいかもしれない」
正常な状態じゃない彼に付け込んで話を進める形になってしまったことは否めないが、少なくともその時の私は、「尻を揉む」という行為の先に「癒される」という効果以上のものを据えているつもりはなかった。リヴァイも同様だっただろう。
彼は何事においてもはっきりそうとわかるような言動をとる男じゃなかった。
ただ、尻を揉んで心をほぐすなんて奇怪な習慣に関しては存外滑らかに順化していったと思う。初めこそぎこちなく触れていた手も、私が「君に触られると安心する」といつかの評価を繰り返すとそれが対価になるとわかったのか、すぐに澱みなく尻へと伸ばされるようになっていった。
彼は実際、かなりお尻が好きだったようで、慣れてからの撫で方には愛おしいものに対する優しさがにじみ出ていた。
眉間の皺やわずかに上がった肩、両足に等分に載せられた重心、硬く組まれた腕。至るところに見られるリヴァイの厳格で堅固な気配が、夜を経るごとに角を削っていく。それは「おかげで疲れがとれる」という言葉よりもずっと明らかに彼の内面の変化を教えてくれた。
もちろん、片方だけに効果があったわけじゃない。私の「君に触られると安心する」も嘘じゃなかった。
リヴァイの手にお尻を包まれて得られる安堵は、実を言うとかなり偉大だった。それこそ壁外から門をくぐって帰還した瞬間を上回ることすらある。足先が冷たいとか、頬に触れる髪の毛が気になるとか、足の組み方が微妙に馴染まないだとか、寝入る前のそういう瑣末な違和感がすぐにとろとろと溶けていって、自分が布にくるまれている温い液体になった気分になるのだ。
リヴァイに文句を言われて渋々増やした風呂の機会も、全身に積もった澱みを洗い流す助けになり、私は以前よりずっとまっとうな睡眠を摂れるようになった。
一番効果が出たのは昼間の精神状態だ。月に五度は発生していた他者との衝突が一度以下になったことを鑑みても、その影響力がわかるというものだ。
次第に「触るぞ」「よし来い!」のやりとりすら億劫になった私が「勝手に揉んでいいよ」と許可を出すと、リヴァイは部屋の明かりを落とす時分にやって来て、私の睡眠を邪魔しない程度に尻を揉んで帰るようになった。そうして今に至るというわけだ。
私たちは正しく在っていた。癒しを与え合ったことで互いの内外に吹いていた荒れが徐々に止んでいったのか、周囲との摩擦も発生しなくなった。
リヴァイが一人でいる私を気にかけることはなくなった。私もリヴァイも、一人でいる機会自体がほとんどなくなってしまったからだ。それでも寂しくなかったのは、この〝特別〟があったからだ。
真夜中にだけ発生する持ちつ持たれつの関係。これが、今日までの私たちだった。
ふ、とつむじに息を吹きかけられ、くすぐったさに再び意識が浮上する。「寝ろ」と言ったそばから真逆のことをしているリヴァイの矛盾は、私が完全に眠ってしまったと考えているからだろう。
このまま反応しないでいるべきかと考えているうちに、彼はさらに前髪に鼻を擦り寄せてきた。すん、と息を吸い込み、吐いて、また吸い込む。あきらかに匂いを嗅いでる。その手は尻を揉むでも撫でるでもなく、ただ包むに留まったまま。
やだなあ、と思った。
こうして目的の場所以外を触れられることがじゃない。これが終わりの合図だからだ。
尻を揉むためにベッドまでやって来るリヴァイは、しかし最近、あまりその行為に浸らなくなった。
申し訳程度に丸みをなぞった後、私が眠ったことを確かめて、それから髪の匂いを嗅ぐとか、自分の足先で私の足の甲や脛を撫でるとか、そういう別の動きに興じはじめるのだ。そうして大抵十分と経たずに体を離してしまう。
そのくせ私が風呂に入った夜は必ず尋ねてきては同じことをするので、てっきり話でもしたいのかと思って「揉みながらでいいからお喋りしようよ」と誘ってみたこともある。
結果は芳しくなかった。彼は苦虫いっぱいを噛みつぶしたような顔で随分ぎこちなく隣に来て、微妙に視線を逸らしたままじっと体を固めていた。
最初に尻を揉ませてから一年を越そうという今日このごろ。どうやら私のお尻は、リヴァイに必要とされなくなってきたらしい。当然と言えば当然かもしれない。
昔ならいざ知らず、今のリヴァイはもう独りじゃない。圧倒的な強さ、下手くそな言い回しや動かない表情に紛れた優しさ、他者を一人の他者と認めて接する冷静。挙げればキリがない魅力に気づいた周囲が、彼を放っておこうとしない。
彼自身、死角や暗所に過剰に神経を尖らせることはなくなった。同じ鍋の飯を食い、きっと同じ場所で永遠の眠りにつく仲間たちを正しく仲間と認識し、彼らとの生活の中で心体に溜まる疲労もきちんと制御できているように見える。癒しも憂慮も必要なくなったなら、もう、私のそばに居続ける必要はない。
喜ぶべきことなのだ、と。心の軟い箇所に押し込むように、自分に言い聞かせる。
そうこうしているうちに、案の定リヴァイは髪を撫で足を撫で、ついでに腰にも少しだけ手を這わせて、数分もしないうちに起き上がった。すうはあと吸って吐く音を聞くに呼吸すら沈静してないんじゃないかと思うけど、私もいつものように眠ったふりをする。
彼はそのまま隣から抜け出し、私に丁寧に毛布をかけなおし、ベッドの縁に腰掛けて、——「ふー…」だなんて、長い溜息をついた。
なんだよそれ。
一気に目が覚める。気づいたら手を伸ばしていた。
「リヴァイ」
「ッ!」
呼びながら背中に触れると、リヴァイが驚いた様子で振り返る。何にも見えないからこれも想像だけど、息の吸い方や動作の硬さで十分に動揺を推し量れた。私だって、それがわかる程度には彼と共に過ごしてきたのだ。
「お前、寝たふり……」
「今起きたんだよ。それより、もういいのかい?」
「……」
何も言わないのは、きっと彼の中で答えが揺れているからだ。すべきことと、したいことが分かれているから。
と、いきなり手を握られ、驚く前に体ごとベッドの中に押し戻された。リヴァイはさらに毛布で私をしっかりとくるんで、すべてを断ち切るように立ち上がった。
「戻る」
たったの一言に、かろうじて息で頷き返すと、少しも未練を残すことなく気配が遠ざかる。扉を開閉する音が聞こえて、当然のように外側から鍵まで閉められて、それっきり。
一人残された私は、圧倒的な熱源を失くして急速に冷たくなっていく手足を縮めながら、しばらくのあいだ、リヴァイが消える直前に聞こえた声について考えていた。
『……すまない』
あるいは、幻聴だったかもしれない。
**
私とリヴァイの真夜中の時間は、当然ながら周囲には秘密である。
互いが同じように爪弾き者だった(と二人して思い込んでいた)期間こそつかず離れずを保っていたものの、リヴァイが隊内で遊撃要員として立ち回るようになってからは、少人数でも決まった部下を従えるようになった私と行動圏が重ならなくなった。最近は日のあるうちに目が合うことも少なくなったように思う。
どこからか、誰かが「リヴァイ」と高く呼ぶ声が聞こえる。低い呟きがそれに答える。慌ただしくも絶対の安心の上に立つ騒がしさが起こって……近づくことなく、遠ざかっていく。
私は小さくなった波紋に触れて、かろうじてリヴァイの動向を知る。非日常の合間に挟まる日常においては、彼と私の繋がりはこんなものだった。
「ああいた、ハンジ。ちょっとツラ貸せよ」
昼時のことだった。別班に所属するとある兵士が治安の悪い台詞でこちらを呼び止め、くい、と不遜に親指を動かしてきた。
入団時期が重なっていたので何かと顔を合わせる機会があり、互いの性格が関係して何度か衝突したこともある彼は、何を隠そう、リヴァイが私の尻を揉む原因となった口論の相手である。
配属が別になってからは話す回数も減ったが、やたらと喧嘩腰なところは相変わらずらしい。昔はこれに端から端まで引っ掛かって噛みついていたものだが、存外丸みがあって柔らかいものがその芯にあるのだ、と今は知っている。知る余裕ができたのはもちろんリヴァイのおかげだった。
「なんだい? 昼休憩中に終わること?」
「わかんねえけどー、うちの班の奴の装置がどうもしっくりこねぇらしい。軽く見てくれや」
「しっくりこないって?」
「うーん、なんか、付いてこねぇとかなんとか?」
「入出力のタイムラグのこと? 要領を得ないなあ、もう」
「だから見に来いって言ってんの。午後から広角訓練なんだよ、困るだろ」
君のそれ頼む態度じゃないって、と文句を言いつつ彼に従う。立体機動装置の核となる部分はブラックボックスだが、小さな不良のほとんどはそれ以外の瑣末なかけ違いが原因だったりする。なぜか私は、そういった問題の解決によく駆り出されていた。
噛み合わない軽口を叩き合いながら、兵舎から少し離れた位置に整えられている第二訓練場へ足を進める。その最中、外廊下を渡っていた時だ。
「お、例の」
何かを見つけてワントーン上がった声に導かれ、私は何の気になしに示される先を見た。
そう広くもない中庭には、樹齢十年は行かない楓の木が一本植えられている。さらにその下には、季節に応じた景色を眺められるようにというささやかな気遣いから二人がけのベンチが置かれているのだが。
そこに、リヴァイが座っていた。彼一人ではなく、すぐそばに髪を短く切りそろえた女性兵が立っている。こちらからは両者の背中しか伺えないが、彼女はリヴァイの顔を覗き込むように体を傾けていた。
「最近よく見るなーあの組み合わせ」
「……ふうん」
近ごろ駐屯兵団から移籍してきた兵士だと、私にもすぐにわかった。目の前の男が「例の」と言ったとおり、彼女はちょっとした時の人だったからだ。
市井では十分にエリート扱いの駐屯兵団精鋭出身、なのにわざわざ針の筵たる調査兵団に足場を移し、果敢に戦績を上げている。これだけでも十分に異質だったが、他人――それも男たち――の視線を集める大きな理由は、彼女の背姿にあった。
並んだ姿のうち、傾いた体の真ん中で、ひときわ目立つもの。兵服をまとって尚パンと張った丸みをアピールする、お尻である。腰から流れるその曲線はそりゃもうプリプリと弾んで魅惑的で、会話に合わせて左右に揺れるまでしている。同性の私から見ても一瞬ドキッとする様相だが、それよりも「何を話しているんだろう」と気になった。
彼女はここに来てすぐに「リヴァイに興味を持っている」と明言して、その言葉どおりに毎日せっせとアプローチを重ねているらしい。人伝に聞く程度でぼんやりとしていた像が、今まさに実際の光景として現れたことで、私の胸に妙な感覚を起こす。
目算でも「この数で綺麗に仕上がるだろう」と踏んでいた羽目板が、最後まできて微妙な隙間を残して足りなくなってしまったような、どこで間違えたんだろう、と苛立ちながら首を傾げてしまうような、そういうざらつきだ。
リヴァイはべらぼうに強くて、自分が前に出続けることで仲間を守ろうとする精神を持っていて、そんじょそこらの兵士が、いや巨人が束になっても敵わないくらいの資質を持っている。一度でも壁外に出た人間なら必ず彼に畏怖を抱くはずだ。
そして彼は、周りの屈強な男たちに埋もれがちになるけど、とっても良い男だった。出るところに出れば集まった秋波で泳ぐことだってできるだろう人だった。
あそこにいる彼女が惹かれたのも不思議じゃない。むしろ有能の証左でさえあると思う。
——それで、だ。
彼女がもしも、リヴァイの密かな尻好き嗜好を看破して、あの見事な双丘を突き出しながら「揉む?」と誘ったら。リヴァイは揉むのだろうか。揉むんだろうな。揉まない道理はないもの。
で、素直に揉んだとして。当然私の尻と揉み心地を比較するだろう。「ハンジのよりいい」と思うはずだ。思ってから、彼はどうするだろうか。何を考えるだろうか。
私たちの〝特別〟は奇妙な経緯で始まったものだけど、他の誰かがその奇妙を辿らないなんて確証はない。例えばリヴァイが、私の部屋での夜の行いをやめて、同じことをそっくりそのまま彼女に求める可能性だってある。そしてリヴァイが彼女の、よしんば他人の尻を選んだとしても、私に止める権利はないのだ。
「置いてくぞー。時間なくなる」
先に足を止めた自分を棚に上げて、目の前の男がまたさっさと歩き出した。思考のもたつきを振りきり慌ててそれを追いかける。
ちょうど中庭が見えなくなる角度に差し掛かった時、私は一瞬だけ二人に視線を戻した。偶然だろうが、リヴァイも彼女の影からこちらを見て、「何をしてるんだ?」とでも言うように眉を顰めていた。
なんでもないよ。
君の安らかな時間が断ち切られるようなことは、何も。
だからそんな目で見ないでくれ。
手を振って、馬鹿みたいに明るく笑って見せたつもりだったけど、たぶん、どこかしらが歪んでいたと思う。リヴァイの反応を確かめることはしなかった。
「アイツさー、最近また雰囲気変わったよな」
追いついてすぐ、隣に並んだ男がつまらなさそうに言った。アイツとはリヴァイのことだろう。私は「へえ」と意外な気持ちで彼を見る。
「よく見てるんだね。君はリヴァイが苦手なんだと思ってたよ。前は出くわすたびにウサギみたいに逃げてただろ」
「うるせーなー。それ言うならアイツが俺をだろ。たまにすげー睨んでくるし」
これには少し驚いた。リヴァイから彼の話、どころか特定の誰かを悪く言う話など聞きたことがなかったからだ。彼は以前のナイフのようだったリヴァイの印象を引きずっているのかもしれない。
「けど君、今『雰囲気が変わった』って」
「キツくなったって意味だよ。しばらく落ち着いてたのにさー。今はなんか……疲れてるってか」
「……疲れてる? いつごろから?」
「知らねーけど。ここ二、三ヶ月じゃね」
不意に、リヴァイが暗闇に吐き出した長い溜息を思い出した。あれも連綿と続く大きな疲労の表れだったのだろうか。私の尻を揉んでしても到底晴らせない、何かの象徴だったのか。
自分がなんの役にも立っていなかったという事実もそれなりにショックだったが、一人で何かを抱え込んでいるかもしれないリヴァイの現状がより胸中を暗くした。
隣の男が言うように、誰がいつ見ても「疲れてる」とわかる状態に陥っているなら――私だけが今日まで気づいていなかったなら――「リヴァイに癒されてほしい」と標榜して奇妙な行為を提案した人間である以上、知らないふりをしているわけにはいかない。
私的なことについては自分のルールに沿おうとする面がある人だから、自ら訪ねて来る分には何も言わずに放っておくつもりだったけど、夜の習慣もやめさせるべきだろうか。無駄な時間や労力を割いているならまったき自分のために使ってほしい。
それで。それから? リヴァイほどの兵士が疲労を溜めている原因は気になるが、私に相談がないなら力になれることじゃないんだろう。彼自身も、すぐに対処できることじゃないのかもしれない。なら、まずは失ったものの回復に努めるべきだ。
だけど、私のために使っていた全てを返したなら、リヴァイの疲労は少しでも解消されるのだろうか。
もしそれが叶わなかったら、どうすればいい。
急に難題を投げられた私の脳が、手っ取り早く取り出したのは、一番新しい記憶だった。
「……彼女が」
「あん?」
「あ、いや。さっきのあの二人がさ、もしも恋人なりなんなりに収まれば、リヴァイの精神も安定して、疲れも取れるんじゃないかなって」
口が突然、他人のモノになったようだった。言いたいことも言いたくないことも混然として、乱数的に飛び出てきているみたいだ。そもそも彼女とリヴァイの関係は私がどうこうできることじゃない。自分ができなかったことを他人にやらせようなんて、リヴァイにも彼女にも失礼だ。
私の静かな混乱に、隣の男もどこか怪訝な顔をする。
「はあ。〝疲れが取れる〟な。んな理由で相手作る奴ならもうとっくにできてんじゃね」
まったくもって道理だ。なのに、私の暴走はなぜか無理を通そうとする。
「そこは個人の好みもあるだろ。性格はもちろんだけど、やっぱり……体形も、ああいった感じのほうが、いいだろうし」
「は? 何? まわりくどい言い方すんなよ」
「だから、……お尻が見事な女の子に言い寄られたら、男ってのは嬉しいもんだろ!?」
「え、近くにいりゃそりゃ見るけど。それで恋人になって心安らかにーって? だとしたら死ぬかもってときにも尻思い出すんか、笑えるな」
心底馬鹿にしたような返答に「ちっとも笑い事じゃないよ!」と反論しかけたところで、後方に人の気配を感じて空を嚙む。振り返っても誰もいなかったので気のせいだったようだけど、こんな場所で感情を高ぶらせてうっかり私とリヴァイのことを明かすようなことがあってはならない。
押し黙った私の話を引き取って、隣の男が「そういや」と続ける。
「俺もそれなりに遊んだけど、『ああコイツだな』って思った女は……なんか、そういうのじゃなかったな」
「……どういうのだったんだよ」
「そいつにタマ握ってもらうとさー、すっげえ安心したんだよ。そういうの」
――安心。〝タマを握られる感覚〟とやらはわからないけど、自身の一部を誰かに預けて手に入れる絶対的な感覚についてなら私もよく知っている。嚙み合わないと思っていた相手に意外な共通点を見つけて、ついまじまじとその横顔を見つめてしまう。
「まー振られたんだけど」
「え!? ご、ごめん、辛い話をさせてしまったね……うまく言えないけど、君ってそんなに悪い奴じゃないし……うん、なかなかいい男だと私は思うよ! 気を強く持つべきだ!」
「マジで慰めんなや。お前にタマ握らすぞ。いや待てやっぱやめろ絶対やめろ」
「まだ何も言ってもないよ」
とりとめもない打ち合いに本題が流れていくのを感じたが、あえて戻ろうとは思わなかった。目的地の訓練場に足を踏み入れ、私が呼び出された理由を目の前に認めていたからだ。今はこちらに集中しよう。面倒事を全てくるんで思考の隅に追いやりながら、私は手を掲げる仲間たちに応えていた。
**
今夜、お風呂どうしようかな。
昼間の目撃以降ふとした瞬間に浮かんでは消える二つの影に導かれたのか、私はいつのまにか、外廊下の同じ場所に立っていた。薄闇に飲まれていく中庭を眺めながら、数時間後のことに思いを馳せる。
時鐘の音に仲間の元への帰還を促されるが、なんとなく温かい食事の場に赴く気にもなれない。
いつもは枝から枝へと足場を移すように巡っていく思考が、今はちっとも上手く繋がってくれなかった。
大木の影から巨人よろしく急に大きなお尻が現れて、やはり急に出てきたリヴァイがしっかりとその丸みを掴んだかと思うと、唖然とする私を置いて振り向きもせずに去っていく。
あまりにも馬鹿馬鹿しい妄想だが、そんな状況に陥ったといっても過言じゃないくらい私は途方に暮れていた。もし今夜、私が体を綺麗にしたら、リヴァイはやはり部屋にやって来るだろう。他人には読み取れるほどの疲労を、私にだけ押し隠して。
その時、私は彼に何と言うべきか。何を言わざるべきか。――彼に、何を言いたいのか。
「そんなの、『もうやめよう』一択だよな……」
声に出して、噛みしめて、起こった感情にこそ自分の本心を知る。
「リヴァイのため」を言い訳にして、彼から与えられるものを享受してばかりだった私の立場が、とうとう無視できないほど明らかになって。それでも私は、その立場を手放したくないと思っている。
なんて傲慢だ。
目を閉じると、また二つの影が浮かぶ。それは決して私とリヴァイではない。
息を一つ吐き出し、私は歩き出した。夜更けを待つまでもない。今すぐリヴァイを探しだして今後のことを話そう。
そう思った時だった。
「っ、うわっ!」
外廊下から兵舎につながる通用口を潜った瞬間、目の前にぬっと黒い影が現れた。飛び退って柱にぶつかり、起こった痛みにますます視界がぶれる。ようやっと混乱が落ち着いた時、不動の影の中に今日何度も思い浮かべた顔を見つけて、私は思わず声をあげた。
「……リヴァイ!? なんだよ急に現れて! ぶつかるところだったじゃないか!」
先ほどまで確かにとてつもない寂寞を抱いていた相手だが、今は「君なら避けられただろ」と責める気持ちでいっぱいだった。それほど突拍子もない、まるで私の進行を阻むような登場だったのだ。
肩を怒らせる私に対し、しかしリヴァイは一瞥すらせず、急にこの腕を掴んで歩き出した。
「えっ!? ちょっと……!」
「今まで誰といた」
「は!?」
「……いい、口を開くな。来い」
「なんなんだよっ……」
有無を言わさず引きずられ、辿り着いたのは無人の作戦準備室だった。名前は立派だが、四方二メートルもない広さに申し訳程度にテーブルと椅子が置かれているだけの空き部屋だ。戦闘員の数が安定しない兵団では設備の拡充も縮小も停滞気味になる。要するに、今は余って手持無沙汰の場所だった。おかげで少し埃っぽいし、そもそも灯りもなくて薄暗い。もうじき顔も見えなくなりそうだ。
連れ込まれた先にも連れ込んだ当人の態度にも不審を感じ、ようやく離された腕をさすりながら、黙ったまま一向に振り返らない背中を見る。
「どうしたんだよ、こんなところに連れ込んで。……何かあったの?」
「尻を出せ」
「っなんだって?」
さすがに仰天した。聞き間違いかと思ったが、問いただす前にリヴァイが口を開く。
「そこに手ぇついて尻を突き出せと言っている」
そう言って顎を動かし、テーブルを指し示す。体半分だけで振り返り、頑なにこちらと眼を合わせようとしない態度は彼自身にも御しえない何かがあるのではと察するに有り余るものだったが、なにぶん予想もしていなかった要求をされている最中だ。私は素直に動転した。
「はあ!? え!? 今? ここで? 誰か来るかもしれないのに、」
違う、そんなことを聞きたいんじゃない。
「リ、リヴァイ? 何かあったんだよね? 理由も言わずにそんな、」
「ハンジ」
「ーー!」
その呼び方は、始まりの合図に違いなかった。
いつのまにこれほど刷り込まれたのだろう、腕が反射のように開く動きを見せて、触れられる前からもう体の芯が温まりはじめる。
寝所以外でそんな反応をする自分に驚き、それと同時に、「何を慌てることがあるんだ」なんてぬるい反論が脳に差し込む。
他の人間ならいざ知らず、さんざん尻を揉んで揉ませてをやってきた私たちにとっては異常な言葉でもないはずだ。だって、つまりは「夜と同じことをさせろ」という意味なんだから。
どこか酩酊したような気分になった私は、リヴァイに示されたテーブルの前に立った。腿の高さの天板に両手をつき、肘までつき、ぐっと体重をかけて後ろに尻を突き出す。
そしてすぐに、己の従順を後悔した。普段から似たような体勢をとることもあるのに、ただ自分の尻を見せるためだけにポーズをとっているのだと思うと、皮膚の内側が瞬時に羞恥でいっぱいになる。おまけにそれを、リヴァイに見られているのだ。今すぐに尻を掌で覆い隠したい衝動に駆られる。部屋が暗かったのは幸いだった。
「……振り向くなよ」
リヴァイはそう指示して、息をひそめる私の動きまで制限してきた。すぐにでも始まるのかと身構えるが、それから十秒ほど、音のない時間が続く。
「っねえ」
「黙ってろ」
言葉の実を強く嚙みつぶして吐いたような、ひび割れた声だった。強固で鋭利な姿勢を保つ昼日中にも、静かで清廉な空気をまとう真夜中にも一度も耳にしたことがないその調子は、端っこを踏んでいただけの不安にあっというまに身を包まれるには、十分な歪みだった。
羞恥で背面の皮膚は熱いのに、指先や、ブーツの中の足先からは、じわじわと温度がなくなっていく。
なんで何もしないんだ?
手を伸ばして、触ってくれないんだ。
私がこうやって尻を突き出しているのを、眺めているだけでいい? どうして? 癒しが欲しいわけじゃないから? 私の尻では力不足だから?――私じゃない人を見てるから?
疑問の中心に、不意に、あの光景が色づく。自由の翼をまとい慣れない背姿に、そこだけが肉感的に張り詰めたような尻。隣のリヴァイ。
いやに鮮明な絵。
すぐそばで、ふ、と息を吐く気配があった。髪も揺らさないその弱弱しさに、私の我慢の緒が切れた。
腕に力を入れて、跳ねあがるように起き上がる。振り向いて伸ばした手は、きっと払いのけることもできたんだろうに、そうされることなく彼に届いた。肩を掴んで勢いのままに肉薄すると、過たず私を受け止めたリヴァイの背中が壁にぶつかる。ドン、と鈍い音が起こった。
「ッオイ、」
「なんで触らないの?」
光のない空間の未達を失くすように、真正面から、限界までリヴァイに顔を近づける。彼の異変の答えがそこにあるのではないかと、見開かれた目をさらに覗き込む。
「もう私は必要ない? 私じゃ無理? 私が君にできることは、なんにも、なくなっちゃった……?」
矢継ぎ早に投げて、静かな色の瞳にわずかにでも波紋が生まれたなら、私に対しての情もあるんじゃないか、なんて。
だけど、彼の讃える何一つ、理解に至れなかった。
相対していた眼差しが、すう、と細まったかと思うと、傾いて、一気にその像がぼやけたのだ。
「んっ!」
一瞬のあとには口を塞がれていた。物騒なやり方でじゃなく、同じ唇で。
私の追及に応えるように、両手でしっかりと尻まで掴んで。
呼吸の阻害。身体の拘束。自身の一部を、他人に好き勝手に弄られること。脳内から危険を訴える信号がいくつも発せられる状況に、だけど私は、その危険を施す人間がリヴァイであるというだけで動くことをやめてしまっていた。
「ふあ、ぅ、ン……」
隙間から侵入した舌があっというまに口内のすべてを舐めつくして、固まっていた私の器官を掬い上げると、今度は自分の口の中に招こうとする。
吸われた拍子にちゅるる、なんて音が頭蓋の中に響いて、私はそれだけで立っていられなくなった。たとえ完全に脚の力が抜けたとしても、リヴァイの腕と胴体と、股に差し込まれたリヴァイの腿に挟まれて同じ位置に留まざるを得ない。
尻を掴んだ両手はいつのまにか腰巻の下に潜り込み、外から内側に円を描くように、ねっとりと肉をこね回していた。いつもの触り方とは全然違う。二つの丸みのあいだにある、違う肉のあわいにまで響くような甚振り方だ。時折力いっぱい尻を掴まれて、持ち上げられて、ぷるぷると揺らされて、元に戻る過程でぎゅっとリヴァイに引き寄せられる。そのせいで股間が硬い太腿に押しあげられた。
「っふ、……ぁ」
下方の無体に耐えて目をつぶると、今度は上のほうで唇を噛まれて咎められる。一体私にどうしろというんだ。こんなに一方的で、力任せに、——気持ちいいことで、翻弄しておいて。
「っ、わ……!?」
ぐい、と体を持ち上げられたかと思うと、俯瞰するまもなく視界がまわり、背中にテーブルの天板が当たっていた。天井にはリヴァイの顔があり、その両目が北極星のように不動の煌めきを宿している。
押し倒された、と遅れて気づく。密着した夜を何度も過ごしてきたのに、こうした形でリヴァイと向き合うのは初めてだった。それもそのはず、これじゃあお尻に手が回せない。なんて言ってる場合ではなかった。
すぐにまた柔くて熱い唇が降ってきて、口の中をぐちゃぐちゃにされる。
「んぁ、は、う……」
リヴァイが施すもの以上に、酸素不足がもたらす意識の曖昧に焦りはじめたころ。片足に触れた感触が、ほんの少しだけ目を覚まさせた。腿裏にかかったリヴァイの手が、澱みなくそれを持ち上げて、
「んっ、……?」
開いた股のあいだに、やはりリヴァイの同じ場所を押し付けられる。違っていたのは、そこに突起のような硬さがあることだった。
あれ。もしかして。
私たち、これから〝する〟んだろうか。
「リヴァイ」
ぶつかってきた唇もろとも口を動かして、彼の名前を呼んでいた。予想外に大きくなった声のせいか、ビクリとリヴァイの動きが止まる。そうして、私が二言目を発する前に、覆い被さっていた巨大な熱はものすごい速さで飛び退ってしまった。
体を起こし、もうすっかり暗闇に飲まれた室内を見回す。探していた姿は部屋の隅にあった。常日頃は実際より大きく見えることもある体躯を、今は実際以上に小さく縮めて、何かの裁定を待つように背を向けて立ち尽くしている。
訊ねずともわかった。彼は自分の行いを恥じていた。私に口づけて、性行為の手前まで走ってしまったことを後悔していた。
私が名を呼んだことを咎められたと受け取ったらしい。そうじゃないと伝えたら、再開するんだろうか。そもそもどうしてこんな場所でこんな行為に走ったんだろう。
リヴァイの奇妙な行動の原因に、彼女の存在は、少しも影響していないだろうか。
訊ねたいことはたくさんあった。そのどれもが脳の上っ面をすべっていく。なんせ私の感情が一番強く留まっていたのは、彼の股のあいだに凝り固まっていた、欲望の顕れのことだったからだ。
リヴァイはずっと、それを晴らしたいと思っていたのかもしれない。ただ尻を揉んで癒されるなんて、やっぱり私の一方的な幻想だったわけだ。
「……そういうのって、手を使えば、早く処理できるかな」
やるせなさでいっぱいになりながら、せめてもの償いの気持ちで問う。リヴァイの小さく肩が揺れた。
「あの、私がやろうか。そのほうが……君の手も、汚れないし……」
「すまない」
蓮っ葉を演じてかけた言葉も、あっけなく退けられる。
「お前に、そんなこと言わせるつもりは……こんなことをするつもりも、なかった」
しかも、「お前じゃない」なんて拒絶に縁どられた、最高にみじめな謝罪によって、だ。
「……もう、行くね」
テーブルから降りて、震える脚を気取られないように立ち去る。話し合うべきだとはわかっていたが、あの背中に追撃できるはずもない。私も今は、ただ部屋に帰って休みたかった。あの場で何もかもを問い詰めて、自分がリヴァイの本当の意味での〝特別〟ではなかったのだと知るには、多くのものが削れ過ぎていた。
壁外での私たちはきっと、手にとれる範囲のすべてを動力に替えて、最後まで戦うんだろう。壁の内側でそれができないのは、ほんのわずかにでも心根の裸の部分を分け合っていた証拠なのかもしれない。
詮無いことを考えて、笑って。その夜、私は冷たい褥で一人眠りについた。
**
五日が過ぎた。当然ながらそのあいだ、リヴァイは部屋に来なかった。
相変わらず昼間も行動範囲は重ならず、というかおそらく避けられていて、彼の余韻すらまともに目にする機会がない。太陽の下でリヴァイとまともに話したのはいつだったっけ。今の私は、真っ白な紙の上にあの顔貌を、その特徴まで仔細捉えて描けるだろうか? できない気がする。
一年以上あんなに体温を感じて、一つに溶け合った気さえしていたのに。リヴァイのことをちゃんと見てなかったんだなぁ、なんて実感するだけの時間が過ぎていた。
「あの、ハンジさん! ハンジ・ゾエ班長!」
午前中いっぱいを使った班合同訓練を終え、愛馬を連れて厩に向かっていた時だった。一人の女性兵が兵舎から駆けてきて、勢いついたまま私の前に躍り出た。続けて述べられた名前と所属、そしてしっかりと見えた顔に、きゅっと胸が軋む。五日前、リヴァイと一緒にいた例の彼女だった。
「……どうしたんだい、そんなに慌てて。何か君の班長から伝言でも?」
平静を装って尋ねると、彼女は顔を赤らめ、どこか怒りを含んだ調子で言った。
「いいえ……散々希望を出しても埒が明かなかったので、直談判に参ったんです」
「直談判?」
「はい! 私を部下にしていただけないでしょうか!? 貴女の下にいれば、他のどこよりも一番巨人に対峙できると伺ったので……!」
ひっ、と息を呑んだのは背後に控えていたモブリットだ。まだ着任して日が浅いのに、もう私の副官として四方八方に力を発揮させている――させられている優秀な兵士である。
「ハンジさん、分隊長を通さずに班を越えて上申するのは……」
「うん、そうだね。だからとりあえず話だけ聞くよ。一緒にお昼ご飯でも食べながらさ」
ああ、と肩を落とすモブリットを横目に、彼女に向かって笑いかける。
こうして相対した人間に特定の役割を求められた時こそ、私は私を律していられるような気がする。思うところがある相手とは言え、厭う理由なんてどこにもなかった。
モブリットには席を外してもらい、私たちは食堂の隅で顔を突き合わせた。
爛々と目を光らせる彼女の要求は明快だった。
前線に在りたい。多くの巨人に接したい。不気味で不可解なその存在の中身を明かして、壁の際にいる仲間たちを鼓舞したい。——と、高らかに宣う瞳の奥には、知る者だけが感じ取れる〝未知〟への希求が潜んでいる。なんてことはない、彼女も流れ者やはみ出し者に混ざって調査兵団に辿り着く、変わり者の一人だったのだ。
問題は、「私の下」につくことを勧めた人間がいる、という点だった。
「一班のリヴァイさんに色々とお話を聞いたんです。三M級の巨人に限界まで接近して、帰投後に詳細なスケッチを添えた報告書をあげたとか。奇行種を含む六体の巨人の個体差をすぐさま把握して、討伐の優先順位と対策を瞬時に指示したとか」
「……よくそんな事まで覚えてたな、あの人」
うすうす予想していたことだったが、巨人に近づきたがる兵士に対してわざわざ私の名を出す人間の筆頭は確かにリヴァイくらいだろう。あとは分隊長のエルヴィンか。どっちも変なところでネジが飛んでいるという共通点はあったが、他人の能力を評価する眼は確かだと周りから信頼されている。けれど、だ。
「『まずはハンジに物の見方を教わるといい』と言われました」
「物の見方……ね」
私は近ごろ、その評価に背くようなことをしでかしたばかりである。
そばにいつづけて、これからもそばにいたいと思っていた人に、真摯な眼差しを向けることができなかった。もちろん公私は分けて考えるべきだけど、公でも私でも、ハンジ・ゾエの持つ資質は変わらない。彼女にとって、私は期待に沿える人間たりえない。
「あいにく、私は私の信用する連中が思うほど目も勘も良いわけじゃないんだ。すぐ近くにある物の色や形……温度でさえも、きちんと読み取れない人間なんだよ。間違ってばかりで、残念ながら君の指標になれるような存在じゃない」
本心ではあるが、胸を張って言いたくはないことを俯きがちに伝える。いっそエルヴィンの麾下にと推薦してあげるべきかなんて考えた時、目の前の彼女の口から「ふふ」と息が漏れた。まごうことなき笑い声だ。顔を上げると、彼女の口角の美しいへこみが目に入った。
「……なんだい?」
「いえ、『温度』と聞いて思い出したんです。『なんにでも近づいて手を伸ばして、相手の熱まで暴こうとする奴なんざ、俺はハンジ以外に知らない』と、リヴァイさんが言っていたので」
は、と息が止まる。彼女と私が思い浮かべた『相手』は決定的に違っていたけれど、それでも、得ようとするものは似通っていた。彼女は続ける。
「駐屯兵団ではずっと、壁に縋っている奴らの顔を見下ろしていました。壁外でだって、近づくのは殺すための一瞬だけ……自分の手で触るなんて、確かに考えたこともなかった。きっと直接触れないとわからないことも、たくさんあるんでしょうね」
「……そう、だね」
彼女が腕を動かして、テーブルの上に置いていた私の手に触れる。見た目よりもずっとぎこちない指先が、それでも必死で、自分の中にあるすべてを伝えようと縋ってくる。
「お願いします、ハンジさん。私は、あなたの下でそれを知りたい」
皮膚を焼いてしまいそうな熱さに、その時だけは、彼女がこの視界のすべてを占めていた。
「リヴァイ、いる?」
固めた拳を、コン、と軽くぶつけた後、気配のない扉の向こうに囁く。
「いないのかな……。いや、いるよね。いないことないよね。眠ってもないよね。君は本来横になって意識を失うような眠り方はしないし、つまり応えがないということは無視してるってことだね? あいにく私は今夜まったく眠れそうにないから、君が応答するまでここで扉を、」
顔にぶわりと風が当たったかと思うと、目の前の空間に引きずり込まれていた。数回瞬きをして、ほの明るい橙に染まった視界の真ん中に、ようやく求めていた人を見留める。
「やあリヴァイ、こんばんは」
「テメェ……クソメガネ。見合った訪問の仕方ってもんがあるだろうが」
「最適解のつもりだったんだけど」
「最低だ。町でどっかの家を訪ねてガキと一緒に礼儀を学びなおせ」
こんなに憎々し気な物言いも、とはいえ大した負の感情も籠もっていないので霞むように消えていく語尾も、光と影に彩られた静かで豊かな表情も、全てが久しぶりだった。投げればとりあえずは打ち返される石を確かめて、私は自分で思うよりもずっと安堵していた。
今後何かが変わってしまったとしても、この乾いた感触だけは不変であってほしい。
黙りこんでしまった私に、リヴァイも斜め下へと視線を逸らす。
「大体お前……こんな夜中に」
「そうだね。君が来るときはもっと遅かったかな」
「……」
「ああ、責めているわけじゃないんだ。君のは気遣いだったんだろうけど、私のは『もしも追い払われるにしてもこんな時間なら穏便に済ませてくれるんじゃないか』っていう下心だから、訳が違うよ」
「……何を言ってるんだ?」
「君に聞きたいことがたくさんある、って言ってる」
その場に一気に緊張が満ちる。リヴァイのせいだけじゃない。私も体に氷の芯が通ったような気分だった。拒絶されたくない。顔を背けられたくない。でも、何も知らないまま終わりたくもない。
リヴァイは体の向きを変えて、私を真正面で受け止める姿勢を作ってくれた。目元はこれ以上ないほど歪んでいるが、瞳には真摯な光が光っている。
ここが分岐に違いない。決定的に分かれる結果になったとしても、私はこの誠実に応えたい。
「――負担だった?」
「あ?」
「一人ぼっちでちょっと心配だったから面倒見てた相手がいきなり体を差し出してきて、無碍にするのも可哀想だから付き合ってたけど、本当は癒しどころかずっと負担だったんじゃないか、って。どう? 合ってるかな?」
目を合わせての沈黙は、わりと長く続いた。「そんなこと思ってない」の反論すらなかった。
リヴァイのこの無言は、『現状に不満を抱いている』ことの証明に他ならないだろう。が、彼はやはり誠実に、それを声に出してくれた。
「負担、ではあった」
やっぱりそうなのか、と思う隙もなく、「だが、」と告白が続く。
「手放す気もない」
「……え?」
「負担だろうが苦痛だろうが……耐えられる」
「それは……」
「あいにく〝可哀想だから〟なんて甘っちょろい同情心からじゃない。もっと……自分本位な理由でだ」
自分本位。リヴァイの言葉に泣きそうなほど嬉しくなる。私たちの行為は、ちゃんと双方からの願いで成り立っていたのだ。
だけどリヴァイは、「耐える」という言葉も使った。一方に負担が偏っている以上、私がほとんど与えられる側である事実は変わらない。
次は、あの日のことに言及しなければならない。
「耐えられる……君のその我慢は、このあいだ、君が私にしたみたいなことに対するもの? ああいうことをしたくて、だけどずっと耐えてきたってこと? だから最近はまともに揉まずに帰ってたんだね?」
一息に畳み掛けると、リヴァイが思わずといった様子で自らの目を覆った。一体何を避けたがっているんだろう。ぐう、と喉の奥で唸るような音まで聞こえてきて、一筋縄では動かない詰まりがそこにあるのだと訴える。
「お前は……俺を木や草かなんかと思ってたんだろうが、」
「そんなわけない」
押し出すように吐き出された詰りを、言い切られぬうちにはっきりと否定する。
「ちゃんと血の通った一人の人間として見ている。初めて会った時からそうだ。だからこそ、私のお尻を揉むことが負担になっているならそう言ってほしかった。私は君を困らせたいわけじゃない。君が一方的に辛い思いをして与えてくれるものなんて、享受できないし、したくない」
開いていた距離を、大きな一歩で詰めて迫る。ぎょっと退く顔に視線を据えながら、けれど標的は別だった。宙に浮いたリヴァイの手を掴み、強く握りしめる。重なった皮膚は、今しがた水でも扱ってきたみたいに冷たい。
「リヴァイ、聞いてくれ。私は君に安心できる時間をあげたかったんだ。そしてその役目を、誰でもない私が担いたかった。君と同じ、自分本位な行動だったんだよ。だから君だけが自分の望みを耐え続ける理由はないんだ。あの日のことだって……ちゃんと、話してくれれば……」
霞む語尾を助けるように、リヴァイも、もう目を逸らさずに私を見る。
「お前が俺に与えたいと望んだものは、ちゃんと受け取っていた。そこに偽りはない」
「うん……」
良かった、と涙が出そうになる。
「それとは別に、お前を抱きたくてしょうがなかった」
「う、うんっ?」
リヴァイらしくない直截な物言いに驚き、出かけたものはすぐに引っ込んでしまった。面と向かって言われると戸惑ってしまうが、嫌な気分にはならない。その理由を、リヴァイばかりが知らないのだ。その証拠に、彼は断首を待つようにこうべを垂れる。
「あの日のクソな真似については、悪かった。情けねぇが、テメェの欲を御せなかった結果だ。……許せとは言わねぇ」
そうだ、彼のこの誤解も、早急に解かなければならない。
「あのさ、私、ぃ、嫌じゃなかったよっ?」
リヴァイの肩が小さく揺れた。いつかどこかで見た動きだ。私の言葉が、彼の腹のどこかを小さく刺した標なのだろう。
「あの時も言ったけど、触ってほしいと思ってたし……実際リヴァイに抱きしめられて、お尻を揉まれて、口付けされて、押し倒されて……股も、あんなふうにされて、体がすごく熱く……」
「もういい」
「えっ」
「……来い」
「うわっ!」
言いながら頬に熱を溜めていたら、呆気なく遮られた挙句、少し乱暴に手を掴んで引かれた。飛び込んだ先はリヴァイのふところだった。
彼の腕と胸板がいっさいの不安なく、しかも眼鏡をぶつけないよう導いた上で受け止めて、ああこの強靭さはあの時から変わらないな、と過去の一場面を想起させる。顔を傾けると、リヴァイの両眼が間近に私を捉えていた。
背中に回った腕は締めつけない程度に優しく、けれど逃亡が敵わない程度には狭い。広い掌が下に移動し、尻に触れる。囚われた、と思ったのと同時に、熱っぽい表情が囁いた。
「今夜は……どうする、ハンジ」
「うん。君のそばにいたい」
「いいのかよ」
「ダメなことある? ずっと〝こう〟してきたじゃないか」
「……」
途端、薄い唇がムッと閉じる。言いたいことを飲み込もうとしている素振りだ。そのまま喉を動かして腹に落とすようなら改めて引き出してやろうと見つめていると、リヴァイは一つ息を吐き、私を抱きしめたまま力を抜いた。
「わっ」
次の瞬間、二人して背後にあったベッドに倒れ込む。いつのまにか誘導されていたらしい。立ち昇った香りは慣れ親しんだリヴァイのものだったけど、いつもの夜のものではなかった。脳に染み渡ったそれが、鼓動を不随意に加速させる。
「……初めて、君のベッドで寝るね」
「こっちでこんなことしようもんなら、一も二もなく裸に剥いてただろうからな」
低く、腹底を掻き回すような声に聴覚を攫われて、自分の心音さえ遠くなる。
向き合い並んで寝転んだ私たちは、明かりを消すのも忘れて見つめあった。リヴァイがシーツに押し上げられた眼鏡を抜き去り、丁寧に畳んで枕元に置く。私にまつわるものを大切にしてくれる手つきが、この男に、この身をどこまでも預けられる理由になる。
「あっ……」
リヴァイが私の体を両腕で囲い、今夜一番強く抱きしめてきた。私もその背中に腕を回して縋りつく。どこもかしこも温かい。互いの領分を侵して、皮膚や肉を焼くような熱じゃなかった。とろとろと溶けていって、一つになってしまいそうな温度だった。
「……しないの?」
「チッ。タチが悪ぃなお前は」
「でも、君が言っ、んんっ」
抗議の途中で尻を掴まれる。大きく開いた両手の指を、飲み込ませんばかりに二つの肉に埋めて、ぐに、と形を変えてくる。
リヴァイが何度も施してくれた、優しい触れ方ではなかった。衝動のままに押し付けられて擦られた、あの日のやり方だとすぐにわかった。
「す、すごいね、君……あの時も思ったけど、こんなにえっちな触り方できるん、っ」
肉を摘むように指が躍り、かと思えば、パンの生地をこねるように手のひら全体が躍動する。翻弄される。尻たぶを支え持つ中指と小指が、グッと内側に食い込む。狙われた隙間は、とっくに違うふうに熱を溜めていた。
「ねえ、指が、っぁ……」
「オイ、一晩中そうやって報告するつもりか?」
「一晩中掴んでるつもりなんだ……?」
「……」
頬を包んで顔を覗き込むと、リヴァイの眉の片方がひくひくと小さく痙攣した。過分な何かを私に浴びせる直前まで来ていて、けれど何も言わない。
「そうやって私に委ねようとするところは、ズルいと思う」
「……てめぇが無尽蔵に許すからだろうが」
「そうかな……?」
「そうだ。……お前と来たら、誰にでも、……」
相変わらず尻に大きな手を貼り付けたまま、リヴァイは私の胸に顔を埋め、そこで深い呼吸を繰り返した。すう、はあ、と繰り返す分だけ肌が温まり、湿り、まだ触れられていない場所がひどく疼く。こんなことができる人も、こんなことを許す相手も、私にとっては一人だけだ。
「君だけだよ」
黒髪を撫でて、頭のてっぺんに口付けて、もう二度と彼が不安にならないように、安心できますようにと願いを込める。
「こうやって寝間着を着て、そろそろ目もつぶって眠ろうかなって思ってる時のハンジ・ゾエのふところは、そんなに広くも深くもないんだ……君一人で、すぐにいっぱいいっぱいになるんだよ。だから、」
欲しいものがあるなら、ちゃんと教えて。
秘めた心の手を引き、そばまで招く。リヴァイはおずおずと私を見上げて、子どものように呟いた。
「……朝まで、ここにいろ」
ようやく零れたその願いがどこにもいかないように、深く、唇の温度を重ねあった。
**
葉群れを透かした陽光が、さらさらと地面に遊ぶ午後のことだった。
「おーハンジ、やっとリヴァイのタマ握ったのか」
「っぐ!っごほ! げぇほっ!」
食堂の入り口から一番遠い窓際でのんびりお茶を楽しんでいた私たちに、なんとも無粋な声がかかる。声の主は、先日私を修理屋として駆り出した男だった。
「うわきったね。……おいリヴァイ睨むなよ、俺じゃなくてハンジが汚したんだろ」
原因は君だろ!と叫んでやりたかったが、気道に入り込んだ水分がまともに喋らせてくれない。かわりに隣に座っていたリヴァイがものすごい剣幕で彼を睨む。こっちはこっちで一触即発だ。
「ハンジ。今後コイツとは口を聞くな」
「っん!?」
「それじゃあ兵務に支障が出るってーの。お前もいいかげん余裕持てってリヴァイ。俺のこと睨んでばっかじゃなくてさ」
「は、」
「っえ?」
「そんじゃーな」
言うだけ言って去っていく男を見送ったあと、私は向かいに座っていたリヴァイをまじまじと眺めた。
「余裕ないの? なんで?」
「……余裕がありゃ、テメェの女がクソ野郎とタマの話で盛り上がっても許せるってのか」
「? 別に盛り上がった記憶はないけど」
「嘘つけ」
「……もしかして、嫉妬かい?」
「ッゴホ」
いつになく焦った様子のリヴァイに、それ以上の言及はやめておいた。万が一拗ねさせでもしたらしばらく顔を見せてもらえないかもしれない。それは寂しい。話題を変えようと広い空間に視線を転がすと、ちょうど目が合う人物がいた。例の元駐屯兵団の彼女だ。
私たちに向かって大きく手を振った彼女は、ついでに、少し離れた場所を通りがかったエルヴィンの背中を指さして顔を顰めて見せた。うちの班への異動の件でまだやりあっているらしい。彼女にとっては重要なことなんだろうけど、分隊長たるエルヴィンの却下を振り切るには何かが足りないということなんだろう。
がんばれ、と応援するように手を振りかえし、ちらりと横目でリヴァイを伺う。彼もじっと彼女を見ていた。おおかた自分の勧めたことがあちこちに飛び火しているんじゃないかと心配しているんだろう。——わかってはいる、けれど。
「……リヴァイ、あの子のお尻を見てる?」
「あ? 見てねぇよ」
「ふうん」
「嫉妬か?」
ずいぶん食い気味に問われたが、少し考え、思いつくままに口を開く。
「嫉妬、なのかなあ。そうかもしれない。こんな感情初めてだからよくわからないんだ。君の視線までどうこうしようなんてとんだ傲慢だけど……モヤモヤしてしょうがないよ」
「ハンジ」
窓辺に置いて光に溶けそうになっていた片手を、リヴァイの手のひらで覆われる。触れて初めて、少し冷えていた自分の肌に気づく。己の中にある、おぼつかない不安を知る。
リヴァイの熱がほどけて絡みつき、じんわりとそれらを溶かしていく。見返す眼には、手にも劣らない熱情が灯っている。
「まだまだ、ままならないことばっかりだね、私たちは」
「……何度でも、こうやって触れればいい」
「うん。そうだね」
二つに分かれているからこそ、私たちは何度でも不安に駆られて、触れて、また何にも代え難い安心を得るのだろう。
「今夜も部屋においでよ、リヴァイ。もっともっとお互いのことを知り合って……ちっとも揺らがないような、〝特別〟になっていこう」
私は手のひらを裏返し、リヴァイの熱い手指を、そっと握りしめた。
〈了〉
(初出 24/04/27)