マイディア、ヒュージ・ロード
ハンジが巨大化する話
マイディア、ヒュージ・ロード
ハンジが巨大化する話
「やあやあリヴァイ、また君もずいぶん見つけづらいサイズになっちゃったねぇ」
「クソがコイツピンピンしてんじゃねぇかオイ」
調査兵団有地・第三訓練場。
対巨人戦を想定した広角機動用に整備されているこの敷地は、兵舎から最も遠い場所にあって、何をするにも声を上げ音を出すような騒がしい人間には到底似つかわしくない森のしじまに包まれている。
夜の帳じゃ不足とばかりに木々を重ね、おまけに土色の幕を被せたテントの奥で、ハンジ・ゾエはなんとも朗らかに笑っていた。
いつもどおりの兵服に、いつもどおりのゴーグルに、いつもどおりの髪型に、いつもどおりの表情に。体が多少大きくなったこと以外は、まったきいつもどおりの姿で。
「モブリット、説明しろ」
八つ当たりを自覚しながら、つい腹に据えかねて隣の男を呼びつける。
「はい。兵長に報を送った3時間13分前よりさらに8分前の16時47分、ここ第三訓練場で行われていた訓練の最中に分隊長の全長が6メートルになりました」
「なりましたじゃねぇだろうが、なんだそれは」
あまりにも簡潔な〝説明〟に思わず語気が強くなるが、こっちもこっちで動じることなく、どころかいやに平坦だった。
「申し訳ありません。我々巨人研究班も分隊長の巨大化から3時間21分のあいだ死力の限りを尽くして原因を探ってきましたが、残念ながら現在も究明には至っていません。兵長はご覧になっていなかったのでご存知でないと思いますが、貴方に報を送ってから今の今まで、分隊長の巨大化直前直後前日一週間前一か月前の食事睡眠行動のすべてを洗い出し、関連すると思われる文献全てを指で舐め、有識者を引きずり回して知識を吐かせ、怪しい噂も死人の墓まで掘り返してとそりゃもう全員分隊長のために必死で動き回っていたんです。しかし不甲斐ないことに力及ばず、ええ」
「……」
腹に何か含むと長台詞になるところは上司そっくりだ。ちらりと周囲を窺えば、テントの中に並び立つ研究班の面々はどいつもこいつもなぜか片頬を腫らし、揃ってこちらに視線を注いでいる。そこに何十本もの棘を含ませながら。
針はこう訴えていた。「今さら来て偉そうに」。
「まあまあモブリット、大方『ハンジ・ゾエが巨〝大〟化した』という報せが誤って『巨〝人〟化した』とリヴァイに伝わってしまったんだろう。最悪の場合は自分が仲間のうなじを削がねばならない……と三時間も頭を抱えていた彼の心中を察してあげないと。それにしたってすぐに間違いに気づきそうなもんだけどね」
冷えこむ空気を明るく緩ませたのは、巨人化、ではなく巨大化したハンジだ。とはいえ、瑕疵を言い当てられた俺は庇われながらとどめを刺されたも同然だった。
壁内、ひいては調査兵団兵舎内において、急使が遣わされることは非常に稀である。
おまけにその急使が団長付きの副官で、尚且つ「内密に」と厳しい顔で声を潜めてきたならば、これはもう、壁外に出たときと同等の緊張を持つべき事態が発生したということになる。
「ハンジ分隊長が巨人化しました」――使いの者が青い顔で告げた一言、これが誤っていたわけだが、それをよくよく精査もせずに「そうか」の一言で下がらせ、次に呼び出しを受けた時が〝その時〟なのだと腹中で氷を煮詰めながら、ひたすら冷たい手指を開いて閉じてと繰り返していた己の間抜けっぷりは弁解のしようがない。
ハンジの言うとおり、「それで?」と指示や詳報を確かめて、すぐに勘違いに気づくべきだったのだ。結局俺は日がとっぷり沈むまで脳みそを真っ白に抜かれたままで、たまたま通りかかったミケが「何してるんだお前」と声をかけてこなければ、訓練場の手前で一晩中石像のように虚空を見つめていたことだろう。
奥歯を強く噛みしめ、生じた痛みを、いまだ熱が戻らぬ腹へ落とす。
ハンジは、巨人化したのではない。
巨大化したのだ。
「とりあえずさ。入っておいでよ、リヴァイ」
呼ばれて、地を這っていた目線を上げる。あぐらをかいた巨大なハンジが、周りの人間よりもよっぽど安穏とした様子で俺を手招いていた。指さす先には簡易ストーブが設置されており、橙に膨らんだ光が森の空気を温めている。恩恵に預かれとのことらしい。
促されるままハンジの横に立ち、一息つき、しかしすぐに手持無沙汰になる。もっぱら力を振るうことでのみ存在を誇示できる己が、兵団随一の頭脳が集まるこの状況で何ができる。何の役に立てるというのだ。
わざわざ無用を見せびらかして部下を不安にさせる趣味もないので、せめて心得たツラで控えているつもりだったが。
「君、丸腰じゃないか。装備は置いてきたの?」
「必要ねぇだろう」
「ふうん。この場は君の預りになったってことでいいんだね?」
「ああ……エルヴィンやミケはお前が抜けた分の業務と外対応に当たるそうだ。一時間ごとに報告をあげることになっている」
「と言ってもなぁ。聞いてのとおり、巨大化からこっち報告できそうなことはひとっつもわかっていないんだ。困ったもんだよね、いっそ一本ずつ毛を抜いて届けようかな」
「刻んで枕に詰めろってか」
「いや、束ねてロープにしてほしい。髪の毛の強度って案外馬鹿にならない。おまけにこのサイズだ、あらゆる面で役に立つと思う」
同じ空間にハンジ・ゾエがいて、静かに気配を消していることなど不可能に近いのだった。デカくなろうが小さくなろうが、コイツのこういうところは変わらないらしい。唇を尖らせ肩をすくめ手を振って握って掲げてと呑気にうるさく振るまう奴を見て、変に強ばったままだった体のあちこちがようやく力を抜く。
そこだけで馬の頭ほどもありそうな膝小僧を軽く蹴ってやると、「いてっ」と乾いた枝が折れたみたいな声が出た。
「何が『困ったもんだよね』だ、他人事みてぇに言いやがって」
「それだって、今のところ巨大化した以外〝何もない〟からさ。おかげで仕事にも追われずこんなに居心地のいい場所で過ごせている。ね、なかなか立派なテントだろう? モブリットたちが力を合わせて、ものの十分かそこらで建ててくれたんだ、凄いよね」
ハンジが顔を傾け、流れた髪の毛の合間から得意そうに笑う。いつもよりさらに目がデケぇなと阿呆なことを考える自分に舌打ちしつつ、改めてテントの中を見渡した。
確かに、テントの天井には堅実に梁が渡され、高さはともかくとして、6メートルのハンジが寝転んだとしても十分に余りそうなほど広さがとられている。急造にもかかわらず整地も丁寧に行われており、ハンジが座る下には厚い布が敷かれていた。
が、その手前に置かれたテーブルには書籍とインクまみれの紙が山積し、ここで飛び交った思考がどれほど大量であったかを、物言わずとも主張しているのだった。
「私のために……いろいろ、みんな頑張ってくれたんだ」
声を落として、ハンジが言う。途端、モブリット以下四分隊の兵士たちが目やら口やらをくしゃりと歪ませ、ぶるぶると全身を震わせはじめた。中には鼻をすすり顔を覆う者までいて、俺はやっと「そういうことか」と得心した。
全員に届くよう、息を圧して言葉を放つ。
「……大変だったな、お前ら」
「っっ兵長おおぉぉ! なんでもっと早く来てくれなかったんですかぁああ!」
「ぶっぶ、分隊長、急におっきくなってっ! 集団で幻覚を見てるのかと、頬の打ち合いもしてっ!」
「俺たち尿検査して薬物の反応も見たんですよッッ! 全員陰性でした!」
「よ゛せお前だぢ、兵長が困っで……うぐぐ!」
テントの中に、ちょっとした嵐が起こった。
当然のことながら、兵団随一の頭脳を寄せ集めてもこんな馬鹿みたいな状況をすんなり受け入れて処すなんて至難の技だったろう。俺は言わずもがな勘違いで氷漬けになり、エルヴィンやミケとて、呼んだはずの俺が一向に現れない謎に気づかない程度には混乱していたのだ。より渦の真ん中近くにいたこいつらはどれほど不安に駆られていたことか。
俺の存在が有用か無用かなど、今は関係ない。同じ目線で異を見ながら揺れぬ標として立つならば、たとえ虚飾だとしてもいくばくかの支えにはなるはずだった。
「いやあ……こんなに驚かれるなんて思っても見なかったから、それこそ夢かと思ったよ」
「だからなんで他人事なんだお前は」
まさしく渦の真ん中にいたハンジだけが、いつもと違って静かなのがおかしかった。
「薬物」
「なぜ服や装備品も大きくなる?」
「やっぱりこれ、夢なんじゃないですか……?」
「また頬を打ち合いたいのか、ニファ」
「俺たちが……俺たちのほうが小さくなってるって可能性は!?」
「アーベル、外の空気を吸ってくるんだ」
「もしかして、急激な成長期なんてことは」
「……成長期なら君に顕れればよかったのにね?」
「削ぐぞ」
班員が額を突き合わせ意見を交わす背後で、ハンジがこちらに向かって囁く。サイズがサイズなので声はちっとも潜んでいなかったが、白熱する議論がくだらないやりとりに躓くことはなかった。
両脚を抱えるハンジのそばで、俺は何をするでもなく椅子に座っていた。議論の加担になれるにはほど遠いため、班員たちの顔色を見ながら「どこで休憩を言い渡すべきか」なんてことを考える。
——『何でもいい! 頭に浮かんだことを全てこの場に吐き出すんだ』
机の上で、金品や見栄や矜持ではなく、発展のための言葉を出し合うこと。そういった場における活性や鎮静、さらには脱線までもを図って導くのは、普段は隣にいる奴の役目なのだが。
わずかに顔を動かし、モブリット曰くおよそ3.5倍の大きさになったという当人を見上げる。
頭のてっぺんがテントの天井ギリギリの位置にあるせいか、ハンジは両足を揃えて抱えて背を曲げ、口元を膝に埋めていた。そうまでしてもデカいもんはデカいままなのだが、長い手足を伸ばしきって何かを得ようと動きまわる常を考えるとむしろ縮んで見えてしまう。
この巨大を前にして何をと己でも思うが、動きについてだけじゃなく、ハンジがやたらと静かなのも要因だった。
部下たちに視線を注ぐ横顔は、しかし瞳の色をゴーグルに隠して容易に内心を悟らせない。からかいの応酬も少なく、そういえば一巡以上続かない。
昼間にハンジ巨大化の報せを受けた時、兵舎で混乱が生じているような気配はなかった。兵団史上類を見ない異常のさなかにあって、けれど大部分の兵士たちは変わらぬ日常を過ごしていた。
ハンジのそばにいた部下たちといの一番に報告を受けた団長エルヴィンが混乱しながらも巧く手を回したのだろうが、それ以上に、ハンジが自身に起きた変化を平静に受け止めたことが大きいのではないか、と思う。やれ実験だの解剖だの、自分の体だからむしろ好きに扱ってやろうなんて暴走もなく、この優しいあつらえのテントにすぐに収まったのだろう。そうでなければ、騒ぎはもっとずっと大きくなっていたはずだ。
静かだな、と。また思う。
大の大人の何人がどれだけ口角に泡を飛ばして叫んでいようとも、身振り手振りで意見を主張していようとも、この沈黙には勝らない。ハンジ・ゾエこそが空気を混ぜない世界は、こんなにも、痛いほど静かだ。
「どうしましょう、このまま体が戻らなかったら……」
「血液検査をして、組織を採取して……」
「中央本部への報告や、兵団内での扱いも……」
いびつに伸ばした布の上に、ぽつぽつと染みを作るように、ハンジ以外の声が降る。
「お前」
「んっ?」
「デカくなってから、クソか小便はしたのか」
気づけば、そんな質問をハンジに投げていた。頭に浮かんだものをそのまま放り出してしまったらしい。
パッとこちらを向いた顔が、いつもどおりに、けれどいつもよりもずっと強くて大きな輪郭でこちらの不躾を受け止める。そして。
「……ブッ、はははは! ちょっ、君、こんな時にもシモのこと!?」
一気に崩れた。
それまでの静止が嘘のように大口を開けて笑い出した体が、ぐわんと背後に傾いて、テントの壁をやわく押す。引っ張られた布が天井、そこにかけられていたランプも揺らしに揺らして、空間全体が一時的にハンジの笑いと同化したようになる。
机に鼻を擦り付けるようにしていた班員たちも、ふと、我に帰ったように顔を上げた。
「いや、そういえばどっちもしてないな! けど今それを聞くわけ!?」
「今だからだろうが。巨大化で小便の量も増えるんなら、」
「ひー! そうだよね大事なことだよね真っ先に考えることだよね! 穴でも掘るべきかな!?っくくくく……」
大きな体を縮めながら、ハンジがヒクヒクと喉を震わせる。目尻には大粒の涙が浮かび、今にも溢れてしまいそうだ。ああ、そっちからは出るのか。上からの分泌を見てさらに疑問が生まれる。
「そういや……風呂に入る時はどうするんだ。髪なんか……梯子でもかけて水を流すのか」
「ぐふっ……! もうやめて、面白すぎる……!」
ハンジはとうとう両腕で顔を覆い、隙間からくすくすと掠れた息を漏らしはじめた。いつになく抑えた笑い方だ。珍しく思って眺めていると、不意にあいだから大きな眼が覗く。
「君って、本当に……ちっともブレないなぁ……」
数秒、見つめあったあと。
俺は呆然とする班員たちに向き直った。
「オイ、今日は終いだ。お前らは兵舎に戻れ」
「えっ!? でもへいちょ、」
「どいつもこいつも逆立ちで壁外行って帰って来たみてぇなツラしやがって。上司のお気楽見習ってきっちり血ィ下ろしてこい」
「頭を使いまくって疲れただろうからゆっくり休んでくれ、だってさー」
ハンジの補足を受けて、班員たちがのろのろと顔を見合わせる。互いのげっそりとこけた頬、なのにパンパンに赤くなった目元に驚き、反論する気力をすっかり削りあって、全員が力なく頷いたのだった。
「交代で見張りを立てていますので、何かあればそちらに」
「うん、わかった」
「明朝は〇六〇〇に出動します」
「よろしく頼むよ。あ、モブリット」
「なんですか?」
呼び止める声に、最後の一人となったハンジの副官は訝し気に振り向いた。殊この二人においては、名を呼ぶだけの数音で違和を掬い合うような習慣があったので、この時もそれかと踏んでハンジを見上げる。しかし呼び止めた当人は首を傾げて、「自分でも何を言うべきかわからない」という角度をとっていた。
「ええと……ごめんね、迷惑をかけて。研究班のみんなも……」
「はあ、殊勝にされているところ悪いのですがそういうのは全部終わってからにしてくださいね」
精算は終始が出揃ってからということだろう。合理的なやつだ。
「はは。また明日ね」
軽やかな返答を合図に、モブリットは敬礼して静かにテントを出て行った。足音が遠ざかり、ついに消えて、その場には俺とハンジの二人きりになる。
「……で、一応訊くけど、君は休まなくていいの?」
「そりゃ半日以上木偶だった俺への嫌味か。高いところからずいぶん偉そうだなデカクソメガネ」
「デカクソメガネェ? 君さぁ、もしかして私が規格外の大きさになったからって開き直ってない? 卑屈になられるよりずっとマシだけど」
「聞こえなかったのか? 俺は『高い』と言ったんだ。いつまでも下手クソな演技してるんじゃねぇ」
淀みなく降っていた声が、呼吸ごと、口に戸を立てたようにひたりと止んだ。振り返って見上げれば、ハンジはわずかに瞠目していて、それでもすぐに諦めたように瞼を伏せる。ゆったりと足を崩して座っていた体が、地面から生えた腕に引かれるように、ずるずると倒れ込んだ。暗い眼窩の影が、俺の目線よりも下に広がる。
「……クソ……やっぱりバレてた……」
「当然だろうが」
横向いた顔に近づき、額にかかる髪の毛を押しのけてやる。長い睫毛を絡ませるように閉じていた瞼が、薄く開いてこちらを見た。
「ごめん……少し、このままでもいいかな……」
「状況わかってんのか。テメェの体を第一に考えろ。……ゴーグルも外せよ」
色を失くした唇を、ふ、と綻ばせた顔は、部下の前じゃよくよく顕れない形をしていた。本当は俺にだって暴かれたくなかったのだろう、ハンジは言われたとおりに戒めを取った後、手の甲で目元を覆い隠すと、最後の視線すらも避けてしまう。
巨人研究班が立ち上げられるよりも前のことだ。
たびたびこの巨人狂いの話に付き合わされていた俺は、ハンジが巨人という存在に疑問を持った経緯についても、耳の穴が倍になるくらい聞かされていた。
切り落とした頭を蹴ったら、異常に軽かった。
質量が小さかった。
逆に言えば、小さな質量だからこそ、巨大な体でも人馬と同じ速さで動き回れるのだとわかった。
話の詳細は覚えていないが、物の道理を考える法則の一つに、『物体の質量が大きければ大きいほど受ける負荷も大きくなる』というものがあるらしい。
もしも人間が、質量はそのままで巨人ほどの大きさになったとして、体にかかる負荷は今の比ではないほど増大する。全体の大きさによっては内臓や筋肉や骨が潰れるほどになるというのだ。
——『だから巨人は不思議なんだ。その法則から外れている』
どうして忘れていたのか。部下の前だからと張られた虚勢を、肩を並べる俺だけは真っ先に看過すべきだったのに。ハンジが今どれほどの負担を感じているのかはわからないが、伏して起き上がれないところを見るにけして軽くなどないはずだ。何が「当然だろうが」だ。これに耐える隣で、さっきまで間抜けに過ごしていた自分が情けなくなる。
「……自分の体で、巨人の視界を体感できるなんて、……望みが叶って嬉しいよ」
「バカが……」
この後に及んでもそうやって口角を上げるのだから、この人間はとことんカタイと思う。恥も失敗も涙もあけすけに晒しておきながら、腹の底に張った一枚の硝子蓋だけは守りきって、中に誰も入れようとはしない。その奥の、空っぽでない場所だって見えているのに、けっして触れさせようとはしないのだ。
見張りに声が聞こえないように、と理由をつけて、俺はハンジの首元に座り込んだ。生の肌から目をそらしつつ背中を預け、こちらもハンジの視界に入らないようにする。けれど触れた箇所がくすぐったかったのか、大きな体がひくりと震えた。
「……コラ。調査兵ともあろう者が、迂闊に歯が届く距離に来るなって……」
「お前なんぞに隙を見せてどうなる。噛みつきでもするのか」
「うーん。舐めるくらいはするかも……?」
そばにあった顎をべしりと叩くと、ふふふ、と背中から揺れが伝わる。
感触も、振動も、熱も、匂いも。すぐそばにあるハンジの実在の証は圧倒されそうなほど強い。当然と言えば当然だったが、こうして距離を詰めるまで意識に上らなかったのはやはりハンジの気配がいつもよりは鳴りを潜めていたからだろう。特に、周りに漂うかすかに甘い香りなどはハンジの肌から発せられているのだろうが、今までそんなものを嗅ぐ機会もなかったので、腹の底をくすぐるような奇妙なそれを正体がわかるほど吸い込んでいいものかと内心迷う。
「……ん、リヴァイの匂いがする」
「オイ、そりゃ臭いって意味じゃねぇだろうな」
「違うよ……清涼な匂い。なのに時々、お腹が空くような濃い香りになるんだ……」
「……」
なんつー表現しやがるんだコイツ。他でもないハンジにあっさりと遠慮を打ち砕かれてしまったので、もうどうでもいいかと深呼吸した。見えずとも異変を察知できるよう背後に意識を集中させる。
「そういえばさぁ」
こちらが不要な緊張を解いたことに気づいたのだろう。ハンジは苦し気に、それでも本のページをめくるように新しい話をしはじめた。この人間はこうして打開策を探るのだということを嫌というほど知っているせいで、俺はその無理を止めることができない。
「君の声も、もっと高く聞こえるかなって思ってたけど、そうでもなかったなぁ」
「ああ、体がデカいと声も低くなるって話か」
「えっ、その話も覚えてたの……?」
放られた驚きが、コツン、と爪先のプライドにぶつかる。
「……なぜ覚えてねぇと思った」
——『もしも巨人が人間の言葉を話せたら、きっと声は低いと思う。』
これも、いつかのハンジの与太話だった。大きな楽器ほど低い音を奏でるように、声帯が大きくなればなるほどそこから発せられる声も低くなる。質量の大きさと空気振動の幅が比例するとか何とかの話だったが、当時の俺は「クソほどどうでもいい」と思っていた。ついでに「クソほどどうでもいい」とハンジ本人にも返したはずだ。実地で体験することになった今、なんとも妙な感情で過去が上塗りされていく。
「お前の声も……まあ、いつもと変わらねぇな。いちいち骨の表面まで搔くような響きだ」
「あれ、私は君にずっと不快な音を聞かせてきたってことかな?」
「……だったら夜通し話に付き合ったりしねぇ」
「ははは。……やっぱり、リヴァイの対巨人スキルって最強かも」
ひどく疲れた様子で何を言い出すのかと思えば、やはり巨人の話だ。しかし不自然に俺のことを含んでもいる。地から熱が消えいく秋の夜に、温もりを守ろうと身を寄せ合っているのは〝ハンジと俺〟だというのに、どうして今、〝巨人と俺〟の話が二人のあいだにねじ込まれるのか。つっかえる思考をどう拾ったのか、ハンジが空気に声を溶かす。
「モブリットたちも、エルヴィンたちも……巨大化した私と、言葉こそ普段どおりに交わしていたけれど……この体のそばまで来て、触れることはしなかった」
「そりゃあ、」
「そうだね、優秀な調査兵ならむしろ、備えが必須の警戒心だよ。だけどさ……だったら、現兵団最強の兵士がそれをやらなかったのは、どういうわけなのかな」
「……!」
「君ってば、簡単に私の手の届く範囲に立って、あまつさえこの巨体を足蹴にまでするんだもの。私に対して一向に警戒を解けなかった彼らは、……さぞや驚いたことだろうね」
――『なんでもっと早く来てくれなかったんですか』
今になって、班員たちから投げられた叫びの意味が、はっきりと線を成す。
なんで、もっと早く。ハンジが安全であると、ハンジ自身にも示してやれなかったのか。あれは自分たちへの憤りも含んだ感情だったのだ。愕然とする俺の肩を宥めるように、掠れつつも、芯を含んだ言葉が降ってくる。
「壁外で一度でも巨人を前にしたことのある兵士なら、当然抱えるような根源的な恐怖を、なぜ君は持ちえなかったのか。……それはね、きっと君が強いからだ」
「強い?」
「そう。武力においても、精神力においても。……強いっていうのは、知る余裕に繋がることだと私は思う。君が君自身の強さをどういうふうに捉えているかはわからないけれど、その強さがあったからこそ、こうして異常を顕した私にもすぐに近づけたんだ。こっちが必死で隠していたことも遠慮なく暴いてくれちゃってさ、……まあそれは置いておくとして」
ハンジが顔だけを天井に傾け、ふう、と溜息を昇らせた。それは何も揺らさずどこかに消えて、ただ、次を紡ぐための余地になる。
「私もそんなふうにありたいと、常々思っていたんだけど……かなわなかったな」
「違う」
こぼれた心を押し止める勢いで、思わず口を開いていた。
「俺がこうしてお前に近づけて、触れられているのは、お前がお前だからだ。お前が巨人のことを知れているのだって、お前が自分で望むような強さを持っているからじゃない。奴らを知ろうとしているからだろう。……そんな物好きは、ハンジ・ゾエだけだ」
互いに顔を背けていてよかった、と心底思う。自分がどんな表情をしているのかわからない。ハンジの反応なんて輪をかけて予想もできず、無意識に背筋が伸びる。
「……君ほどの兵士が、突然巨大化した人間を前にして、『何かのきっかけで自我を失くす可能性もあるかもしれない』と……少しも考えなかったって言うのかい?」
固い声だ。だが咎める意図ではなく、何かを恐れるような緊張を感じ取る。この怯えを前にして、自分を守るための嘘はつきたくない。
「それでも、かまわねぇと思った」
「ちょっと。……二度と言うなよそんなこと」
まったくだ。
どうかすれば投げやりにも、ハンジを軽んじる言葉にも聞こえてしまっただろうが、たとえ正しく受け取られたとしても、俺の行動を〝兵士としての強さ〟と評価したハンジの眼を否定することになる。
本音を明かしたことに後悔はなかったが、状況も言い方もまずかった。
体内に変に熱がこもるのを感じて細く長くと息を吐きだしていると、不意に、背後の支えが消えてなくなる。
驚いて振り返れば、ハンジが寝返りを打ってこちらに背中を向けていた。
「なんだ……どうした」
「……いや、うん。……音がね、聞こえちゃいそうだから」
「音?」
「毎度毎度、民に女神に互いに向かってと声高に叫んでるんだから……特定の相手にだけ鳴り響くようじゃあ拙いだろ」
「特定、……。おい」
なんでこんなときだけ伝わるんだ、コイツには。
暗に「顔を見せろ」と含ませた呼びかけに、しかしハンジは動かない。歪んだ肩甲骨の影がうっすらと憤りを浮かしていたが、おそらく自分に対してのものだろう。
もどかしくて仕方がなかった。堅くて難くて、ちょっとやそっとじゃ触れられない心を守ろうとするその背中は、今、俺の目の前でこの上なく薄くなっている。ハンジが俺よりほんの少し高いだけの全長だったなら、包むなり撫でるなりでその骨と筋とを温めて、中に秘されたものを存分に拝んでやったのに。
〝強い〟と称されたこの掌は、あまりにも小さい。
脆弱で巨大な壁に向かって、もつれる舌と喉で語り掛ける。
「クソメガネ……こっち向け」
「やだ。デカが取れてるよ」
「ハンジ」
「……なんだよ」
「今の俺は、見つけづらいんだろうが。目を離すんじゃねぇよ、潰したらどうする」
「っぶふ」
崩れぬ山のようにあった背中が、一度だけ跳ね上がって、それから緩慢に向きを変えた。足元に髪が落ちるほど距離が近づき、裸のままの両眼が、鏡よりもいっそう濃く俺を捉える。身じろぎもせずそれを見つめ返す俺の姿は、さながら樹脂に閉じ込められた小さな虫だった。
ハンジはしばらく口を噤んだあと、唇を薄く開いて、ほとんど吐息だけで囁く。
「巨人の習性について……これだけはずっとわからないだろうなって思ってたことがあったんだけど……少し、わかってしまったかもしれない」
「まわりくどいな。何が言いたい」
「食べちゃいたいな。君のこと」
色を孕んだ目元に、ゆるやかに開閉するベールのような睫毛。琥珀を煮詰めた色の瞳。そこに閉じ込められた、ちっぽけな男の姿。
ゴクン、と動いた喉の意味を、俺はもう、生まれた熱が腹に落ちきる前に理解する。理解して、それで。今度は辛うじて「今じゃない」と抑えこんだ。
「……ちゃんと歯ァ磨くってんなら、口に入れるくらいは許してやる」
「ええ? 本当かい? じゃあおっきな歯ブラシでも作ろうかな」
肺からどうにか絞りだしたものを、ハンジが朗らかに笑って受けとめたものだから、こんな到底理解しがたい異状も明日には元戻りになって、ずっと近い場所でまたこの笑顔を見ることになるのだ、と。
頭から、すっかり信じそうになる。
けれど。
「あのさ……明るくなったら、私がちゃんと自分の足で立って、前に進んでいけるか、見ていてくれないかな」
小さな懇願が、地に刺さって、逸る気持ちの足を止めた。
「なんだ。歩けるまで回復できそうなのか」
「まあ、うん。ひとときでも、こんな贅沢な時間を過ごせたんだ。……だから大丈夫」
「……何を言っている?」
同じ道を隣り合って歩いていた存在が、急に踏み出す先を変えてしまったように。ハンジとの距離が、開いた気がした。感触も、振動も、熱も、匂いも、すぐ目の前にありながら、なぜか薄く遠くなっていく。
「ええっと、ホラ。明日以降はたぶん、新陳代謝の影響で君が近寄れないくらい臭くて汚くなるだろうし? こうやってそばでおしゃべりできるのも今夜限りかなって」
「そんなの俺が、」
「……ダメ」
声と同時に大きな掌が迫ってきて、視界を暗く覆いつくした。人肌の感触と熱に、掴まれたのだと気づいたのは数秒後のこと。そのころにはもう、俺はすっかりハンジの両手に包まれていた。
何も見えない。動けない。
不思議と体を損なう不安はなかったが、どうしてか、今いま触れて繋がっているはずのハンジの存在に危うさを覚える。溶けるように、吹き飛ぶように、目の前からいなくなってしまうんじゃないか、と。
胸の真ん中に底なしの穴が開いて、じわじわと焦りが溢れ出す。
「ねえ、リヴァイ」
「……ハンジ」
「君の強さが、私を私だと断じられたような、人を視る眼にこそ宿るなら……たとえ二対の一つが欠けたとしても……どうか生涯、それをなくさないで」
「ハンジ、手を」
「そしてまた、……私を見つけて」
なら、お前だって。
ハンジ・ゾエとしてそこにあれよ。
開いた口は、周囲の空気ごとハンジの闇に飲まれて、何の音も発しなかった。
**
「兵長……?」
「……ッ」
くわんと脳がぐらついて、一歩、足を横に開く。地盤を固めてまっすぐに立ち直ると、目の前には至極見慣れた光景が広がっていた。調査兵団東棟舎内は中心に位置する、食堂である。
「……ハンジ、は」
「えっ」
背後から、呆気に取られる声がした。
勢いよく振り向けば、そこに「ひっ」と喉の引き攣りが続き、白い頭巾を被ってホウキを抱きしめた若い兵士——確かオルオ・ボザドだ——が目を白黒させているのだった。
「あ?……いや、ちょっと待て」
「は、はい! お忙しいところ申し訳ありません! 担当場所の清掃が終わりましたのでご確認をお願いしたフガァッ!」
待てと言ったのに、オルオは盛大に舌を噛んで倒れ伏した。周りから「何やってんだよ兵長の前で!」と数人が飛んでくる。どいつもこいつも同じように頭巾と前掛けとホウキを手にしていて、どうやら俺はよりにもよって掃除という常よりも集中が必要となる時間に意識を飛ばしていたらしいと気づいた。
白昼夢、とでも言うのだろうか。それにしては嫌に生々しい感触が、肌の上どころか下にも入り込んで疼いていた。首に滲む汗を拭い、いまだ慌てふためく兵士たちの一人に「オイ」と声をかける。
「ハンジがどこにいるか知ってるか」
「はっ……ハンジ分隊長ですか? たしか午後は、新兵向けに巨人の講義を」
「悪いが、後は任せる」
「えっ、兵長……?」
空いた手に箒を押しつけ、踵を返す。完遂も見届けずに掃除現場を後にするなど、人生で初めてのことだった。
西棟入口を越えてすぐ、左手に届く部屋の扉を開け放ち、過たずハンジの姿を見つけた。
講義室の黒板の前に立つ体は、室内に鳴り響いた音と衝撃よりも突然現れた俺の表情に固く引きつる。
「……緊急?」
しまった。目の端に青くなった新兵たちの並びが映り、俺はすぐに有事を否定した。
「いや、何もない」
「招集かい?」
「違う」
「なら何しに来たの!?」
特に理由のない邪魔がハンジを襲う――。
望んでそんなことをしたわけじゃないが、結果的にそうなってしまった。
長机に背を伸ばして座り、きっと大人しく講義を受けていたんだろう片手数の新兵たちも、講義室の一番後ろに移動する俺を唖然とした目で追ってくる。
兵団の内外、特に若い奴らのあいだで己がどんなふうに宙に描かれているのか。嫌というほどわかっている。と同時に、先ほどまで朗々と流れていたに違いない智識が、『人類最強』なんて呼ばれる兵士の存在よりも遥かにコイツらの命を繋ぐ糧になるだろうことも、よくよくわかっているつもりだった。
壁にもたれて腕を組み、離れて正面に立つハンジに向かって「構うな、続けろ」と顎で促す。
無言の指示をしっかり読み取ったハンジは、顔貌全体に盛大に呆れを浮かべた後、すぐに姿勢を戻して生徒たちに向き直った。
「……んんっ。さて諸君、どうやら巨人の襲来ではなかったようだし、話をもとに戻そうか」
石灰石を持った手が塗板に伸びて、そこに描かれていた大きなヒトガタの、真ん中を指して曰く。
「君たちが訓練兵時代に学んだ巨人の知識は、彼らの歯に食い千切られ、手指に捻られ、両足に潰されて物言わぬ肉塊となってきた人類が、屍を並べて綴ったものだ」
突然鉄臭いことを言い出した講師に、いつまでも揺れていた新兵たちの意識がギョッと張り詰めた。耳目を集める一点となったハンジは、しかしその声と表情を「だけどね」と弾ませる。
「大きな枠に過ぎないものでもある。どれだけ教科書の上に彼らのことを描いても、その仔細や本質は見えてこない」
眼鏡のレンズが、その向こうにそびえる瞳が、曇天の光を貪欲に集めて輝く。
思い返してみれば、夢の中のハンジは、視線の先で動きまわっている人物よりも老成していたような気がする。見た目の話じゃない。口や目元の緩ませ方、歪ませ方。黒目の動かし方、喋る速度。首を傾げ、また顔を背ける仕草。そういったものに見える機微が、どこか、長い時間の蓄積を感じさせたのだ。
「……そうだな。非常に印象的な登場を果たした我らが兵士長に、ひとつ聞いてみようじゃないか。リヴァイ?」
「あ?」
名を呼ばれ、再び注目に晒されたことで我に返る。
「君が初めて巨人と間近に相まみえたとき、一番に何を思った?」
邪魔をした分の責は負え、ということか。答える分にはやぶさかではないが、無理に体を捻ってまでこちらを刺す視線の束は落ち着かない。
適当に答えようと口を開いた俺は、しかし思考を掠めたものに声を占拠されていた。
「クソと風呂はどうしてんのか、だ」
じわ、と。見据えた両眼が丸に近くなる。
「だっははははっ!——実にいい着眼点だ」
「急に落ち着くな」
ほとんど直上に上昇降下を見せてから、ハンジがすっと背中を伸ばす。「諸君は気付いたかな?」と、一本に通った腹から出るのは意外にも沈静な声だ。聞く者の骨に届いて、望まずとも、芯にまで染みこむ響き。
「リヴァイが挙げた『クソ』と『風呂』。これはどちらも、ヒトに備わっている『代謝』――老廃物を体外に排出する——という機能に関連した行為だ。自らの内より生まれた汚れを体外に排し、濯ぎ落として清潔を保ち、病気の予防を行う。ヒトだけじゃない、通常はどんな動物にもこの代謝機能が備わっている。……だけど、巨人は違う。巨人は『クソ』をしない。噛み千切って飲み込んだ人間はそのまま吐き戻す。『風呂』にも入らない。汗をかかず、皮膚から古い角質が浮き上がることもない。彼らはヒトの形をしていながら、けしてヒトではない。少なくとも、ヒトに近しい生き物ではないんだ」
ああ、そういうことか。
今さらになって、ほの明るい夜に紛れたハンジが、あんなにも体を震わせて笑っていた理由を握り込んだ気がする。
手の届く範囲に立って、あまつさえ、あの巨体を足蹴にまでして。ヒトなんだから当然汚れるんだろう、なんて思い込みを俺が簡単に口にしたからだ。
「ここで打つ面を少し変えてみよう」
再び塗板の巨人に近づいた指が、その脚をコンコン、とノックする。ハンジは生徒の一人に目をやった。
「ハイル、君は先ほど『巨人は人間が突然変異した存在ではないか』と私に質問したね。リヴァイと同様、彼らをヒトに近しいものとして捉えた鋭い視点だ」
「は、はい」
「ちなみになんだけど、もしも今の君の身長が……そうだな、3倍になったとして。体重は大体、何倍になると思う?」
ハイルと呼ばれた兵士の後頭部が動く。調査兵団入籍の直前に短く刈り込んだのだろう、明るく茶けた短髪のまわりでうなじが赤くなっている。
「あ……えっと。体積の増加で考えるから……3の3乗……」
「正解。つまり27倍だ」
ぞ、と背筋に氷が通った。一人全身を凍らす俺にかまわず、ぽそぽそと独り言のように囁かれた答えを丁寧に褒めたハンジは、「じゃあ次に」と優しく導く。
「3倍の大きさになった君が発揮できる力は、今の何倍になっていると思う? これは筋肉の断面積で考える。だから、面積に比例するんだ」
「でしたら……9倍です」
「そのとおり。仮に君の体重が50kgだとすると、身長が3倍になった場合の体重は27倍の1,350kg。ヒトは自重を含めて3倍の重さの物を持てれば十分に怪力とされるので、150kg×9……」
硬質がぶつかりあう軽やかな音と共に、白い数式が板を横に伸びていく。
「身長3倍の君が、すごーく頑張って持つことができる最大の重さは、自重を含めて1,350kg。体重と同じだね。この意味がわかるかな?」
「……その場から、まったく動けません」
「正解だ。このように、人間がそのままおっきくなったとしても今と同じようには動けない。この点もやはり巨人は違う。全長が十メートルを越す個体とて、時には馬のような速さで我々調査兵団の頭上に肉薄する。地上に存在する生き物として、およそありえない」
「……」
息を詰める新兵たちの背後で、こちらの呼吸も浅くなる。しかし原因は全く別のことだった。
27倍の重さ。9倍の限界。夢の中のハンジを苦しめていた負荷が両肩に乗しかかってくる。
錯覚だ。頭を振り、慎重に吸って吐いてを繰り返し、「そもそも」と考える。
今しがたハンジが解説した式を、俺はとっくの昔に、他でもないハンジから教えられていた。すべてすっかり知っていることだった。知識としてまとい、壁外に飛び出し、事実、その異常を斬り伏せてきた。
あの夢は、己の貧しい脳が過去をかき集めて作り出した幻覚に違いない。それ以外ありえない。そうでなければいけない。望みが叶ったと笑いながら、けれどその場からどこにも行けず、俺の、俺だけの一挙手一投足を喜んで受け取っていた——浅ましい夢。
「不思議だと思わない?」
しんと静まり返った室内を揺らしたのは、やはり、ハンジの明るく伸びる声だった。
「だったら巨人は、なぜヒトと似ているんだろう? ヒトを、ヒトだけを捕捉する形態として、あの体は必ずしも最適解ではない。だったらなぜ? どこであの形を学んだ? 何がベースになっている? その起源に人間が関わっているとしたら、いつどこでどうやって? 質量はどこに消えた?」
パチパチと、顔の周りで不思議な火薬を爆発させているかのように、ハンジの笑みが閃光として瞬く。
「君たちは、今の話を聞いて巨人の謎を知りたいと思わなかったかい? 思っただろう!?」
「ひいっ!」
常ならば「始まった」と身構える爆発に、けれどその時の俺は、全身が緩むほどの安堵を覚えた。そこにいるのはまったきいつもどおりの、いっそ暴力的なまでの強さを持った——まごうことなきハンジ・ゾエだ。
ふ、と短く息をつき、講義室の前に向かってゆったりと歩きだす。
「ああ、私も巨人くらい大きくなれたらいいのになぁ。彼らから世界がどう見えているのか知りたいよ。といっても活動できるギリギリの大きさにだよ? せいぜい三メートル、いや四メートルかな。しかも数分間で元に戻る。これなら彼らと肩を組んだり握手したりできるかもしれないな。おまけにマリアの壁に向かって、農耕馬が引くような耕作機をつけて行けるところまで走れば、手っ取り早く凱旋道を作れるだろう?」
教室の真ん中で踊るように語るハンジの肩を掴み、ズルズルと隅まで引きずっていく。周囲は唖然を超えてもはや呆然自失の様相を呈していた。教え導くはずの存在がいきなり皮を破って狂顔を見せだしたのだから当然だろう。
「いい加減にしろクソメガネ。入団早々新兵どもに悪夢でも見せる気か」
一応注意をしてみるが無駄だろう。と、予想したコンマ二秒後にはもう思ったとおりに返される。
「君はどう思う、リヴァイ?」
「どうって」
「だから、私が巨大化したらだよ」
〝私が巨大化したら〟——たった一言が、ぺらぺらと動き続ける口や表情から音だけを奪い去って、夢のハンジを、その小さな願いを透かしてみせる。
——『そしてまた、……私を見つけて』
なら、お前だって。
ハンジ・ゾエとしてそこにあれよ。
そうすれば、俺はお前を見つけられる。
だってそうだろう。
感触、振動、熱、匂い。
色を孕んだ目元に、ゆるやかに開閉するベールのような睫毛。琥珀を煮詰めた色の瞳。
「……関係ねぇよ、デカくなろうが」
「えっ?」
「どうあっても可愛い」
ひゅっ、と空気が切れる音のあと、不自然な沈黙が降りる。
「……え、っと?」
「あ?」
遅れて、俺は自分の失言に気づいた。そうするまにも、鼻先に迫っていた顔が見える範囲の肌すべてにじわじわと血を上らせる。
見つめ合う目に、困惑と、何か別のものが漂う。小虫のような大きさのそれは、俺たちの視線の中間にとどまって、モジモジとくすぐったく蠢いていたものの、この手で掴んで引き寄せる、なんてことはしなかった。俺はただハンジを見つめたまま、黙ってそこに立っていた。
今じゃなかったからだ。
「あ、……あ!ぁあわかった! どこかで可愛い巨人を見かけたってことだね!? やだなぁもう……!」
忘我から覚めたハンジが、ドンと肩をどついてくる。焦りを反映してかなかなかに強いが、染まりきった耳や頬を見れば文句はひとつも出てこない。
「ねぇねぇ、そんなに可愛い巨人にどこで会ったの!? 教えてよリヴァイ!」
「ああ……あとでな」
「っ……わあ、楽しみだなぁ。さてと、脱線はおしまいにして講義の詰めに入ろうか。ここからはおふざけ禁止ね。……こら君たち、ソワソワしない!」
くるりと向きを変えて、ハンジが新兵たちの前に逃げていく。先ほどのまっすぐな勢いはどこへやらその意識はすっかりあちこちに散っていたが、それでもひとたび話し始めれば背筋はピンと伸びて、両眼は一点を見据えるのだった。
自分の足で立って、前に進んでいくために。
たとえ真実に願われなくとも、俺はその強さを、そばで見ていたい。
いくつもの欠乏を抱えて、この心臓が、最後の一拍を打ち鳴らす時が来たとして。
ついにすべてが終わったとしても。
ハンジ。お前がお前であれば、俺はお前を見つけられる。
どんな大路の途中にあろうとすぐに見つけだして、近づいて、触れて。数センチ差の肩を並べて、果てぬ道を共に歩いていくだろう。
だから、待っていてくれ。
傾き色を増す日差しの中に、夢の余韻が溶け消えていく。胸に残った痛みの輪郭が、はっきりとはわからなくなるまで。
守るべき命の前で眩しく精彩を放つハンジを見つめながら、寂しくはない、と俺は思っていた。
〈了〉
(初出 24/06/10)
(更新 24/11/10)