隻手慕情
傷をつけ、汚したい二人の話
隻手慕情
傷をつけ、汚したい二人の話
目の前の手はひとつだった。
インク壺に飛び込ませようとしていたペン先をすんでのところで止め、右手を見遣ったハンジは、数秒して「ああ」とそれを引き戻した。
小さな壺の底に溜まる液体は掬い出そうとすれば深くペンを差し込まなければならず、軸を握る指まわりは瓶のふちに触れることを繰り返す。
書類仕事を終えたころのハンジの手は、そのせいでいつも黒く汚れてしまうのだ。
ペンを持ちかえ、空いた手を開く。そうして、ハンジは背後の窓から差し込む陽気のなかでゆっくりと五指を翻した。
やわ、と光る爪先は、今朝、目が覚めてから短くない時間をかけて磨いたものだ。
まだいっぺんも汚れていないそれを、午前の業務も終わらないうちに無駄にしてしまってはもったいない。
そう考え、ペン軸を上のほうに持ち直し、再び目下の文章に意識を落とした。
三十余年前の九月五日、一晩続いた嵐のなか、遠い故郷の地でハンジは生まれた。
産声は激しく鳴り響く雷鳴を軽やかに避けて、天まで届くようだったという。
母さんの腹を出た瞬間から好奇心旺盛だった、瞳のかわりのように鼻をひくひくと動かしていた、と熱く語っていたのは父親で、年々話が付け足されていくわね、と呆れて笑んでいたのは母親だった。
彼らの記憶も、もうずいぶん淡い。
調査兵団に入団して以降、細々と続いていた誕生祝いの手紙は、八四五年を境に届かなくなった。壁の内側にも外と同じような別れがあるのだと、墓前に深く首を垂れていっときの寂しさに泣いたことを覚えている。
それからハンジは、九月五日が来るたびに人知れず指先を磨くようになった。
調査兵の日常において、己の肉体の末端に至るまでを管理、整備することは重要なことである。
立体機動装置、刃、馬具などとひとつづきのところに手足があり、それを操る強靭な精神力と怜悧な判断力を備えて、初めて壁外で生き残れる人材ができあがる。それは壁外が壁外でなくなった今においても変わらない理だ。
そういうわけで、『誕生日に爪を磨く』という密かな習慣も、本当は密かにするような仰々しさもなく、普段から行っている整備にほんの少し贅を足す程度だったりする。
よく洗って汚れを落とし、甘皮を処理し、ヤスリで爪の縁と表面を磨き、最後に街で買った花油を揉み込む。
一年のうちのたった一日、そんなわずかな丁寧で長年の蓄積による肉刺やシミが消えることはなかったが、それでも、普段よりほのかに光る十の先はハンジの心を温かいもので満たした。
この肉体は二人の人間から授かり、多くの仲間の願いによって成り立っているものだ。
酷使すれば簡単に壊れることもよく知っていて、けれど、周りの誰かより優しく接することも難しくて。だからハンジは、自分がこの世に生まれた日にだけこうして整える以上の慈しみを傾ける。
調査兵として、分隊長として。そして団長としてのハンジ・ゾエのなかに、身一つのハンジを望んでくれる人たちがいる。
その人たちに向けての、ささやかな感謝のつもりだった。
コンと物音がして、視線を上げる。執務室の扉が少しだけ開いて見慣れた顔が覗いていた。固まっていた背中にじわりと熱が通る。
「あれ、リヴァイ? まだ出かけていなかったのかい?」
午前中は区内支部に出かける用事があるはずの男が、珍しくのんびりと室内に入ってくる。
「……時計。見える場所に置いておけよ」
「ん?」
言われるがままに懐中時計を取り出せば、彼の帰着予定時刻である正午などとっくに過ぎている。集中が過ぎて数時間経っていたことに気づかなかったらしい。
「うわっもうこんな時間か。最近一日が早いな、仕事が溜まる一方だよ」
「そりゃ年寄りになった証拠だ」
独り言のようなぼやきに、ため息まじりの声が返ってくる。一つ歳をとった日にピタリと嵌るような台詞だったのでハンジはからりと笑ってしまった。
「ならきちんと労わらなくちゃね。というわけでリヴァイ、報告は後でいいからお昼ご飯食べてきなよ」
「ジジイ扱いするんじゃねぇ」
「少なくとも私よりは歳食ってるだろ」
意味もない応酬の合間に、おのれの指先が目に入る。そういえば、没頭していたうちに今度こそ汚してしまわなかっただろうか。
慌てて手を開き、先刻と同じように検めていると、机を挟んだ向かいから声がかかる。
「手がどうかしたか」
「あーうん、ちょっとね」
誕生日のこの習慣のことも、そもそも誕生日のことも自分から誰かに話したことはない。
調査兵団において死ぬ機会はどこにでも、誰に対しても転がっているものだ。生きている喜びは毎日のものであったし、誰かの生まれた日が誰かの死んだ日に重なることもある。
自分以外の他人に波及させて、複雑に思うことを隠させながら祝福を受けるよりも、この身をひとりで穏やかに愛しもう、と。ハンジが選んだのはそういうやり方だったのだ。
幸いにも、爪先は早朝のままの姿で、白い部分と肉とのあいだに黒を染み込ませることもなくそこにあった。
と、安堵するハンジのそばに、いつのまに机をまわりこんだのかリヴァイが立ち、音もなく手元を覗き込んできた。
「〝ちょっと〟とはなんだ」
「……何も問題はないよ」
機械の調子を訊ねる口調だ。そう言い聞かせ、努めて平静に答える。
リヴァイという男は、ハンジが見ていないときだけ、こういう線引きを忘れたような近づき方をする。ハンジもハンジでそんな接近をしてくる彼に、敢えて意識を向けない時間を増やしたりする。指摘したところで何が変わるというのか。何が変わらないというのか。
「爪が違うな、いつもと」
ハンジは頷いた。努めてなんでもないように。
「うん。朝一番に磨いたんだ。綺麗だろう?」
また、ぐ、と体が近づく。
「そう思われる必要があるのか」
「誰かに見せるためかって? 違うよ」
安心して、と言いそうになる。言わないけれど。
「自分のためさ。自らを慈しんで、丁寧に扱った。それだけのこと」
「殊勝な心がけだが、明日以降もその意識は保つのか?」
「無理だね!」
「即答すんな」と、ため息が額を掠めた。ついでにハンジの前髪も揺らされた。密な距離の証明が映像としてもありありとリヴァイの前に突きつけられたはずなのに、彼はまだ、離れる選択をしない。
けれど心配はなかった。どれだけ空を埋めたとしても、彼は接触してくることだけはしなかったからだ。互いの肌の記憶に残るようなことはしない、そんな肉薄だけが積み重なって、二人の鼻先に堆い透明の壁を築いている。
「今日の日付と関係があるのか」
「……気づいてたんだ」
まっすぐな指摘は、だから、ハンジの反応を素直に遅らせた。
リヴァイはこの習慣ともいえぬ習慣のことなど、とっくに気づいていたらしい。
他人の機微に言及しない彼にしては意外な言葉だったが、他人の些細な変化には敏感な部分を思えば不思議でもない。
ある日ハンジの爪先に違和を覚え、一年ごとにその違和を募らせ、今日という日付に関連を見出したのだろう。改めて説明を求められると面映い話ではある。
「今日さ、私の誕生日なんだけど、」
「知ってる」
「えっ? あぁうん、そうだね、知ってることもあるか……」
これにも驚いたが、過去のどこかで、仲間たちが生まれた日について話を湧かせたこともあっただろう。それを耳にしたのか。
「だから、感謝の印としてね。こんなのでも親から貰って、大勢からいっぱしに育ててもらった身だから。今日くらいは必要以上に愛でてもいいかと思ったんだよ」
「……ふん」
リヴァイが、かろうじて納得、と受け取れる相槌を打つ。ハンジがもう一度「うん」とうなずく。そして、会話が途切れた。
彼はなぜか元の位置に戻ろうとせず、何か別のことに気を取られている様子で同じ場所に立ち尽くしていた。立ち尽くして、強靭な肉体からの放熱でハンジを叩いた。
これが故意の威圧なら、空気が読めないフリをしていくらでも振り解けたものだが、不意に隙を預けるようなことをされると途端に拘束されてしまうのだから、ハンジは大概リヴァイに弱い。彼の無意識に弱いのだ。
じわりと浮きだした余白を埋めるために、意識と視線とを彷徨わせた時。
あるものが、ハンジの目に留まった。
手だ。リヴァイが、体を支えるために机の天板についた片手だった。
ぶあつい甲を持ち、浮き上がった中手骨を備え、節だった指は対象を確実に押さえるだろうことが見て取れる。短く清潔に切りそろえられた爪は彼の性格の表出に違いない。
美しいな。ハンジはそう思った。
機能性と重要性をしっかりと認識した上で、鍛錬と整備が抜かりなく施された、美しい兵士の手。美しいと思えることで、この身がたどってきた過酷さえも誇りにできる手。
いくらでも価値を述べることができる、そんな代物が、ハンジの行為が届く範囲に無防備に置かれている。
ある種の信頼を表した姿に、細い釘めいた熱が、脳にずぶりと刺しこまれたような気がする。
「なあ」
子どもじみた呼びかけは、ほとんど熱の追い討ちだった。
ハンジはゆっくりと顔を上げた。そうして、こちらを覗き込むリヴァイの静寂のなかに、連綿と続いてきた歴史をもってしか読み取れない複雑な色を感じとった。
憂い。悲哀。昵懇。——熱情。そんな諸々。
愉悦に顔が歪みそうになる。
勘違い、だったらよかったのに。けれど、それらはそっくりそのままハンジの内側から滲みでるものでもあって、都合のいい幻想にしては互いの言動に影響を与え過ぎていた。
たとえば特定の周波数で会話する動物たちのように、通じ合っていることを前提とした言動が、リヴァイとハンジの過去には山ほど残されてきたのだ。
「……なんだい?」
触れるほど近づいた肉体のあわいに漂うものは、それなりに充満なれど、一度として相手に到達したことはない。
同じ情を向け合っている。そのことを知っている。それでいい。切り捨てられないことだけを確かめて、安堵して、そこで終わり。どちらかが死ぬまで、その終わりが続けばいい。
そう思っていたから。たぶん、お互いに。
なのに。
「その『感謝』とやら、俺には違う形で示せねぇか」
喉が詰まった。
リヴァイの眼光に、冗談を交わすときのような微かな柔さは見当たらない。
何かを求められている。
具体的なものを。あるいは行為を?
「……私の誕生日なのに、私が君に感謝するの?」
「テメェで言ったんだろう。コレは他人への礼のつもりだと。俺の分だけ形を変えるって話だ」
リヴァイの人差し指が小さく浮いて、コツ、とハンジの爪先で跳ねる。
至極簡単に、あっさりと触れられてしまった。十年近く保ってきた均衡の壁は、リヴァイ当人の立体機動よりもずいふん軽やかに越えられて、最初からなかったもののように足下に遠ざかっていく。
強固で、曖昧で、それでも繋がりとしてそこにあると思っていたものは、所詮ハンジの錯覚だったのだろうか。不安と寂しさをかき消すように、ハンジは笑って問いかけた。
「何をすればいいんだい?」
リヴァイが一度、ゆっくりと瞬きをして、机の縁に体を預ける。
美しい手が動いた。
ぶあつい掌が、机の上に投げ出されていたハンジの手を覆い、浮き上がった中手骨を波打たせる。そうして、反射で手のひらに閉じこもってしまった指たちを、偶然にもハンジが今朝整えた順番で、おもむろに解いていく。
今まで、肌の密接がない関係の一体どこに、確かなものを感じていたのだろう。
リヴァイの皮膚は火にかけた鉄によく似た熱を孕んでいて、焼けてしまう、とハンジを怯えさせた。どころか、堆積した信頼を削るように骨まで届いて、何もわからなくさせる。
右手で時間をかけてハンジの手を掴んだリヴァイは、それを自身の左手へと導いた。有無を言わさぬ優しさで、拳を握ってピンと張った肌の上にハンジの指を置いたと思うと、整えられた爪が骨のない部分に当たるよう、微妙な調節を繰り返した。
ここが到達ではない。ハンジはすぐさま察した。と同時に、ハンジの指の上に添えるようにして、リヴァイの指がぴたりと重なった。
「あ」
ぐっ、と力が込められる。上下に重なったそれぞれの指たちがたちまち鈎状になり、下敷きになったハンジの爪が、リヴァイの手の甲にぐ、と硬さを食い込ませる。
傷つけてしまう。思わず手を抜こうとした。が、他ならぬリヴァイに遮られる。硬い爪先が、ぐち、と肌を食い破った。彼は力を込めたままハンジの手を後退させ、自らの手の甲に傷の道を作り始めた。
目の前の手はひとつだった。
尖った節骨。が、作り出す長くしなやかな指。峻険な山を連想させる手の背中。そこに、赤い、真新しい傷が五本。ぴんくに盛り上がった傷の淵。隙間に、じわ、じわと控えめに盛り上がっていく血は艶そのもの。
リヴァイが興味をなくしたように体の脇に垂らしたそれから、ハンジは目が離せなかった。
「……汚ねぇなあ」
そんなことないよ。
頭の中で、否定の言葉が木霊する。
他ならぬハンジによって傷つけられた、リヴァイの美しい手を見ていると、ぼう、と肌のすぐ裏に熱が灯っていく。
とっても綺麗だ。私は、好きだよ。
すぐ近くから、噛み締めた歯の隙間から抜けたような吐息が聞こえて、また、ハンジの前髪が揺れた。
は、と顔を上げる。
リヴァイは、自身で痛めつけた左手のことなどもう忘れているようだった。そのかわり、俯いて影になった目元から、黒々と光る眼差しを何かに注いでいた。ハンジも彼の視線を追う。
あったのは、やはり、ひとつの手だ。
親から貰い、大勢から育てられ、一年ぶりの慈しみがかけられたはずの、よく見慣れたハンジの手。その五本の指先に、てらりと赤が色づいていた。リヴァイの血だ。今しがた削り取った血と皮膚が、ハンジの爪のあいだをまんべんなく汚していた。
理解を後押しするように、またも「汚ねぇ」と声が落ちてきて、肩が震える。短くて、それ以降は何も続くことのないその科白が、なのに余韻だけでねっとりと鼓膜を舐めまわす。聞いたことのない粘度だった。
「……こんなの、で、……いいんだ?」
喉の掠れを誤魔化せない。
「寡欲だろう」
リヴァイは、膿んだ調子を隠さない。
目線は合わなかった。たぶん、互いに望んでもいなかった。揃って酷い顔をしているだろう今、もしも向かい合わせることなんかしたら、堆く積んだ壁よりも遥か遠い場所で、互いの足に杭を打ち込んでしまう気がした。
それは「戻れない」という意味だった。
「食堂に行くぞ」と促されて、ハンジは慌てて席を立った。先行する背を追いかけながら、彼が扉を開ける手を見つめる。ハンジの作った線が、腫れを帯び始めていた。
この身をひとりで穏やかに愛おしむ、そんな幸せは、ひとりではない、という幸せから得られるものなのだと。唐突に理解する。
執務室に鍵をかけ、歩き出す。止まらず、振り向かず、ハンジの後ろを歩くこともないリヴァイは実はかなり希少で、それだけでもう、常の精神状態じゃないのだと知れた。
己の手元を見る。彼が嬉しそうに「汚ねぇ」と象った指先を。たった一人の血肉を含んで赤くなった爪たちを。ひとつきりの手だ。でも、独りきりではない。
涙が出そうになった。
自身ですら知れなかった欲望が、薄皮を剥がれたように姿を晒していく。
(死ぬときはひとりがいいな)
彼に汚れた手を持って、彼を残して。ひとりで死にたい。今日よりもずっと大きくて深くて、消えない傷になりたい。リヴァイの上に、中に、残っていたい。
訊ねることは一生ないけれど、彼の中にも、同じ希求が見える気がした。
どれだけ強く願ったところで、保証なんて微塵も得られない。
そんな世界のすみっこで、ただ、今日だけの爪痕がハンジの生を祝う。
〈了〉
(初出 20/12/05)