ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア
鍵をかけていなかった話
ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア
鍵をかけていなかった話
「あ、」
ほとんど吐息のような嬌声を拾おうとしたのか、リヴァイの手が唇に近づいた。節の目立つ人差し指と中指が薄く開いた口の上下に触れ、あっというまに歯列を越えたかと思うと、意外にも優しく舌に絡まりはじめる。
甘い塩気をまとった皮膚に何のためらいもなく吸いついたハンジは、けれどその指先が先程までしつこく別の粘膜を探っていたことを思い出しぐっと顔を歪めた。
普段は極端に不潔を嫌うリヴァイだが、ごくたまに、他人の体液で汚れておきながら平気な顔でそれを看過するときがある。
出会ったばかりの彼に『病的な綺麗好き』という性質を貼り付けたハンジも、付き合いが長くなるにつれてその認識を改めた。
リヴァイは『潔癖』だ。己が不潔と認識したものを嫌うだけで、仲間の血や涙は彼にとってはその限りではない。
どころか、今ハンジが掻きまわされている口内や”他の部分”とて、初めての時に彼の手で痛いほど擦られ清められて、舌で愛撫されただけであっさりと許容の範囲内に置かれたのだから、必要な手順を踏みさえすれば案外簡単にリヴァイのそばにいられるということだった。
「何を考えてる」
「んっ……!」
隘路に埋まる熱が、突然大きく動いた。思わぬ刺激に体は前に倒れ、その拍子に口を犯していた指が横に退く。ずいぶん猥雑な注意の引き方だ。意識を散らしていた罰なのだろう。
「リヴァイのこと、なんだけど」
「ほう」
苦笑混じりにそう返すと、耳殻の裏に触れた唇が、低く掠れた声でさらに追求してくる。
「俺の、何を?」
死角に他人がいることを許し、なおかつ首から背中を無防備に晒しているというのに、よく慣らされた体は命の危機とは別の意味の鳥肌をたてるだけだ。リヴァイを受け入れている場所までがうねるのを感じ、ハンジは裾を乱したシャツの下で背筋をくねらせそれを誤魔化した。
「顔、見ながらしたいなって。……だめ?」
寒気がするほど駄々甘い声だ。喉だけがすっかり変身してしまったようなそれは街の裏通りで男の袖を引く女たちに似てはいたが、煽るには弱く、溺れているというには硬かった。そしてそんなものでも、ハンジの精一杯だった。
「……抜くぞ」
「ん……」
壁ごと持っていってしまいそうな質量が抜けて、すぐにひっくり返される。机に残った汗の跡は拭われることなく、裏表を入れ替えただけのハンジの身体の下にまた隠れてしまう。
そうしてようやく向き合えたリヴァイを、ハンジは上から下まで、そうとわからないようにじっくりと眺めた。
半端な脱衣。汗だくの額。荒ぐ息。
内側に熱と半裸の女を留める、薄い色の両眼。
最中にリヴァイを見失い、また見つけるたびに、「ここが楽園だろうか」と思う。
誰よりも近づいて、二人っきりで、ただ欲を貯めることに勤しみながら。淵から溢れる直前まで我慢して、楽しんで、ついには誰も傷つかない決壊を味わうことができるのだから。
つらつらと幸福を並べながら、ハンジはそんな自分を冷たく笑った。
楽園。天国。理想郷。どこまでも独り善がりなもの。万人が等しく幸福な社会が理論上ですら成立しえないのに、どうして世界のどこかにそんなものがあると信じられる。
ハンジにそう教えたのはリヴァイだった。
「楽園なんて、人間の頭の中にしかねぇよ」
熱のない瞳でそう語った彼に、ハンジは好奇心を装って乞うた。ねえ、どうすればそこに辿り着ける? 連れて行ってくれよ、リヴァイ。
願いは簡単に叶えられた。
音、味、温かさ、匂い、目の前の全て。五感がリヴァイに占領される瞬間、途方も無い幸福がハンジの中に生まれる。
そして、すぐに消えていく。
──ハンジの楽園に、リヴァイは共にはいないのだ。
額に張り付いた前髪を避け、ジャケットを剥ぎ落とす。無言でかじりついた肩は汗で湿っていた。隙間なく掌を沿わせると密につまった筋が細かく動き、思わぬ可愛らしさに息が漏れる。
「なんだ」と訝しむリヴァイのこめかみに口付けながら、ハンジは首を振った。
膝下に留まっていた兵服がブーツごと取り払われ、脇へ放り投げられる。床と接触した衣服の始末は、果たして丁寧にハンジの両足を開くリヴァイの意識に残っているのだろうか。
「……挿れるぞ」
「ん」
どんなに忙しく服を奪い合い、はしたなく欲を垂らし合っても、挿入の瞬間は決まって静かだった。
リヴァイの切っ先が、眠る子供のそばで足音を忍ばせるようにハンジに近づき、一度だけ触れる。ハンジはそれに吐息だけで許しを示す。そうやって再び触れ合ったあと、短くない時間を一つになって過ごすのだ。
「う、」
「辛いか」
「心配するなら、ちっさくしてよ……」
「出したら縮む」
馬鹿。エロオヤジ。なにが兵士長だ、人類最強だ。ふやけた舌でそう罵るも、受けた当人は声だけで笑うから腹立たしい。
「てめぇこそ、頭脳仕事じゃ右に出るもんはいない分隊長が。なあ、"ここ"はこんなふうに股開くための場所じゃねぇだろう」
「何言ってんだよ、そっちがここで始め、あ」
断りもなく動き出したリヴァイのせいで、ハンジは背中をべたりと机の天板に寝かせる羽目になった。
都合が悪くなると他人の言葉尻を潰すのは彼の悪い癖だ。やられっぱなしを癪に思い、腕を突っ張ってリヴァイの腰に脚を絡め、繋がった部分を淫らに動かしてみる。
「っ……オイ」
いかにも、な音がたつ。
夢中になっていくにつれて意趣返しの気持ちは消えていき、むしろリヴァイから後先も考えずに求められたことへの喜びがハンジを動かすだけになる。
一言諌めたきり、あとは他愛もない遊びを黙って見つめていたリヴァイが、不意にハンジの臍下あたりに手を這わせた。いくら鍛えても柔さの削げない下腹を、彼はいつも神妙な面持ちで撫でさする。それからゆっくりと奥にぶつかってくるのだ。
今日もそうやって、ハンジの行き止まりをリヴァイが押した。
「ぁ……そこ、声、出ちゃ……から」
「ああ」
頷いておきながら、トン、トン、とぶつかる間隔は短くなり、下半身から全身へと悩ましい痺れが広がっていく。
穏やかなノックのように奥を叩かれると、恐怖を快感で分厚く包んだものに押しつぶされるような、妙な感覚に吹き上げられてしまう。
「だめっ……おわ、っちゃう」
切なさが腹に轟き始め、ハンジは思わず手を伸ばした。他でもない、この身を苦しめているリヴァイに向かって。リヴァイも当然のようにそれを受け入れる。
身を起こしたところで、ぎゅう、と抱きしめられ、絶対に口に出せない願いでハンジの胸がいっぱいになった。
(ここで死ねたらいいのに)
首筋に埋まるリヴァイの口が、喉を噛み切ってくれないだろうか。あるいは、夢中になっているハンジのうなじを、ナイフで切り取ってくれないだろうか。
誰に言っても軽蔑されてしまうだろうことを、それでも、詮無く考えてしまう。
動きが激しさを増していく。全身で律動を受けとめながら、ハンジは同時にリヴァイの決壊までの道のりも測った。頭が馬鹿になる瞬間までは、独りよがりにならないと決めていた。
そうして必死で欲望を並走させながら、見た目よりもずっと広い背中に回していた腕を組み直した時だった。
「あ」
聴覚がリヴァイに占められていたからこそ、ハンジはその"異物"に気付いてしまったのだろう。すなわち、扉を叩く音に。そして辺りに蔓延するものよりも乾いていて、少しだけ温度の低い声に。
リヴァイとハンジが抱き合う机は、あいだに背の低いソファを挟みつつ部屋の入口の真正面に配置されていた。そしてハンジは、気付いた時にはもう、しがみついたリヴァイの背中越しに扉から顔を出す『誰か』と目を合わせてしまっていた。
「……っ、え?」
ハンジの困惑の声と同時に、『誰か』が扉の向こうに消える。邂逅は数秒もなかった。けれど眼鏡をかけたままだったハンジの脳内には、相手の像がくっきりと結ばれていた。
「え、あ。……っ!」
『誰か』を追って戸外に飛びかけた意識が、リヴァイが肩に噛みついたことでいきなり地に落とされる。
身体のどこかに歯を立てるのは彼が達するときの合図だ。噛まれた場所が訴えてくる圧倒的な甘さに押し上げられ、ハンジもまた不本意にのぼりつめていく。
「まって、や、だめ」
「待てるかクソ……ハンジ、」
名前を呼ばれてしまえば、もう逆らえない。
直前で中から退いたリヴァイをがむしゃらに引き寄せ、震える体を必死で抱きしめたハンジは、その時だけは『誰か』のことを忘れていた。
**
「リヴァイは?」
言葉も表情も、凍ったように冷たかった。怯んで口を噤んだハンジに何を思ったのか、彼女の眉根がわずかに歪む。そのまま部屋に入ろうとしたので、ハンジは慌てて扉の隙間から廊下に滑り出た。
「あの、彼! 今! お風呂掃除してるんだ」
「は? 風呂掃除?……馬鹿にしてるの?」
一旦は動きを止めたものの、彼女──ナナバの纏う空気は依然不穏なままだ。大して親しくもない同僚の濡れ場を見せられたのだから、当然といえば当然だった。
ナナバは口ごもるハンジをしばらく睨んでいたが、ふと首を傾げると言った。
「まさかリヴァイの奴、私が来たことに気付いてないの?」
乱雑に着込んだ衣服の下で、ハンジの背中に冷や汗が流れる。
そう、リヴァイは『誰か』が最中の部屋に訪れたことに全く気付いていなかった。行為後の脱力と目撃された事実で呆然としていたハンジに、余韻を求めてすり寄ってきたのがその証拠だ。愕然としつつも「風呂に入りたい」と主張して彼を浴室に追いやり、血相を変えて室外を覗き見たハンジは、『誰か』ことナナバが立ち去らずその場にいたことで逆に出鼻を挫かれた。
「じ、実はそうなんだ。申し訳ないんだけど」
「へえぇ。驚いた」
色素の薄い髪をかきあげるその仕草は、彼女とあまり交流のないハンジもよく見知ったものだ。
ハンジとナナバとリヴァイには、キース元団長麾下で同分隊に所属していた過去がある。とは言っても、分隊長だったエルヴィン直属班のハンジやリヴァイと、ミケに率いられていたナナバにそれほどの親交はなかった。
役職の変動後はナナバがミケの分隊に配属になったため、現状顔を合わせる機会はますます減っている。
ハンジはナナバが苦手だった。
ナナバがハンジに対して、同じ気持ちを抱いているからだ。理由はわからない。ナナバとハンジの兵士としての実力は拮抗しており、片や巨人研究班設立を提唱したために役職を与えられたハンジは兵団内外を問わず「いたずらに人員を割くだけのくせに」と一部から能力を疑問視されていたので、そういったことが要因なのだろうとハンジは考えていた。
──だというのに。
結果で働きぶりを見せなければいけない相手に、よりによって醜態を晒してしまった。
ハンジだけならまだいい。リヴァイも関わっていることが非常にまずかった。
「ま、とにかくリヴァイ呼んで。仕事のことだから。急ぎじゃないけど、伝言でもダメなんだ」
「……わかった。その前にナナバ、お願いがあるんだけど」
『急ぎではない』という言質を得たハンジは、ナナバが逃げられないよう腕を掴んで肉薄する。あからさまに顔を顰められるが日常茶飯事だ。
「な、なに」
「今日のこと。誰にも言わないでくれるかな」
ナナバとハンジには何人か共通の知人がいるが、総じて"少々"口が軽く、彼らの舌に乗った瞬間からどんな話題も兵団に知れ渡ってしまう。ナナバもそのことに思い至ったらしい。
「ぺらぺら喋りはしないけど……約束はできないな。酒の肴くらいにはしちゃうかもしれない」
ここで嘘でも「わかった」と言わないところがナナバだ。ハンジはさらに詰め寄った。
「頼む、言わないでくれ。すごく困るんだ」
「何に困るの?『業務時間外の性行為を禁ず』なんて規律はないし、見てくれは怖……まあ好みは人それぞれだけど、リヴァイだよ? 自分の男だって知らせないほうが困るんじゃないかな」
「リヴァイが私の男じゃないから困るんだ」
ナナバの顔から皺という皺が消え去り、ぽかん、と呆けたものになる。温かい木を鋭く削ったような容姿がそんなふうになるのが珍しく、ハンジも釣られて目を見張った。
「本当に?」
「何が?」
「リヴァイがアンタの男じゃないって」
「そうだよ。さっきのアレも、その……私が頼んで始まったことだから」
二人の関係についてこうして誰かに話すのは初めてだったが、面映さを感じる余裕はなかった。
ハンジと情の繋がりがあるなどと思われればリヴァイの地位にも悪影響があるかもしれない。それだけは避けなければならない。
ハンジの言葉を受け、ナナバが静かに口を開く。
「そう。じゃ、アンタもリヴァイの女じゃないんだ」
「ーー!」
問われた瞬間、それまで激しく渦巻いてた思考の一切が抜け落ち、代わりに喉が硬く塞がった。
壁外や中央のお歴々の前なら繕えただろう建前が、情事の熱と潤みを残したままの体内であっけなく崩れていく。
心臓に直接冷たい釘を打ち込まれたような焦燥を抱え、ハンジはナナバを見つめた。ナナバも、じっとハンジを見据えている。
「……お願いだ。私にできることなら何でもする。だから……」
縋り付きながら懇願すると、少し考える素振りを見せた後、ハンジの戒めを解きながらナナバは頷いた。
「わかった、誰にも言わない。墓まで持って行く。そこまでする話だとも思えないけど」
「ごめん。ありがとう」
彼女の過去の言動を鑑みれば、嘘の見当たらないその表情も信じられる。約束を得られたハンジはほっと肩の力を抜き、ナナバの目的のために部屋に引き返そうとした。
「ねえ、リヴァイがここに来たばかりのころのこと、覚えてる?」
「え?」
脈絡のない問いに振り返ると、ナナバが腰に手を当て、記憶を探るように斜め上に視線を投げていた。困惑するハンジを残し、彼女は構わず話し続ける。
「異質だったよね。はみだし者ばかり集まってるここにやってきて、さらに異常だとわかる奴だった」
ハンジよりも高く、乾いてはいるが滑らかな声に釣られて、ハンジも昔日のリヴァイに想いを馳せる。
当時、ナナバの言う『さらに異常』の中に、ハンジも片足を突っ込んでいた。自分にそのつもりはなくとも、周囲の視線でそれとわかっていた。
だからこそリヴァイに目を奪われたのかもしれない。こちらに向かって一様に胡乱をかたどる顔の並びの中で、彼の眼光だけは、ただその資質を見極めようとして揺らぐことはなかった。
「いつでもどこでも巨人を前にしているような神経の尖らせ方して、迂闊に後ろに立ったら威嚇されてさ。本当に迷惑だったじゃない?」
そうだっただろうか。
リヴァイのそばにいるのが日常になった今、尖った気配が肌に刺さる感覚を思い出すことはもうできない。それよりも、他人が語るリヴァイの印象にどこか違和を覚えてしまう。彼に出会ってから今まで、いかにハンジが閉じた世界で彼だけを見ていたかまざまざと突きつけられるようだ。
と、思いに耽るハンジのそばで、ナナバが短く笑い声をあげた。
「そのリヴァイが、女に夢中で背後をとられる? すごい変化ね」
「ーー変化?」
「私がリヴァイに恨みを持つ人間だったら、アイツ今ごろ大怪我するか死んでたよ。そういうの腹上死って言うんだっけ?」
「いっ、いつもはちゃんと鍵かけてるよ」
弁解するも、「そういう意味じゃないから」とあしらわれる。
「アンタらも人並みに求めたり馬鹿やったりするんだなってこと。二十四時間ずーっと頭の中で知らないものや危険なものについて考えてる、有能だけどヤバい連中だって思ってたんだけど」
彼女の物言いは、その内容に反して侮蔑に沈んだものでも、嘲笑に浮いたものでもなかった。いつもハンジに向けられていた、ひっそりとした拒絶の意味の、その端に触れたような気がした。
細い体が背を向ける。
「ナナバ?」
「気が変わった。二十分後にまた来るから準備しててよ」
「え!?」
「黙っててあげる条件。アイツに『私のこと、どう思ってる?』って聞くこと」
言われたことを反芻する前に、ナナバの姿はもう遠ざかっていた。足早に去っていく背中を呼び止めることもできず、彼女が廊下の先に消えるまで、ハンジはその場にぼうっと立ち竦んだままだった。
**
「オイ」
背後から声がかかり、と同時に強く腕を掴まれる。驚き振り返った先で、扉から半身を出したリヴァイがハンジを険しく睨みつけていた。
「リヴァイ……」
「このクソメガネ。んな格好で外に出るな」
半ば無理やり部屋に戻され、浴室のほうへと引き摺られる。途中見下ろした己の姿は、ぐしゃぐしゃのシャツのボタンは掛け違え、裾の乱れたあいだから下着をつけ忘れた肌が見え隠れしているみっともなさだった。ナナバやリヴァイが渋い顔をするのも当然だ。
湯気と熱気と、小窓から安穏に伸びる陽の光が満ちた浴室に入る。あっというまに曇っていく眼鏡のレンズの向こうで、リヴァイが槽に溜まった湯をかき混ぜた。
「お前が風呂に入りたいと言い出したんだろうが。なんでいきなりいなくなってんだ」
「あ、その……風にあたろうと思って」
ここまで来てもまだ、リヴァイはナナバの存在に気付いていないようだった。ハンジの耳奥で彼の迂闊を「すごい変化ね」と笑った声が蘇り、次いで消化できずにいた言葉までもが再生される。そうだ。言わなければならないことがあった。
「リヴァイ」
「なんだ」
なんの迷いもなく衣服を脱がそうとする手を止め、ハンジはリヴァイを見下ろした。
──『私のこと、どう思ってる?』
秘密を守るためにナナバが出した条件は、あまりにも残酷なものだった。彼女はハンジの一方的な気持ちをすっかり読み取ってしまったのだろう。その上でリヴァイに気持ちを問えと言うのだから、受けた不愉快がそれほど大きかったのだと示したいのかもしれない。
「……どうした?」
黙ったままを不審に思ったのか、リヴァイがうなじを掌で包み抱き寄せてくる。そうされただけで瞬時に指先まで走る幸福を実感し、ハンジの口はますます重くなった。
思わず首を振り、肩に手を回す。
リヴァイの唇が首にあたり、鎖骨まで下ったところで甘く歯を立てた。空いた片手が服の下に滑り込むのを、蕩けた目で追う。
「またするの……?」
「俺じゃない。お前さっきイッてねぇだろ」
「いいのにそんな……気を遣わなくても」
「そんなんじゃねぇよ」
「あなたに触られるだけで、本当に、すごく良いんだ。だから大丈夫」
湿った場所に触れようとしていた指が動きを止め、音もなく後退する。
不思議に思うハンジにゆるく腕を巻き直したリヴァイは、先程噛みついた肩に、はあ、と溜息を落とすと、それから何も言わなくなってしまった。
ナナバが言った二十分後までの時間を測りながら、ハンジは湯気を含んで艶やかな黒髪に指を絡める。間近に迫った今の位置から、リヴァイの表情は窺えない。
「……ねえ、何を考えてるの」
『どう思ってる?』どころか、己に触れるリヴァイが何を考えているのか、そんなことを聞く段階でさえ勇気が必要なほど、ハンジは臆病だった。なのに軽率に関係を始めてしまう浅慮も消せないのだから、まったく救えない痴れ者だ。
「怒るなよ」
息を詰めるハンジに、小さく、低く、浴室の反響の中でも聞き取りづらい声で、リヴァイは言った。
「今なら、死んでもいいと……思ってる」
鉛で潰されたと錯覚するほど、心臓が痛みを訴える。それはリヴァイの与える幸福に溺れたハンジが、夢うつつに願うのと同じことだ。
「……そっか」
リヴァイの顔は相変わらず見えない。くぐもったその声だけがハンジに届く。
「どうせわかってねぇだろ、お前」
「そうかな」
「わかってねぇよ……」
でもね、リヴァイ。
私も同じことを考えるんだ。
もしもそう伝えたなら、彼はどんな顔をするだろう。なんと返すのだろう。
この暗合を明らかにすべきだろうか。立場に相応しくない感情を持ち合わせていると分かった瞬間、……リヴァイとハンジは、どうなるのだろう。
あるいは、これからリヴァイに問わなければならない言葉こそが、ハンジにその答えをくれるのかもしれない。ナナバが戻るまでに果たせるだろうか。
ハンジはゆっくり目を閉じた。
そして眼裏に楽園を夢想した。
ハンジが一人で立つはずの、ハンジだけの楽園を。
その扉を、誰かがそっと叩いた気がした。
〈了〉
(初出 18/11/01)