2.
2.
所詮は比喩であるが。
ハンジはその瞬間、視界が白に染まる感覚を味わった。漂白された画面の真ん中で、リヴァイが、知らない少女の頭を撫でていたからだ。
ハンジの変化のきっかけは、〝自分は特別じゃないんだ〟なんてありふれた気づきだった。自分に戸惑うことなく触れてくる少年が、自分以外の女子にも触れていた。たったそれだけのことが始まりだった。
リヴァイが進撃中に来る前のことを、ハンジはよく知らない。風の噂でとんでもない子どもだったというぼやけた像について耳にしたことはあるし、入学早々不良どもをまとめて昏倒させていた現場も目撃はしたが、その程度だ。
特に知りたいとも思わなかった。知っても知らなくてもリヴァイのことが大好きだったし、大好きなままで今日までやってこれたという事実が、ハンジの瞳に〝今〟のリヴァイの姿を鮮明に映し出していた。
それでも、あの日。
二年生に進級してすぐのころ、ハンジが部活に勤しみ、リヴァイがなぜか三月に卒業したはずの先輩たちと共に校舎を清掃していた放課後。突如として現れたリヴァイの〝過去〟に、ハンジの心は、どうしても拭えない小さな染みを作った。
(ファーランとイザベルって言うんだ、あの子たち)
リヴァイと卒業生、そしてガラスをぶち破って飛び込んできた進撃二中の男女が巻き起こした校内清掃対決を、ハンジは遠巻きに眺めていた。
頭の中が掃除のことでいっぱいになった状態のリヴァイは、〝汚れが許せない〟という性癖がいつも以上に先鋭化しがちである。そんなときに誰よりも汚れを生むハンジがそばにいると、恥も外聞も忘れてその身につきっきりになり、しまいには自らの手で風呂にまで入れようとする。
ハンジもハンジで、そうやってリヴァイから来られると嬉しくなってベッタリと張りついてしまう悪癖を持っていたので、「秘密の関係が露見してしまうかもしれない」という心配から、二人はとある密約を交わしていた。すなわち、『リヴァイが掃除中は互いに離れていること』である。
その日も通りすがりに箒を持つリヴァイを目撃し、慌てて曲がり角に身を隠したハンジは、けれどリヴァイと親しげに話す二人を目にして首を傾げた。飛び飛びに聞こえてくる会話から察するに、どうやらあの三人は地元を同じくする同窓生らしい。
その程度であれば「ふうん」と納得して立ち去るレベルだったのが、とある場面を目の当たりにした瞬間、ハンジの足は釘を打ったように動かなくなってしまった。
何かを一生懸命に訴える女の子——たぶんイザベルという名前だ——の頭に、リヴァイが、ポン、と手を置いたのだ。
撫でたのである。リヴァイが。女の子の頭を。
ハンジは息を止めた。
あまりにも軽いその接触は、リヴァイとイザベルが同じ行為を散々繰り返してきた証拠に他ならなかった。ハンジは、完成された絵画のように収まりの良いその光景をじっと見つめて、それから思った。
(そっか。リヴァイって、普通に女の子のこと触れるんだ)
「……ふうん」
「ハンジさーん、畑に行きましょう〜!」
背後から生物部の後輩の一人・モブリットに呼ばれて、反射的に笑顔を作る。「いま行くよー!」と勢いよく振り返り、自分の中に生まれた小さな違和感を、明るく溌剌な足どりの一歩一歩で深い場所に埋め込んで、それっきり見ないふりをした。なんだかチクチクしていて、冷たいのに熱くて、手に取るだけでも嫌な気持ちになったからだ。
下校時間に部員たちを帰して、自分一人で遅くまで飼育している魚や昆虫を観察して、とっぷりと日が暮れたころに帰宅し、リヴァイに会わずに一日を終えたハンジは、翌日にはもう何事もなかったのように振る舞っていた。
それ以降、リヴァイのそばにいるだけで心穏やかになる時を重ねながら、ハンジはその裏でほんのわずかな切迫を募らせつづけた。
ハンジが何かに夢中になって、散々はしゃぎまわって満足したあと、さて帰ろうと振り返った先にリヴァイがいなかったら。あの部屋の扉を開ければ間髪入れずに「汚ねぇな。風呂に入れ」と迎えてくれるリヴァイが、ある日突然、顔も見せてくれなくなったら。
そんなことあるわけない、万が一離れる時が来たって、リヴァイならちゃんと向き合ってきっちりと説明してくれるはず、と自身に言い聞かせながらも、不安を拭い去ることができない。
なぜなら、リヴァイはいとも簡単に女の子に触れるからだ。ハンジにするように、いや、それよりもっと気安くだってできるから。
よくよく考えてみれば。
リヴァイはクラスで仲良くしている男子と女子に違和感を持つこともなかったし、からかわれた二人が離れてしまった顛末に首を傾げていた。ひいてはハンジとひっついていることが周りから「おかしい」と見られる可能性に、大きな衝撃まで受けていた。
つまり、女子に触り慣れているのだ。臆面もなく触れるし、それをおかしいと思わないほどには、触る機会に面してきたということだ。
ふうん、とハンジは思った。
(でも、今リヴァイのそばにいるのは私だもん)
リヴァイが進撃中に来る前のことを、やはりハンジは知らないままだった。知っても知らなくてもリヴァイのことが大好きだったし、大好きなままでやってこれた。学校では最強の名を欲しいままに自由に行動(主に掃除しまくっているだけだけが)して、ひとたび部屋に籠ればなんの躊躇もなくハンジだけを見て抱きしめてくれる。世話を焼いてくれる。それと同時に、ハンジが金欠に陥って無茶な行動をすれば、なあなあにせずにまっとうにお説教をしてくれる。ハンジのことを信じて、必要としつづけてくれる。
ハンジの瞳に〝今〟のリヴァイの姿が鮮明に映っているのと同じように、リヴァイの瞳にも、きっとハンジの〝今〟が鮮やかに映っている。それで十分だった、はずなのに。
三年の夏休み。進撃中に入学してから初めて、リヴァイの部屋に、ハンジ以外の人間が訪ねてきた。正確には、突撃してきた。しかも複数人が。まわりから変人と言われるハンジさえも時にビックリするような行動をとる、調査団の一年生たちだった。
寮内に仕掛けまくった罠に嵌った彼らの話をかいつまんで聞き、どうやらアルミンのお布団をめぐってリヴァイと攻防があったらしいと知ったハンジは、彼の部屋でくつろぐアルミンを見て衝撃を受けた。リヴァイが目だけで必死に焦りを伝えてこなければ、そのまま呆然と立ち尽くしていただろう。ちらちらと洗面所を見る視線に「そういえば私の歯ブラシ置きっぱなしにしてたんだ!」とようやく気づき、なんとか一年生たちを自分の部屋に招いて事なきを得たのだが。
リヴァイを恐れず立ち向かってきた後輩たちが、彼の部屋と心に踏み入ったのだという事実は、ハンジが募らせていた小さな切迫を確かに大きなものにした。
(よく考えたら、別に、私じゃなくてもよかったんだ)
生物部管理の畑で捕まえたハスモンヨトウの幼虫を観察ケースに入れつつ、ハンジはぼうっと思案を巡らせる。
リヴァイは何でもできた。何でもできる中から、自分のやりたいことをきちんと選択できる人間だった。ハンジは、だから、これまで勘違いしていたのだ。リヴァイが自分のそばにいてくれるのは、彼自身がそれを選択しているからなのだ、と。
自分が特別だからなのだ、と。
だけどそうじゃなかった。リヴァイという人間は、手のかかる存在を目にすれば迷うことなく助けを与える性質を持っていて、これまでは単に、ハンジの〝手のかかる〟度合いがほかに比べて著しかっただけなのだ。入学してすぐに生活レベル最下級のハンジと出会ってしまったたために、優先的にリソースを割かざるを得なかった。だとすれば、もしも、である。
(私がちゃんとするようになっても、そばにいてくれるのかなぁ)
その疑問は、「そばにいてくれなかったらどうしよう」という不安に裏打ちされてはいたが、疑問という形をとってしまったばっかりにハンジの好奇心を刺激した。
試してみたい。試して、確かめて。それ以降はわからないけれど、たとえばある日突然リヴァイから「もう面倒見きれなくなった。今日から距離を置く」なんて突き放されたとしても、少しはマシな受け止め方をできるんじゃないだろうか。などと思う。
では、〝ちゃんとするようになる〟として、具体的には何をすべきだろう?
「とりあえず自立かな?」とハンジは考える。生物部への献金献身を削る……ことは難しそうなので、収入を得なければならない。しかしいつもの単発的な金策では問題が起きる可能性が高く、そうなると、リヴァイのハリセンが飛んでくる確率は九割を超すだろう。彼の介入を避けつつ、安全かつ安定した収入を得られるようにならなければならない。
「ハンジさん、それ夜盗虫ですよね」
「ムクムク太りやがって、こいつ」
「駆除しないと……」
「だめだめ! この子たちだって懸命に生きてるんだよ!」
農作害虫に感情移入して後輩たちに懇々と命の大切さを説いたハンジは、そこからみんなで害虫駆除の必然性についての議論を展開し、お腹が空いたところで部活を切り上げてコンビニに寄った。こういう時は「なんでも好きなの買っていいよ」と先輩ヅラを見せつつ、また軽くなった財布をじっとりと眺めていると、ふと、ウィンドウに貼られた紙に気づいた。
『アルバイト募集中! バイトリーダーになろう!』
いい機会かも、などと衝動的に思ったハンジは、その場で店長に突撃していたのだった。
初めてのアルバイトは失敗が多かったし、リヴァイに借りたお金の額もちっとも減りやしなかったけれど、生物部の資金はほんの少しだけ潤って、昼に購買部でパンを買えるくらいの余裕もできた。
やることが増えて、できることも増えて、そのぶんリヴァイとの接触は減った。狙っていたわけではないが、自立への道は二人のあいだに適度に距離を生んだ。当然のように寂しさが募って、くっつける機会があれば反動のようにベタベタしてしまうハンジだったが、そういった変化にも、リヴァイは気づかない。
「しょうがねぇな、お前は……」
そう言いながら、飛び込むハンジを相変わらず呆れたように受け止めてくれる。
それに安心する一方で、
(もうここまででいいんじゃないかなぁ)
ともハンジは思う。このまま、たまにペッタリとくっつける程度で満足して、リヴァイに対してこれ以上を求めて呆れられることがないように過ごす。それでいいじゃないか、と。
そうやって、ずる賢く自分を宥めすかすようになっていた。なのに、だ。
「なんかまたいるんだけどあの子たちーっ!」
木陰に身を隠しながら、ハンジは小声で叫んでいた。複数校区を跨いで行われる壁美化大会に、負傷したミカサに代わってリヴァイが出場メンバーとして参加することになり、「来るな」と言われていたにもかかわらず心配でこっそり覗いていたハンジの視界に、再びあの日の二人――イザベルとファーラン――が現れたのだ。
彼らはよっぽどリヴァイのことを慕っているらしく、「自分たちが勝負に勝ったらリヴァイを二中に転校させる」とまで言っている。
この荒くれた進撃中校区の汚れを殲滅するためだけに進学してきたリヴァイのことなので、勝負がどう転んでもその固い意志は揺らがないだろう、とハンジも確信はしていたが、問題はそこではなかった。
(……また触ってるし……)
コーヒー牛乳で汚れたイザベルの手が、勝敗を分けたあとのこと。
リヴァイが彼女の手をとって、ハンカチで優しく拭ってあげていたのだ。ハンジはまた、ふうん、とまた鼻を鳴らす。
わかるよ、牛乳って臭くなるもんね。ましてやタンパク質脂質に加えて糖質も多く含むコーヒー牛乳だ。雑菌の繁殖が盛んですぐに臭いだしてしまう。女の子の手のひらが臭いなんてかわいそうだ。
わかっている。わかってるけど。
あの場にいたのがハンジだったなら、リヴァイは同じことをしなかっただろうな、と思う。
べたべたとひっつく私たちの関係を隠そう、とはっきり提案したのはハンジのほうだ。それ以前からだって、学校で不自然な距離感だと周囲に悟られないよう細工をしていた。けれどあのリヴァイが「ちっともおかしくないだろ」と宣言すれば、誰も文句なんて言ってくるはずがない。
(現にあの子は……リヴァイに触られても、なんにも言われてない)
だけどリヴァイは、ハンジに対してはそうしなかった。
わがままを言っている自覚はあった。だからどうにか胸の中に収めて、やっと部屋に帰って来たリヴァイにひしと抱き着くことでかき消そうとしたハンジだったが。
「――映画? その、イ……同級生の子たちと?」
「ああ。昼食べたら返ってくる」
リヴァイから何気なく告げられた週末の予定に、体の芯が冷えていくのを止められなかった。
イザベルとファーランの「二中に転校してほしい」という必死の願いの元を明かしてみれば、なんてことはない、三人で行くと一人1,100円とお得になる劇場映画鑑賞に付き合ってくれ、とのことだったらしい。
週末、リヴァイは二人との約束どおりに映画館に出かけて、紙袋に入ったポップコーンをお土産として持って帰ってきてくれた。それでもハンジの心は晴れなかった。
(そういえば、二人で映画とか行ったことない……)
誘われたことも、誘ったこともないし、話題にしたこともない。それはまあ、二人の娯楽の選択肢にのぼらなかったというだけだが。
(これだって)
ハンジは目を細めて、お土産のポップコーンを眺める。
リヴァイは特段好んでお菓子を食べない。そもそも手が汚れる食べ物だって好きじゃないし、食べ物を落としても上映中だから掃除ができない、という行為自体を避けそうだ。だからこれは、純粋にハンジのために買ってきてくれたのだろう。
ああでも、イザベルはお菓子がとっても好きそうだったから、きっと鑑賞中もポップコーンを食べたんだろう。もしかしたら、リヴァイが買ってあげたのかもしれない。ニコニコと食べるあの子の手を、また「汚れている」と言いながら拭いてあげたのかも。
マイナスな妄想を膨らませながらしょんぼりと粒を消していくハンジに、リヴァイは何を勘違いしたのか「好きじゃなかったか」などと聞いてくる。
「……作る過程のほうが好き」
「わかった。今度一緒に作る」
嫌な言い方をしてしまったハンジを気にすることもなく、食べ終えて止まってしまった手をタオルで拭われ、そのまま引き寄せられる。リヴァイの肩に頭を乗せて、背中に腕を回して、ハンジは、熱くなる頭の中を冷やそうと深呼吸を繰り返した。
こんなに近いのに。こんなに、ハンジに絶対の許しをくれる人なのに。
触れているからこそ、決定的に違う人間なんだということがわかる。違う人間の持つ熱だから、ずっとハンジのそばにあるわけでも、ハンジのためだけに温かくなるわけでもないのだ。二十四時間三百六十五日を同じ温度にできない肌も、視線も、ハンジには切なくて苦しい。
リヴァイがハンジを抱えたまま、器用に縫物をしはじめる。糸を咥えた口が、中で犬歯の位置を動かし、小さな唇を歪ませる。そのさまを間近で見つめながら、ハンジは思った。
(……唇から、内側)
口の中。
どんなに世話焼きで優しいリヴァイとて、さすがにそこまでは他人に容易に触らせたりはしないだろう。逆に、他人のそこを触ったりもしないはずだ。
(歯医者さんなんかは触るだろうけど、それだって、手袋でだし)
ぽやぽやと溶ける脳で考える。リヴァイの口の中に、ハンジの指を入れて、その粘膜に触れたら。リヴァイの、誰が見ても「特別だ」とわかる場所を許されたことにならないだろうか。
(さわりたいな)
ハンジだけが、リヴァイのそこを許されたい。
なんと身勝手で矛盾した願いだろう。離れる算段をしながら、なのにさらに先を望んでいる。やりたいことと見れば即動こうとするハンジは、けれどこの時ばかりは己の貪欲に体をすくめた。行動も思考も相手とは反対を指して、なのに踏み出そうとする爪先は互いを向いて、ハンジの足をその場に留めようとする。こうしてリヴァイに触れている時だけは、せめて、この息苦しさを忘れていたい。
先延ばしにしているだけだとわかっていながら、ハンジは今日も、リヴァイのそばで目を閉じる。
——この時のハンジは、進退極まった己の現状をまさか違和感に気づいたリヴァイのほうから盛大にぶち壊されることになろうとは、思ってもみなかったのである。
**
「しゃっ、しゃぶるなんて! リヴァイったら何て言い方してるんだよ!」
リヴァイの直截な表現がまずかったのか、ハンジは顔を真っ赤にした。先ほどは触れられることすら拒む様子を見せていたので、そりゃしゃぶるなり口に入れるなりは違うよな、とリヴァイも反省する。が。
「私はただ、リヴァイの口の中に指を入れてあっちこっち触りたいって言ってるだけなんだから!」
「同じじゃねぇか」
「違うもん!」
結局、〝口の中に入れる〟というところまではリヴァイの推察どおりで、そのあとの主導権をどちらが握るかという違いにハンジはこだわっているらしい。リヴァイはまだ理解が追いついていない。
「別に触るぶんには構わねぇが……なぜそれが俺を避けることになる」
「え? 触っていいの?」
「前後でちゃんと手を洗うなら、」
「当然じゃないか! もう一回洗ってくる!」
「話を聞けよ。いや違う、お前が話せ」
何をそんなに焦っているのか、ハンジはドタドタと流し台まで駆けていった。そうして一分ともなく戻って来たが、二度目の手洗いなのでリヴァイも許してやる。
「あの、ほ、本当にいいの……?」
「舌でも抜くつもりか」
「違うって! 痛いこととか絶対しないし、リヴァイもおんなじことしていいから」
おんなじこと、と言われて、平常な拍動を繰り返していた心臓が少しだけ跳ねあがる。リヴァイは黙って口を開けた。正面に座ったハンジもまた膝を揃え、目の前に手を掲げると、リヴァイの下唇と歯にそっと指先を触れさせる。
「い、入れるね?」
いつになく真剣な眼差しで宣言され、リヴァイは息を詰めた。訊ねはしても了承を待つ気はないらしく、ハンジのひとさし指が、おずおずと歯列を越えて挿し込まれる。
舌の表面にぴとりと、弾力のある物体が接する感覚がある。すぐに石鹸の香りがのぼってくるが味はしない。水で洗ったせいか、それとも緊張のせいか、皮膚はきゅんと冷えている。あとで温めながらハンドクリームを塗ってやろう、などと思考をうろつかせていると、開きっぱなしの口の中に唾液が溜まってきた。リヴァイは特に何も考えず唇を閉じて――つまり、ハンジの指を咥えて――こくん、とそれを呑み下した。
「ひええ!」
「っは?」
間抜けな叫びとともに、舌と歯と唇の締め付けから勢いよく指が引っこ抜かれる。リヴァイはぽかりと口を開けたまま、慌てふためくハンジを見つめた。まるで大怪我でも負ったかのように指を手で包んでいる。
「びっくりしたぁ! 急に何するの!」
「なにって」
相変わらず血の気もたっぷりに染まっている頬を見れば嫌悪から言っているのではないとわかるが、それにしても理解しがたい反応である。首を傾げるリヴァイを前に、ハンジも冷静を失っていた自分に気づいたのだろう。ふうふうと息を落ち着けて居住まいを正す。
「えっと、……リヴァイ。それで、」
「なんだ」
「嫌な気持ちにならなかった?」
「まったく」
即答する。そこに嘘はなく、しかし疑問も尽きない。リヴァイは、困った顔をするハンジの腕をとり、慣れた様子で引き寄せた。ハンジも抵抗せずそのふところに体を預け、もう何十回と同じことを繰り返した証のように、リヴァイの首元にすっぽりと頭をおさめる。背中に両腕をゆるくまわして、二人の安堵はようやく完成する。
「……お前こそ、嫌になったのかよ、こういうの」
「なってたら、今こうしてないよ……」
ぐりぐりと頬をすりつけられ、顎に眼鏡が当たる。リヴァイは急かさずに次の言葉を待った。
「嫌になんて、なるわけない。……だって私、もっと、」
音ではなく振動で伝えるかのように、ぴたりとくっつけた体越しに、ハンジの言葉が染み込んでくる。
「もっと、リヴァイに触りたい。……誰よりも、近くにいたい」
コクリ、と鳴ったのはどちらの喉だったのか。
「いつも、すぐそばにいるのに、もっと、もっとって。ずっと……そう考えてたんだ……」
〝もっと〟――火がついたのかと錯覚するほど、リヴァイの全身が熱くなった。それほど甘美な響きだった。
もっと、ハンジという存在の近くに。もっと、互いの繋がりを深くする。不安になる必要もないほどに。けれどリヴァイにとってもっとも重要なのは、ハンジがそれをリヴァイに求めているということだった。たとえその抽出が、一見しては意味不明なものであろうともだ。
「……真逆のことしてんじゃねぇか」
「それは、そのぉ、私が周りのみんなと同じになっても、リヴァイは変わらずにそばにいてくれるのかなって……」
「はあ?」
突拍子もない仮定に、疑問符にさえ詰りの色が出てしまう。ハンジであるからそばにいるのに、一体何が同じになるというのだろう。先ほどの「嫌な気持ちになったら」といい、要するにリヴァイを侮って試していたということに他ならない。
「さぞや満足のいく結果だったんだろうな?」などと皮肉の一つでも言ってやろうと思ったリヴァイだったが、ハンジが先んじて「でも寂しくて全然だめだった」と鼻声で明かしてきたのですぐにどうでもよくなる。天辺から足先までハンジの熱が伝って、ポカポカとした膜が自分たちを包んでいるような気分になってきた。
「……満足したのかよ、口ん中で」
己のそこが、ハンジにとっての〝もっと近く〟で、そんなところを触って不安が解消されるというのなら、リヴァイはいくらだって明け渡すつもりだった。しかし、当のハンジは額を渋く歪ませる。
「う〜ん……」
「まだ何かあるのか」
「リヴァイもさすがにこんなところは誰かに触らせたりしないよねって思ってたけど、心配になってきた……そもそもこれって前より近づいたことになるのかな」
生来の研究気質が妙な方向に深まっているのか、ハンジの追究は底なしだ。別に拒みはしないが、リヴァイを信用の基準にさらすなら自分だってそうすべきだろう。
「お前はどうなんだよ」
「私?」
顔を上げるハンジと向き合い、親指でそっと唇をなぞる。
「俺に望むんなら、自分だって同じことをすべきじゃねぇのか」
「う、うん、そのつもりだけど」
「嘘つけ。『金やるから口内の組織を採らせろ』とか言われたら絶対すぐ口開けるだろ」
「お金……!?」
「オイ」
やすやすとぐらつく意思を咎めると、ハンジは眼鏡越しにも大きな眼を、じ、とリヴァイに注ぎ、そのまま、唇に添えられていた指をぱくりと咥え込んだ。
「っ……」
「んむむ」
指先が、生温く柔らかな感触に包まれる。すぐに小さな歯をなぞり、舌を戯れのようにつつき、ちゅう、と吸う動きに感じ入る。初めての経験なのに、リヴァイは不思議と、そこが元から自分の居場所だったような錯覚を抱いた。ハンジの口の中は、確かにハンジを構成するものの一部であり、またリヴァイにとってもこれ以上なく馴染みのある空間なのだ、と。ここがリヴァイ以外の他人に侵されるなんて――きっと、我慢できない。
視界が狭くなっていく。リヴァイの思考も視界も、ハンジでいっぱいになる。ハンジもまた、余所見なんてすることなくリヴァイを見つめている。二人はこの時、体をくっつけているよりもさらに近く、互いの心が相手に接しているのだ、と感じていた。
口の中で、舌がリヴァイの指をくすぐる。何かを求めている、とすぐにわかった。リヴァイは悪戯めいた動きをするそこに、そうっと、自分の唇を寄せた。
――くううう。
狙ったわけではないだろうが。触れる直前、二人のあいだから動物の鳴き声のような音が起こった。確かめるまでもない、ハンジの腹が空っぽを訴える音だ。
「……ほはんはへはい……」
「……そうだな……」
指を咥えたまましおしおと力を失くすハンジに、リヴァイも頷く。食事のことを思い出した途端、全身がエネルギー不足を主張してきたのだ。ハンジがさらに何かに気づいたように顔を動かしたことで、リヴァイの指は呆気なく解放された。
「リヴァイ! もうすぐ九時になっちゃうよ!」
「チッ」
時刻はもうとっくに八時を過ぎていた。慌てて二人で立ち上がり、手の洗浄と夕飯の温めなおしのために台所に立つ。隣り合った瞬間に、ぱちりと重なる視線。二人揃ってすぐに手元に意識を戻す。石鹸で泡立てた手を擦りあいながら、ハンジはぽつりとこぼした。
「あのね」
味噌汁が沸騰しないように鍋を見ながら、リヴァイも答える。
「何だ」
「私は、口の中……リヴァイ以外にはさわらせないよ、たぶん。嫌だし」
「たぶんかよ」
「私の意思では絶対!」
それほど強い言葉を与えられても、ハンジのことだから、などとどこかで諦めを覚えてしまう。〝口の中〟という言い方にしたって、ハンジの〝手〟は宣言のかぎりではないことを示しているのだ。誰にも触れずに過ごしつづけろなんて土台無理な話だと、リヴァイとてわかっている。ハンジも、ハンジ以外に触れるリヴァイへの言及はしても、その行為を責めたりはしなかった。わかっているのだ。
だけど、だったら。自分はいったい何を根拠に、ハンジの特別であれるのだろうか。
「それで、私たちのことも、やっぱり秘密にしたままがいいと思うんだ。……リヴァイが簡単に女の子にさわれるんだって、知られたくないし……」
「ああ……」
後半はぼそぼそとしてよく聞こえなかったが、リヴァイも気鬱に耳が遠くなっていた。別に、他人にハンジとの関係を殊更知らしめたいわけじゃない。だが秘密にしているかぎり、この繋がりは誰にも知られずに消えてしまう可能性だってあるのだ。
「――ねえってば!」
「っ」
ぼんやりとしていたリヴァイの頬を、突然、濡れた手がわしづかんだ。そうして結構な力で横に向かされる。火は止めていたので問題なかったが、ハンジが力に訴えることは珍しい。叱るより前に、リヴァイは鼻先に近づいたハンジの、いつになく真に迫った表情に圧倒された。
「あの子のことだって、リヴァイの昔馴染みだし! 頭撫でたりはしょうがないって、ちゃんと我慢できるけど……っ」
息がかかる距離なんて、慣れたものだと思っていたのに。どうしてか、鼓動が早まる。
「ここは、……私以外に、さわらせないでね」
じ、と覗き込んでくる両目と、ここ、と唇に触れる指と。何よりも、リヴァイを縛りつけようとするハンジの言葉。
同時に与えられたいくつもの情報に、この時、リヴァイの腹底が焼けた鉄杭でかき混ぜられたように轟いた。
「聞いてる?」
「……聞いてる」
「絶対に、約束だよ?」
「約束、する」
大輪の花のような笑みに、リヴァイはやはり、何も考えられなくなる。何も考えられないまま、新しく成された約束だけをかろうじて握りしめる。
なんとも儚いこの領域を、互いにだけ許すことを守り続けよう、とハンジは言う。守って、とリヴァイに望んでいる。他でもないリヴァイに、誰でもないハンジが望んでいるのだ。自由に、ほうぼうに飛び回る姿こそが真であるハンジ・ゾエが、自身とリヴァイに不自由を望んでいる。おまけにその不自由は、リヴァイ自身が望んでいることでもある。
リヴァイはようやく理解した。
互いを願うこの意思こそが、曖昧で流動的で、確かな〝特別〟を作り出すのだ、と。
「……お前も、ちゃんと約束守れよ、ハンジ」
「うん!」
ハンジの頷き一つで、胸が熱い喜びに満ちていく。リヴァイは、ああ、と目を細めた。
(――これはきっと、幸せの絵だ)
そしてあるいは、音、映像、光や色。世界を彩るすべてである、と。
リヴァイの答えに満足したのか、ハンジはようやく体を離し、率先して食事の用意をし始めた。フライパンから鮭のソテーを皿によそい、抑えきれない、とでもいうふうに口角を崩す。
「えっへへ~…」
「なんだよ……」
「リヴァイ、今日は一緒に寝よ!」
「調子のいい奴め」
科白こそそっけなかったが、リヴァイの表情もかつてないほどの緩みを見せる。ハンジは、その心中がどれだけ喜びに溢れているか手に取るようにわかった。リヴァイが嬉しいと、ハンジも嬉しい。綿雲を投げつけ合うようなやりとりをしながら、二人は向かい合うどころか並んで座って、というかもはや体の表面の半分以上をぴったりとくっつけたまま夕飯を食べて、一応別々に風呂に入り、同じ布団に入ってひしと抱き合いながら眠りについた。
今日より以降は、果たして新しい道の始まりなのか、それとも、道進む二人の瑣末な変化に過ぎないのか。ハンジを抱きしめながら、前者であれとリヴァイは思った。リヴァイに抱きしめられながら、後者だろうとハンジは思った。同時に、どっちであってもやることは変わらない、と二人で思う。一番近くにいたい。だから、そばにいるのだ、と。
残り少ない中学校生活で、それがまた、二人の日常になったのだった。
**
昼休みを迎えた校内、特別教室棟の廊下を歩いていたナイル・ドークは、突然背後から話しかけられた。
「ナイル先生、相談があるんですが」
「嫌だ……聞きたくない……」
堂々と腹に沁みるその声だけで質問の主を察したナイルは、振り向かずに首を振った。足早にその場を立ち去ろうとするが、質問の主――ナイルが曲者として敵視している同僚エルヴィン・スミス――はピタリと後についてくる。
「うちの生徒で、仲の良さゆえに少々危険な行為に走りそうな男子と女子がいましてね」
「無視すんな! 嫌だって言ってるだろ!」
ナイルはまんまと足を止め、振り返って叫んでしまった。案の定、そこにはエルヴィンが笑顔を浮かべて立っている。ナイルの拒絶もまったくもって意に介していないらしい。こうなるともう校内での地位が低いナイルは振りきれないので、諦めて話を聞くことにした。思いどおりになるのは癪だが、あのエルヴィンから相談を持ち掛けられること自体は気分がいい。屋上に移動し、二人で手すりに寄り掛かる。
「ったく……それで、その男子と女子ってのは、もしかしてリヴァイとハンジのことか」
「なんと! ナイルですら気づいていたとは!」
「すらってお前……一応俺、既婚者なんだが……」
「そんなことより、先生の言うとおり、あの二人が興味本位で危ないことに手を出したりしないか心配でして」
「そんなことよりってお前……」
雲行きが怪しくなってきた気がするが、一応生徒のことなので真面目に考える。とはいってもだ。
「まあ大丈夫じゃないのか。二人ともあれで頭はいいし、ちゃんといい関係を模索できるだろ。つーか中学生だしな」
「ふむ。言うじゃないか……既婚者の余裕……いや、既婚者の傲慢か……」
「おい、なんで言いなおしたんだ? 相談にかこつけてさっきから俺に喧嘩売ってないか?」
「とんでもない。しかしこのあいだ、リヴァイがこういうことを言っていてな……」
ボソボソと秘密を囁かれたナイルは、逆に高らかに笑いだした。
「だっはははは! ぜーったいお前の監督不行き届き! 精々アブノーマルなプレイが露見して責任を問われるんだな! いい気味だぜ!」
「アブノーマルなプレイとは……?」
「しらばっくれるなよ! 首輪や鍵付きの拘束具をこっそり服の下に付けさせてお互いに興奮するんだろうが! あっはっはっ、は……」
屋上にいた生徒たちが耳にしたナイル先生の衝撃発言、その噂がまたも学校中に行き渡ったころ。旧校舎は調査団の部室で、エルヴィンはリヴァイにそっと耳打ちする。
「リヴァイ、ハンジとのことなんだが」
「あ? なんだ」
「ちゃんと無理をさせないように気をつけるんだぞ」
「……? 了解だ、エルヴィン」
「わかってないのに頷くなお前は」
元より放任主義の教師は「このくらいの忠言でいいだろう」とやりきった感を出して去って行き、あとに残されたリヴァイと、近寄って来たハンジで顔を見合わせる。
「何かあったの?」
いつぞやのように訊ねられ、やはり「なんでもない」と答えるリヴァイに、けれど今日のハンジは「ふうん」と拗ねた様子を見せる。それが妙に引っ掛かったリヴァイは、教室を一瞥した後にハンジに向き直った。調査団の部員たちは今日も元気に馬鹿をやっている最中で、二人のやりとりには気づかない。
「なんだよ」
「リヴァイとエルヴィン先生って、いつも他の人がわからないやり取りしてるよね。私が聞いても教えてくれないし。別に、気になるわけじゃないけど」
呆気にとられた。もしかしなくともハンジは、同年代のイザベルだけでなく、しかも触る触らないの話ですらないあの教師とリヴァイの応酬にも不満を募らせていたのだろうか。だとしたらとんだ独占欲だ。
けれどリヴァイは、ハンジのその不満にひどく胸をくすぐられた。思わず漏れそうになった息を慌てて抑える。
「……っそんなやりとりしてねぇし、教えてやるから拗ねるな」
「拗ねてないけど……じゃあ、なんて言われたの?」
「健康に気をつけろだと」
「あれ、案外普通だった」
「風邪が流行ってるからな。今日も帰ったらすぐ手洗いだぞ」
「わかってるよー!」
変化は少しずつ、そして、確かにそこに。
ちなみに。
中学卒業後も同じ高校に入学したリヴァイとハンジが、人前では類稀な才と(ある意味での)暴力性を持つ若人として〝悪友〟を演じながら、裏では相変わらずベタベタとひっつきあっていたある日。
ハンジと共寝をした翌朝、自分の体が示した初めての反応におおいに狼狽えたリヴァイが、今度は彼のほうからハンジを避けだした話は、――収まるところが明らかなので、割愛する。
〈了〉
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(初出 24/03/04)