喋って動いて色づいて
色づく少年少女の話
喋って動いて色づいて
色づく少年少女の話
1.
人気のない敷地に足を踏み入れると、少女は軽やかにステップを踏んだ。トン、トン、とコンクリートを鳴らし、ひょろりと縦に長い体の片足を軸にして華麗に一回転。無邪気な笑い声をあげ、両腕を開きながら、目の前の少年に飛びつく。
「――リヴァイ!」
「重てぇ」
勢いよく体当たりを受けた少年は、年ごろにしては小柄な体つきにもかかわらず、腕にしがみついた少女にも微動だにしなかった。
「今朝はぎゅーってできなかったから一日中寂しくてたまらなかったよ〜!」
ひんひんと鼻を鳴らして体を揺する少女に、目元だけは疎ましそうに歪めながら、少年も自身の側頭部を肩に乗った茶色い頭にグリグリとすりつける。
「お前が寝坊するからだろうが……」
さびしかった、とひっきりなしにこぼす少女に対し、拗ねた口調を隠しもしないのは少年のほう。つがいの鳥が羽を繕い合うような戯れと辺りに満ちる甘くて柔らかな空気は、ほんの数分前まで学友たちの中にいた二人からは、微塵も感じられなかったものだ。
少年と少女は、名をリヴァイとハンジという。進撃中学校に通う三年生である。
二人はそれぞれ年相応に幼さが残る見た目のなかに類希なる知力と行動力を備え、常日頃からその才を極端な方向に発揮していた。おまけにたいがいの場合において周りを巻き込んでいたせいか、リヴァイは『人類最強』として、ハンジは『奇行種』として、校内ばかりか比較的治安が悪いとされる校外にすらその存在を知れ渡らせている。
健全を究めるために、時に力の行使すらも辞さないリヴァイ。好奇心と奔放が過ぎるあまり、無垢な暴走が目立つハンジ。正反対の気質の中に通じるものがあったのか、二人の行動についていける寡黙な友人・ミケを含めて普段から何かと連れ合う姿が校内の至るところで目撃されていたために、ある者は二人を指して〝悪友〟と呼ぶこともあったという。
そんな二人であるが、実のところ、悪友とは程遠い間柄だった。
「だからー、そばでずっと見てたんなら起こしてくれよ!」
「おかしなツラで寝こけてるお前が悪い」
頬を膨らませるハンジの顔に、今朝の〝おかしなツラ〟を再現しようとでもいうのかリヴァイが指を伸ばし、柔らかい部分をつまんでむにむにと遊ぶ。くすぐったさにハンジのいじけが崩れれば、一旦離れた指が今度は顔の稜線をなぞり始める。どの時点においても、とても優しく。
彼らには、ひとたびお互い以外の視線がなくなると、学校での様子からは想像もできないほどベタベタしまくる、という秘密があったのだ。
今日も今日とて、校内から二人が暮らす寮の外に至るまで、二人は徹して〝悪友〟だった。
ハンジが突拍子もないことを言いつつ、視線優先をあちこちに。リヴァイはその首根っこを掴んで引きずり、軽く手も出す。
部屋を隣とする学校寮までの短い道で、買い食いしたい、冒険に行こうよ、などと駄々をこねるハンジに、知るか、勝手に行け、とリヴァイがそっけなく返し、袖を引っぱる手を振り払ったりなどする。周りの人間からすれば、なんら変わり映えのない、いつもどおりの二人だった。
が、それも寮の敷地に足を踏み入れるまでの話。
進撃中に通う生徒の多くは、「家から近いから」という理由でこの学校を選んだ者がほとんどである。わざわざ遠方から巨人の脅威に晒される危険に飛び込んでくる生徒は少なく、必然、学校寮に住む人間も少ない。
そういう事情に加えて、他人の事情などお構いなしに汚れの一切を駆逐しようとする掃除魔として恐れられている『人類最強』ことリヴァイと、連休のたびに寮内のあちこちに特に理由のない(本人は面白い生物を捕獲するためだと供述する)暴力のような罠を仕掛る『奇行種』ことハンジが入寮している、という事実が、他寮生や寮外生徒の迂闊な出歩きを極端に抑制している。
つまり、寮内にはいつも人影がなかった。つまり、ここまで来れば、リヴァイとハンジも他人の目を気にして悪友を装う必要がなくなるということだ。
そんなわけで、この日も寮門をくぐった瞬間からこれ幸いと距離を縮め、互いの温度に安堵のため息をついている二人である。
腕にきゅうきゅう巻きつくハンジを上手く誘導し、リヴァイはダラダラと寮の階段を上りはじめる。温かな全身を、ハンジは少しも躊躇せずリヴァイに預けている。二人以外の誰かがいればすぐさま振り解き鉄拳制裁に雪崩れ込むであろうこの所業に、今のリヴァイは眉根の皺を緩めるだけだ。たとえかけられた体重の分だけ二人の足が牛や亀の歩みになったとしても、文句の一つだって言うつもりはなかった。
ふと首を傾ければ、ハンジの幼子のような柔らかな頬がリヴァイの学ランの肩に寄せられ形を崩している。押し上げられた眼鏡の下から、ハンジの存外豊かな睫毛がヒクリと震える様がじかに見えた。
リヴァイは、ああ、と目を細める。
(これがきっと、幸せの絵だ)
ハンジの安らかな様は、リヴァイにとって幸福そのものだった。
リヴァイとハンジの関係は、出会って半年が経つころにはほとんど今の形になっていた。
同じ学校だったこと。同じ学年だったこと。同じ寮だったこと。部屋が隣り合っていたこと。知り合った経緯こそ偶然が重なったためだったが、その接近には互いの性質が関係していた。
鋭い雰囲気と微妙にズレた力の使い方から誤解を受けやすいが、存外他人に対して世話焼き気質なリヴァイに、生活苦からちょっぴりの打算はあっても、他人に向かって敵意も臆面もなく純粋な好意でぶつかっていくハンジ。
急転直下で空回る賢しさと軟派な表情の下にある固い意志で行動し、ゆえに他人から浮きがちなハンジを、彼女がどこに飛んで行こうと、その思考を完全には理解できなかろうと、放っておこうとはしないリヴァイ。
二人の仲が密になったのは、あるいは必然だったのかもしれない。身体が近づいたのも、心が近づくうちに自然とだった。
例えば、実験の途中で制服を炙られたハンジの軽い火傷。ある時は、良識人の仮面を被る教師に挑むリヴァイが持ち帰った傷。
軽く叩き合うような口での応酬に反し、互いの無事と変わらない温度を確かめるような触れ合いが起きて、そのうち二人は、相手に触れつづけているとなんとなく安心する事に気づいた。そうして、その距離でないと我慢がきかなくなった。
同じ物を食べ、同じ空気を吸って、同じ音を聴いて、決定的に違う相手の肌と温度を感じながら眠りにつく。その一連を、二人は当然のように繰り返した。
ハンジに触れていると、リヴァイは大きな安らぎに身を浸すことができる。別に毎日がストレスの連続なわけではない。けれど、つかんだ指のあいだから砂が溢れるようにハンジがいなくなる時、リヴァイはいつだって、飢餓に似た寂しさに襲われた。そうしてその飢えは、ハンジがリヴァイの腕の中でそっと目を閉じるときだけ満たされるのだ。大袈裟かもしれないが、この少年の世界はそんな単純な理で回っていた。
とはいえ、ハンジにその感覚を伝えたことはない。自由に飛び回る姿こそがハンジ・ゾエなのだと、リヴァイは心から思っていた。なにより、そうやってほうぼうに飛び回ったハンジは、リヴァイの隣を住処として必ず帰ってきた。それだけで満足だったのだ。
ついて離れて、道を外れることはきちんと正し、手や頬を合わせて、細胞が結合するような錯覚を反芻する。それが二人の日常になった。
しかし、一年の三学期を迎えたある日。バレンタインデー直前のことだった。
二人と同じクラスに所属する男子と女子二人が、その仲の良さと距離の近さをクラスメイトに散々からかわれた挙句、気まずさからほとんど話さなくなってしまうという事件が起きたのだ。始終を目撃したリヴァイは、その結果におおいに衝撃を受け、そして気づく。
もしかしなくとも、自分とハンジの関係は、世間一般的にはおかしいものとして見られるのではないだろうか?
ハンジに事の顛末とリヴァイの見解を話すと、なんと「そうだね」と肯定したではないか。リヴァイは混乱した。
「お前、俺たちが普通じゃないと、気づいて……」
「うーん、普通じゃないというか……おかしく見られるかもなぁとは思ってたよ」
「……!」
「だからね、学校では一応、変にからかわれたりしないように気をつけてたんだ」
〝気をつけてた〟――思い返してみれば。学校でのハンジからリヴァイへの接触は、寮でのそれとはだいぶ違っていた。はしゃいでリヴァイを引っ張ったり、大げさなリアクションをとりながら叩いたり、昼飯をせびるわりに得た金を部活動につぎ込む不義を働いたり、リヴァイの言動をからかい混じりに翻訳してみたり。
こんな関係になる前は普通に行っていたことなので、リヴァイもそれをしばいたり叱ったりと反射で同じ行動をとっていた。なるほど、クラスメイトたちがからかうこともない、〝普通〟の中学生男女の距離だ。
「でも、もしリヴァイがおかしく思われてもいいって言うなら……、リヴァイ?」
(おかしかったのか、俺たちは……)
胸が苦しく塞がる。リヴァイは元より、ぶっ飛んだ一部の思考を除いては大変品行方正な中学生だった。そのぶっ飛んだ一部とて、誰かから半笑いでも「いやそれは変だよ」などと指摘があればすぐさま改善を考えるほど真面目な人間だった。
残念ながら勇気や常識の面からリヴァイに指摘できるだけの人間がおらず、また指摘されたとしても必ずしも改善に至るとは限らないのだが。
とにもかくにも、己の生命線であるハンジとの触れ合いは、世間一般的にはどうやら『おかしく』て『変』で、すなわち『間違い』であるらしい。しかもハンジは先んじてそれに気づいていたという。おそらくはリヴァイを守るために、学校では〝普通〟を演じて、受け身のリヴァイはその装いにすら気づかないままハンジからのアクションを甘受していたのだ。
(とんだ間抜けじゃねぇか)
リヴァイの落ち込みは凄まじかった。言いようのないショックに完全に意気消沈し、黙りこくってしまったその顔を、ハンジが下から覗き込む。
「ねえ、リヴァイ」
「……」
固まった指を掬われて、釣られて目を上げたリヴァイは、そこで悲しそうに歪められた大きな眼とかち合った。ハンジはリヴァイの内心を過たず読み取ったらしい。
「あのね、私はこうして君に触るのも、触られるのも大好きだよ。リヴァイは?……もう、嫌になっちゃった?」
「ならない」
即答すると、途端にその顔が綻んだ。この首を傾げた大輪の花のような笑みを前にすると、リヴァイは何も考えられなくなる。
「うーんと、じゃあさ、みんながいない所でくっつくようにしようよ。そうすれば他の人に色々言われることもないよ!」
そうだ、誰の目にも留まらなければ「おかしい」などと指をさされることもない。リヴァイは一も二もなくその提案を受け入れ、「やっぱり頭良いなコイツ」と納得した。こうして、二人の秘密は始まったのだった。
ようやく五階まで辿り着き、二つ並んだ部屋の前に近づいたところで、いまだしがみついたままのハンジに向かってリヴァイは口を開いた。
「そういえばお前、最近〝向こう〟にもいねぇことが多いな。帰ってくるのも遅い」
そうやって寂しがるわりにはそばにいない、なんて責めたわけではないが、腹から出た声には存外静かな圧があった。触れている部分からじかにその迫力を感じたのか、ハンジの肩がピクリと揺れる。目線は合わない。
「えーっと、……部活が忙しくて」
「毎日遅くなるようなら迎えに」
「ううっ」
リヴァイの純粋な心配に胸を衝かれたのか、ハンジは苦しげに呻いたあと、ぼそぼそと白状しはじめた。
「実はそのぉ、コンビニでアルバイトを始めて」
「……バイト?」
「そう、このあいだ部活帰りに寄ったSHINHEKI MARTで募集してたんだ。欲しい物が高価なのばっかりだし、リヴァイからの借金も馬鹿にならなくなってきたし……」
借金に関しては「馬鹿にならなくなってから考えるなよ」と思うリヴァイだが、小声で「バイト」とだけ復唱する。
「今日はないのか」
「うん、週三日だから」
リヴァイの眉間の皺が数を増す。普段のハンジの様子を知ればこそ、真っ当に働いて稼いでいること自体は喜ばしい。それでも「寂しがってるわりに」という小さな不満が渋面を落ち着けてくれなかった。いつのまにか離れていた体温にも微妙に焦りをかきたてられたリヴァイは、渋るハンジを説き伏せて「バイトがある日は終わる時間にコンビニまで迎えに行く」という結論を押し決めてしまった。
「オイ、今日もウチで飯食うんだろ」
日に焼けた扉が二つ並ぶ。そのうち一つの前に立ち、俯きがちなハンジに向かってリヴァイは問うた。満室ではないが同じ階に寮生がいるので、声量は控えめだ。
「あ、今日は……」
「食うんだろ」
パッとハンジの頭が持ち上がる。薄暗がりにもわかるほどの笑顔だ。
「うん、食べる! 今日はなにを作るの?」
「唐揚げ」
「嬉しいー! リヴァイの唐揚げ好き!」
「すぐ来て手伝えよ」
「わかってる~」
相槌がわりの舌打ちを返し、リヴァイは扉を開けた。ハンジも倣ってノブに手をかける。ダメだなぁ、という囁きは、開閉の音に紛れて誰にも届かなかった。
夏休みを終えて新学期を迎えた進撃中学校は、生徒たちそれぞれが背筋を伸ばして勉学や校内活動に勤しみ、日々旺盛に慎ましく――なんてこともなく、相変わらず、予想外の出来事で騒がしい。
リヴァイの周りも例外ではなく、というかリヴァイにも縁がある理由で事件に巻き込まれたりして、気がつけばあっというまに月を跨いでいた。このごろは爪先に冬が忍び寄る。この中学で、リヴァイとハンジが迎える最後の秋だ。そう、最後なのである。
放課後を迎えた教室で、リヴァイは眉間に深々と皺を刻んでいた。
(ハンジの態度が、おかしい)
なんというか、距離を取られている。
一日の大半を過ごす学校で周囲の目を気にした行動は常であるが、それを考慮しても、このところのハンジはおかしかった。
昼休みもチャイムが鳴った途端に教室を出て行き、終了間近に飛び込んで来るし、放課後は言わずもがな生物部の活動に励み、調査団では巨人の生態に興奮して視界からいなくなり、週の後半はアルバイトで姿を消す。
それがない時ですら、女子中学生の分際で知恵を絞って金儲けに奔走している。
ハンジの展開する金策は、そのどれもが絶妙に人の欲望をくすぐるものだ。集金に使えそうな他人の才をミケにも勝る嗅覚で嗅ぎつけ、この時ばかりは普段の人の好さも隠してそれを使い倒し、確実な儲けを出す。そしていつも、最後には詰めの甘さで崩壊させる。ハンジは徹底的に脇が甘かった。たぶんそれは、ハンジがギリギリで捨て去れない人の好さからくる甘さなのだろう、とリヴァイは思っている。なまじっか途中までは上手くいくために結果的に騒ぎが大きくなって、知らぬまに複数人に囲まれているハンジを見つけては内心青褪めたリヴァイがハリセンで輪から叩き出すのも日常茶飯事だった。それでもめげない姿を見るにつけ、コイツは将来大成してきっと大きな金を動かす奴になる、しかも稼いだ金を躊躇なく自分のこと以外につぎ込むのだ、と根拠のない確信に震えているリヴァイである。
それはさておき。
とりあえずは眼前の、今日いまこの時のことだ。急速に減ったハンジとの触れ合いーーこれがリヴァイの抱える目下の問題になっていた。単に忙しいだけだといえばそうだが、ハンジはどの活動においても、絶妙にリヴァイの介入を回避しているのだ。
今日だって授業が終わるや否や、ハンジはリヴァイには目もくれずに部活動に行ってしまった。昼だって朝だって、何かと理由をつけてそばにいなかったのにだ。
一日を通して極端に会話の回数が減っている現状、その欠乏を埋められる機会がなくなるのは痛い。
先日などはハンジと会話がないまま就寝しそうになり、さすがに我慢ができずに「埃の気配がする」と隣室の扉を蹴破って乗り込んでしまったリヴァイだったが、なんやかんや共寝をして翌朝目覚めると、腕の中はもぬけの殻だった。『朝活の昆虫観察に行ってくる!』とのメモだけを残して、ハンジはいなくなっていたのだ。
思い出すと風邪をひいたような悪寒を感じる。リヴァイは一旦目を瞑ってまた開き、気を落ち着かせ、さらに思考を巡らせる。
そもそも、リヴァイの指摘によってアルバイトの件が露呈したあの日以前、正確には二学期が始まったあたりから、徐々にではあるが、おかしくなっていたかもしれない。
いつもはリヴァイの部屋で一緒に食べていた夕食を「今日は大丈夫!」と断る事も多くなったし、そのくせ同伴の誘いができない学校では「お昼ご飯おごって~」とリヴァイに絡んで来る。そんな時はリヴァイだって「ふざけるなクソメガネ」としか言えない。二人きりなら腹一杯食わせてやるのに、と裏でほぞを噛みながら突き放すことしかできないのだ。
夜だって、夏休みを境に同じ布団に潜り込んでこなくなった。ハンジが夜行性のなんとかという何かを飼い始めて、夜はずっと観察したいと言い出したからだ。が、リヴァイはその何とかという何かを見たことがない。
朝起こしに行っても、無防備に眠りこけていることは極端に減ってしまった。時には「先に学校行ってるね!」と逃げるように部屋を出ていく始末。
一日中とは言わずとも、少なくとも半日はべったりとひっつきあっていた休日さえ、今、リヴァイは一人で過ごしている。
ここまでくればもう認めざるを得ない。
ハンジはリヴァイを避けているのだ。遅まきながらしっかと見つめたその状況に、顔から、さ、と血の気が引く。ちょうどそこにミケがやって来た。
「ハンジは?」
「……知らん」
「一緒じゃないのか」
「見りゃわかるだろ」
気にしていたことを無遠慮に訊ねられ、何も悪くないミケ相手につい口調がきつくなってしまう。ミケは気にした様子もない。
「お前たちは匂いが混ざっている。イッキュウしただけじゃわからん」
「……だから、見りゃわかるだろ……」
視覚を犠牲にでもしてるのか? というかなんだイッキュウって、もしかして一嗅か? 勝手に言葉を作るなよ。
引っかかるところに内心で突っ込みつつも、ミケの発言を「他から見てもハンジは俺と一緒にいないことが増えた」と解釈したリヴァイはひどく落ち込んだ。
けれどそうやって距離を感じる幾日が過ぎたころ、校内でたまたま二人きりになることがあると、ハンジは「寂しいよぅ」と情けない顔でリヴァイに擦り寄ってくるのだ。「だってお前が」と不満を募らせるものの、リヴァイはそれすら上手く伝えられない。ハンジには、リヴァイを避ける意図なんて微塵もないかもしれないからだ。ならば、と言葉のかわりに抱きしめようと動かした腕も、背中に回らぬうちに空を切って、ハンジはまた何食わぬ顔で離れて行ってしまう。
(ハンジよ……お前は何がしたいんだ)
その自由な思考回路がこのところますますわからず、沈鬱を極めるばかりである。
「鍵つきの服、は、自作できねぇか……」
放課後の調査団部室で、リヴァイはポツリと呟いた。机を挟んで斜め前に座り静かに本を読んでいたエルヴィンが小さく咽せだしたが、「歳とると咽せやすくなるぜ」と授業中に教師のナイルがぼやいていたのを思い出したリヴァイは特に気にしなかった。
それよりもハンジのことだ。後輩たちと笑顔でおしゃべりに興じるその姿を、バレないようにそっと横目で見やる。
ハンジときたら、先日「身ぐるみ剥がされそうになっちゃった~」とへらへら笑いながらボロボロになって帰って来て、リヴァイは力いっぱい卒倒しそうになったのだ。錠前でも付いた服を着せてリヴァイしか開鍵できないようにすれば、不貞な輩に身ぐるみをはがされそうになるなどという稀有な体験もしなくなるだろう。着替えたり用を足したりの際にも必ずリヴァイの元に戻ってくるようになる。
(……いや、クソに間に合わなかったらまずい。却下だ)
万が一にもハンジに恥をかかせるようなことは避けるべきだ。それに根本的な解決にもなっていない。リヴァイは衣服の着脱や、ましてハンジの行動を制御したいわけではない。
ただ、自分の見ていないところで決定的な危機に陥らないようにしたい。無事にリヴァイの元へ帰ってきてほしい。それだけなのだ。
では、手を出せば報復を受けるような恐ろしい誰かの庇護を受けている、ということを周りに示せればいいのではないか。さてどうするか……と、沈んだ思考に一筋のきらめき。リヴァイは勢いよく顔を上げた。
「――首輪か!」
突然、エルヴィンが弾かれるように立ちあがった。パイプ椅子が後方に跳び、教室の真ん中で騒いでいた調査団の面々も大きな音に動きを止めて視線を寄こしてくる。室内が、一瞬で緊張に包まれた。
「なにやってんだ……?」
人の食えない男の狂態にリヴァイも驚いたが、エルヴィンのそれは比ではなかった。どこか恐怖すら見て取れる表情に、巨人を前にしたわけでもないのに身構えた姿は、さながら死角から弾丸を受けたかのような反応である。少しの重たい沈黙の後、エルヴィンはいつもの冷静さを取り戻すと、サッと身なりを整えて教室から出て行った。他の面々は首を傾げてリヴァイを窺う。が、リヴァイだって意味がわからない。なので早々に忘れてしまった。
「さっきさ、何かあったの?」
ハンジと二人きりになったタイミングでそう訊ねられ、リヴァイはそこでようやく「自分が作った拘束具をハンジが身につけていたらこの関係が露呈する可能性がある」と気づいた。
「……なんでもない」
「ふうん?」
そういうわけで、結局もどかしくも現状を維持するにとどまったのだった。
さて、本日もアルバイトが終わる時間に、ハンジの働くコンビニまで出掛けるリヴァイである。迎えに行くことが二人の習慣になると、皮肉にもこれが確実にハンジと絡める機会になった。リヴァイはすっかり日の暮れた道を歩きながら、ポケットの中でぎゅっと手を握る。
昼休み、たまたま誰もいなくなった教室でハンジに触れた手だ。細っこい指に強引に己のそれを絡めると、ハンジは照れて困ったようにしながらも微笑んだ。受け入れられたと嬉しくなったリヴァイは、そのまま薄くとも柔らかい体に身を寄せて――。
いきなり教室に飛び込んできた同級生たちに心底驚き、ハンジに渾身の頭突きを喰らわせてしまった。痛みに呻くハンジの声と、それを見た周囲の笑い声に包まれて、二人の時間はあっけなく終わってしまったのだった。
口中に広がる苦味を、リヴァイはぐっと飲み下す。ハンジには可哀想なことをした。何より、折角の触れ合う機会だったのに。今夜二人で夕飯を食べたら、あとはずっと膝枕をして額を撫でてやろう。ハンジがまた逃げようとしても額のタンコブがいい理由になる。
コンビニの入口が視界に入る位置に来たところで、リヴァイは電柱に身を隠した。ハンジに聞いたところでは進撃中の後輩数人も同じコンビニで働いてるらしく、しかもシフトも同じだという。リヴァイがここにいることに何を言われても眼光一筋で黙らせる自信はあったが、なるべく面倒は避けるべきだ。
寝るまでのハンジとの時間をより多く確保したい、どれくらい一緒にいられるだろうか、とリヴァイが腕時計に目を落とした時、明るい声が聞こえてきた。
「ハンジ先輩よぉ、給料出たんだから何か奢ってくれよ」
「何言ってんの? 私はいまだかつて人に奢ったことなんかないよ?」
ハンジは、一人ではなかった。
「ほーうっ? 俺にそんなことを言うのか? ちょっとあの事が口から出ちまうかも……」
「フレェェェゲル君っ! そのことは何卒よしなに! よしなに!」
「ん~あんた次第だなぁ」
リヴァイではない人間の、手を握っていた。
「うわっ、ちょっ、君の手のひらベタベタなんだけど……」
「ドーナツ喰ってたしな」
「バイト終わりからここまででいつ食べたのさ……ていうか洗いなよ!」
その手が、他人の肌によって、汚れて――
「ハンジ」
呼ぶ声が自分のものだと気づいた時には、リヴァイの身体は、アスファルトに落ちた丸い光を通り抜けていた。
「あ、リヴァイ! お待っ……じゃなくて、すっごい偶然だねぇ! どうしたの?」
「偶然じゃないだろ」
殊更大げさな口ぶりのハンジを、リヴァイの冷たい声が一閃する。秋の夜のうす寒さが瞬時に首までのぼってきて、ハンジは上げかけた片手を力なく下ろした。
後ろのフレーゲルを窺うと、彼特有のソバカス顔と丸い瞳が訝しげにリヴァイとハンジを見ている。リヴァイにはフレーゲルが見えていない、わけがない。ハンジからアルバイト中の話も聞いていたので、彼を知らないはずもなかった。
「迎えに来た」
「えっ?」
ハンジは慌てた。慌てた頭で、状況を切り抜けるための算段を咄嗟に弾き出した。
「あっ……もしかして借りてたお金の取立て? 今日はお給料日だしね!」
「返したり奢ったり忙しいな、あんた」
「うるっさいよフレーゲル! ていうか奢らないし!」
ハンジが勢いよく振り向く。と、見通しが良くなったリヴァイの視線を受けて、フレーゲルは一気に血の気を失くした。彼は自分がリヴァイに〝敵〟と認識されていることに、すぐさま勘付いたのだ。
「あ〜ハンジ先輩、奢るのは今度で良いっすよ……」
オドオドしながらも自分の欲望は慎まないフレーゲルを、いつだったかハンジが「大物になりそうだよねぇ」と称したことがある。思い出し、リヴァイはまた苦い気分になる。
「帰るぞ」
手を差し出すと、ハンジは八の字の眉のまま当たり前のようにそれを握った。リヴァイの心はたちまち簡単に浮き上がった。
そうだ。誰の目があろうと、困惑していようと、手が汚れていようと、触れることに躊躇などしない。してはいけない。
瞠目するフレーゲルも、俯くハンジも、合わさった手のひらのペタリとした感触も、全てリヴァイとハンジの繋がりをなおさら強調するものでしかなかった。リヴァイは重たくなった片腕を引いて歩き出した。
コンビニから帰る道すがら、二人は混ざり合った靴音以外いっさいの音を発しなかった。
ハンジを肩越しに窺ったリヴァイは、ツナギの胸元を握ってうつむく顔に、気まずく口を閉ざす。熱く滾った頭が夜風で冷やされたのか少しだけ落ち着いて、リヴァイに自省の機会を与えた。先ほどのアレは、正否の判断は別として考えなしの行動だったことは認めざるを得ない。なぜなら、ハンジの顔を曇らせてしまったからだ。
ハンジの沈鬱な表情は、それだけでリヴァイをひどく疲弊させた。どんな時だって、賑やかに穏やかにそばにいてくれるハンジを、いま憂いに落としているのは誰でもないリヴァイなのだ。心に引き摺られ、身体もどこか怠くなる。立って歩けているのは、ひとえに右手でしっかと包み込んだ小さな手のためだ。
けれどそれも、二人の部屋の前で離れた。ハンジが緩く腕を振ったのだ。離されて宙を掻く己の手に、リヴァイはとうとう、我慢ならない憤りを突きつけられる。
「ハンジ、バイトやめろ」
「え!? な、なんで?」
「俺が貸した金のためなら、まず出て行く金の見直しをしろ」
「そんなのムリだよ! ていうかそれ辞める理由の説明になってない!」
言われてみればそうだ。生活改善の勧めを一蹴された点については話し合うべきだが、と考えたところで、腹の底からつたない激情が牙を剥く。
(クソまどろっこしい……!)
「ならはっきり言ってやる。お前が俺のこと避けるからだ」
「……! 避けてない!」
指摘した瞬間、ハンジが身体の前で両の拳を握った。防御の意識だ。リヴァイ相手に、身を守る姿勢をとったのだ。その表情がジワジワと焦りに染まっていく様も、さらにリヴァイの怒りに火をつけた。
「いいや避けてるな。バイトがあるから、じゃねえ。避けたいからバイトしてんだろ」
「うぐっ……!」
レンズの向こうで大きな眼が歪む。リヴァイにも正直言いがかりレベルの発言だったが、ハンジは露骨に声を詰まらせた。嘘をつけない反応がいじらしい。そしてそれは今、リヴァイを傷つける刃にしかならなかった。哀切からさらに口撃が止まらなくなる。
「なんなんだてめぇは。飯も朝昼夕一緒に食わなくなったし、布団にも潜ってこなくなった。学校でだって隙がありゃ抱きついて手繋いでベタベタしてきたってのにそれもなくなった! 休みの日だってちっとも部屋に来ねぇ! 掃除の邪魔もしねぇ! 俺にベッタリひっついてベラベラ喋ったり本を読んだりもしねぇ! 前は風呂にだってついて来たがっ」
「うおおおおい! ちょい! リヴァイ君よ!」
「ぁあ!?」
ハンジが大慌てで遮ってくる。リヴァイの切実で赤裸々な訴えは廊下の隅々まで響きわたっていたらしい。あまりに痛々しかったので、五階の寮生が全員部屋から飛び出してリヴァイとハンジを唖然と見つめるほどだった。中には携帯電話を耳に当てたままの者もいる。
「……見せモンじゃねぇぞ!」
地を這う声とは、正に。リヴァイの極寒の威嚇に足を捕まれまいと、聴衆は全員すぐさま消えてしまった。もはや言葉だけで散らせるんだな、と感心するハンジにも、いよいよ絶対零度の命令がくだる。
「テメェも部屋に入れ、ハンジ。俺の部屋に、だ」
「っでも、」
「ここで二戦目おっ始めようってのか? 俺は構わねぇが」
汚れに対して以外では存外温厚、手が出るときこそ容赦ないが根は静かな性質を持つリヴァイが、いつになく怒っている。ゴロツキメンチ切りは過去最高にキレッキレで、青灰の瞳は灼熱に燃えさかっている。
ハンジに向かって。ハンジのせいで。
「わかったよ……」
ハンジは失敗したのだ。ハンジの行動が、リヴァイの逆鱗に触れてしまった。いいや違う、リヴァイを傷つけてしまったのだ。
(……上手く、やってたつもりだったんだけどな)
部屋に入ると、小さなちゃぶ台に夕飯の用意がされていた。箸も椀も取り皿も湯呑みも二つずつ。
ハンジの退路確保の意思は、それで完全に萎んでしまった。
「とりあえず……」
二人で並んで手を洗ってから、台を挟んで向き合う。リヴァイはどっしりと胡座をかき、顎を引いて上目遣いでハンジを睨んだ。ハンジは正座の下に重ねた足をモジモジと動かし、痺れるのかやはり姿勢を崩した。
「……何から話すべきだ?」
「私がリヴァイを避けてる理由?」
「やっぱり避けてんじゃねぇか」
語気を強くするリヴァイに、けれどハンジは慣れたものだった。逃げはしないが一方的な尋問も受けるつもりはないことを示すように、「それよりまず」と切り返してくる。
「さっきの、コンビニ前でのアレは何? リヴァイ、今まで私たちのこと隠そうとしてたのに、どうして急にあんな態度とったのさ」
提示した論題を当たり前のように蹴飛ばされ「なんてやつだ」と思うが、ハンジが溌剌な負けん気をまとって向かって来たことで、リヴァイのメンタルも鋼の硬度を取り戻した。
「知るか。衝動でやった」
「えー…ちょっとぉ……」
他に言いようがなかった。リヴァイのことは避けるくせに、なんの衒いもなく他の人間の手を握るハンジが、手を握られたフレーゲルが許せなかった。思い出すとまたムカムカしてくる。唐突に噴き出しそうになる激情を、拳を固めてやり過ごす。
「……もう、他の奴に無闇に触るようなことはするな」
危うくリヴァイの制御を逃れそうになる、このどうしようもない気持ちはなんなのだろう。腹の底に黒く凝って、轟いて、燃やしても燃やしても消えやしない。
この不可解なエネルギーを、他を焼き尽くすほど大きくするのも、心を温める熾火にするのも、目の前のハンジだけだ。ハンジしかいない。わかっているのはそれだけだった。それだけはわかっていた。
「……リヴァイは、さわっていいの?」
「俺にはいつも触ってるだろ」
ハンジは、違う、と首を振る。
「そうじゃない。私はリヴァイ以外にはさわっちゃいけないのに、リヴァイは他の人にさわっていいんだ?」
ハンジの声に硬さを聞き取ったリヴァイは、弾かれたように顔を上げた。
「? なに怒ってんだ……?」
「怒ってない」
明らかに棘を含んだ語調でいながら、怒りではない、と言い張るハンジの表情は、リヴァイが初めて見るものだった。
「俺が誰を触るんだよ」
「前に、女の子の頭を撫でてた。あと、汚れた手のひらを拭いてあげてた」
歪んだ口から、忌々しげに言葉が放たれる。なんのことかわからないリヴァイの困惑を拾い上げるように、ハンジが「他校の、進撃二中の女の子」と付け加えた。そこで得心する。
「イザベルのことか?」
答えはない。どうやら正解らしいが、それでもハンジの態度は理解できない。
「アイツは舎弟みたいなもんで」
「私も舎弟?」
「は?」
次々と投げ渡される要素同士が繋がらず、リヴァイは間抜けな声を上げてしまった。と、顔を背けていたハンジが一度だけ手を強く握って、「リヴァイ」と神妙に口を開く。
「私さ……君にしてほしいと思っていたことがあるんだ」
「なんだ、改まって」
「今から話すけど、その……もしも君が、それを聞いて少しでも嫌な気持ちになったら、」
ハンジが、静かに顔を上げる。
「くっついたりするのは、もう……今日で、終わりにしたい」
「……!」
この瞳に宿るものを、リヴァイはよく知っていた。リヴァイがいつだって眺めることしかできない、ハンジが飛び立つ瞬間の横顔が持つものと同じ。固い意思だ。
「……いいだろう」
ハンジは今、飛び立とうとしている。そして、リヴァイにも手を差し伸べている。どこへ行くのかはわからない。知ったとして、共に行けるかもわからない。けれど決して、決して嫌な気持ちなんて感じるはずがなかった。リヴァイは言葉を待った。
ハンジの願いが、ついぞ音になる。
「私、リヴァイに……アマガミしてほしいんだ……!」
その声は、部屋中に鎮座する物ものに、染みるように消えていった。だからリヴァイはもう一度聞き直さなければいけなかった。
「…………悪いが、もう一度」
「あ、アマガミを! してほしいって言ってるの!」
言いきったハンジは、ふう、と息をついて、先ほどの気勢あふれる表情はどこへやら、判決を待つように目を閉じた。同様に、その唇が、きゅっと締められる。濃い色のそこが小さく震えているのは、リヴァイの答えに怯えているからだろうか。
答えようにも、訳がわからないのだが。
(アマガミ……?)
甘噛み、雨神?
急速回転で記憶を探っていたリヴァイは、直近でその単語を耳にしたときの状況を思い出した。
確か、調査団に入部した活きのいい一年生が、何かの折に巨人に挑み、当然のように返り討ちにあって、その時——
「つまり、お前をしゃぶれってことか?」
いかにハンジの突飛な行動に慣れているとはいえ、さすがにこの時ばかりは、リヴァイも思考を真っ白に脱色させる他なかった。
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