犬になりたい
ハンジの犬になりたいリヴァイの話
犬になりたい
ハンジの犬になりたいリヴァイの話
プライドというものは、人生のどの時点で形成されるのだろう。
時を戻せる術があるなら、リヴァイはそれを手に入れたかった。時計の針を逆に回して、それはもう力一杯回して、このチョモランマ級のプライドがまだ小石ほどの隆起だった頃に戻り、あらゆる手を尽くして掘り返すのだ。
もしもそんなことができたなら。
自分はあの女の、犬になれたかもしれないのに。
「チーフ! さっきの資料メールで送ったので確認おね」
が、と続くはずだった声は、床にぶつかった爪先の音で消えた。
リヴァイは振り向きざまに手をのばし、伸ばした先がどこかを確認することもなく女の体を掴んだ。
「……社内では」
「走らない……申し訳ありません」
リヴァイの手は、倒れかけた女の腹を間一髪のところで抱えていた。
嘘だ。
正確に言えば腹ではなくて鳩尾、いや下乳のあたりで、膨らみの柔らかさにも下着のワイヤーの固さにも肋の浮き上がり具合にもびっくりしたリヴァイは、ことさら仏頂面をすることで驚愕を遠くに蹴り飛ばした。
女は小声で「やっべぇ」と呟きながらギクシャクと体勢を立て直していたが、それは上司の目の前で失態を犯したこと以上の何かを含んでいるものではなかった。
リヴァイは安心した。昨今のセクハラ問題は深刻だからな、と。そして落胆もした。こいつ目の前の男を石の像かなんかと思ってるんじゃないか、と。
気を取り直し、力を込めて眉間に皺を刻む。
「ゾエ、お前はなんでいつもそうドタバタしてるんだ」
「ごめんなさい。チーフお忙しいでしょうから慌てちゃって。ちょっと目を離したらすぐいなくなってるし」
馴れ馴れしさと素っ気無さとを感じる、ちょうど境い目のような言い方だった。この女は上司のリヴァイに向かっていつもそういう距離の取り方をする。リヴァイはリヴァイで、その馴れ馴れしさの方にふらふらと誘われていつだって言わなくてもいいことを言ってしまうのだ。
今日もそうだった。
「すぐいなくなるのはお前だろうが」
「えっ、そうですか?」
女の「まったく覚えがない」という顔が腹立たしくて、同時に眼鏡のブリッジが鷲鼻の丘を下に向かって少しすべっている様子がおかしくて、リヴァイは口中で「クソメガネ」とこぼしていた。
女の名は、ハンジ・ゾエという。
初めてその名前を見た時、リヴァイは漠然と「知っている名だ」と思った。採用面接の様子をパーテーションの影から覗き、担当者をビビらせながら彼女の横顔を見つめ、「どこかで会ったことがある」と確信した。
その確信はリヴァイだけのもので、部下となったハンジはリヴァイのことを知らなかった。
ハンジは有能で、探究心旺盛で、夢中になると暴走する癖があって、変なところがクソマジメで、クソマジメ故に生き辛そうなところのある女だった。ハンジのミスを被り、ハンジの努力を褒め、ハンジの功績を喜ぶ過程で、リヴァイは彼女についてさまざまなことを知った。知ったそばからそれは体と心によく馴染んだ。
けれどやはり、リヴァイとハンジは過去に因縁があるわけでもない、ただの他人同士だった。
二人は順当な時間と努力で距離を縮めたが、その距離はあくまで上司と部下としての距離だった。
「他部署の同期に言われたんです。『あんたチーフのこと必死に追いかけて、まるで飼い主を追う犬ね』って」
「お前いじめられてるのか?」
「あの、笑い話なので。髪型とか尻尾っぽいし……」
ハンジはそう言って自分の頭を指差しながら笑ったが、他人の犬に例えられる話のどこが笑えるのかリヴァイには理解しがたかった。
バカ言っちゃいけない。人に犬として扱われて、あまつさえ喜ぶなんてしたら、それはもう立派な変態だ。
「少しも笑えない」
『犬』という単語に意表を突かれたことで、リヴァイの余裕は完全に冷え固まっていた。無意識に口から飛び出たナイフのような台詞がハンジを真正面から刺したと気付いた時には、諸々がもう色々遅かった。
「あの……申し訳ありません」
「いや、」
「メールの確認、よろしくお願いします」
そう言って去っていく背中を犬のように追いかけたいのは、誰でもない、リヴァイ自身である。
リヴァイはハンジ・ゾエの犬になりたかった。決して性的な意味ではなく。
誰にも言ったことはない。本人がどう思っていても、その欲望が世間一般的に変態のレッテルを貼られるものだとは痛いほどわかっていたからだ。人を選びに選んで相談したって、優しい目でそれ系のクラブか精神科医を紹介されるのがオチだろう。そんなものはいらない。
ただあの女の、毛皮を甘くかきわける手が欲しい。
リヴァイ自身は犬を飼ったことはない。
子どもの頃、近所に老婆が住んでいて、老婆に合わせて作られたような老いた犬を飼っていた。四本も足があるのにリヴァイが歩くよりも遅いスピードで歩くその犬は、散歩に出ると3m進んでは立ち止まって老婆と顔を見合わせるという光景を毎日繰り返していた。
犬は不思議だった。犬といる老婆はもっと不思議だった。
近所の店の中や病院の待ち合い室など犬を連れ込めない場所で見かける老婆は、血の気もなく、温度もなく、動いているのに動きすらなく、幼いリヴァイは死人が歩いているように思えて会釈することもできなかった。
それがどうしたことだろう、心肺停止を疑うような様相だった老婆が自分の犬を目にした途端、頬に血を上らせ、閉じかけていた瞼を開けて、鼻先をあげて待つ彼に近よるにつれ瑞々しく生き返っていくではないか。
当時まだ純粋だったリヴァイは思わず周りを見回して神の存在を探したが、そこにいて光を放っているのは犬と老婆だけだった。
老婆は身よりもなく犬と二人暮らしだったが、犬といる限り孤独を感じさせることはなかった。目も見えなくなった犬に寄り添い、撫で、声をかけ、抱え、犬がとうとう死んでしまったあと、少ししてから静かにこの世を去った。
リヴァイは──ひたすら羨ましかった。
恋を知ってからでさえ「あの関係よりも純で甘いものなどない」と断言できた。
犬だけ、飼い主だけを見てもそれほど強く心を動かされることはないのに、それらが交わり、触れ合い、見つめ合う場面に出くわすと言いようのない焦燥を覚えた。それは焼けつくほどの憧憬だった。
単に犬を飼えば満たされる欲望ではない、と成長するにつれて己の内側への理解を深めたリヴァイは、悩みに悩んで、諦めた。
関係とは、人が二人以上いて成り立つものである。そして二人以上の意思や希望が絡むとき、その関係は必ずしもリヴァイの望みどおりに形成されるわけではない。
「俺と飼い犬・飼い主を演じ合う関係にならないか」
うっかりそんなことを言ってしまったら、ネットの海で見つけてしまった『特殊な意味の犬と飼い主』のことだと捉えられるだろう。
そうではない。そうではないのだ。
曖昧模糊とした欲望を胸の深いところに埋めて、リヴァイは普通の大人になった。
そして、ハンジに出会った。
出会ってしまった。
「お前、犬を飼った事はあるか」
「犬ですか? ええ、子供の時にレトリーバーを……チーフはあるんですか?」
顔合わせの初っぱなからそんな質問をしてしまったリヴァイに、ハンジは戸惑うこともなく笑って答えた。尾を振る犬に向かって、「私もあなたが好きだよ」と返すように。
この女の犬になりたい。
そのとき確かに人としての思慕や性欲になりうる火種も生まれはしたのだが、それを上回って有り余る希求が「ハンジの犬になりたい」だった。
柔らかく綻ぶ茶色の瞳に、リヴァイはそれからずっと、見えない首輪をかけられている。
**
夜も更けたオフィスで、リヴァイの胸中は闇夜よりも暗かった。
ハンジと気まずくなってから三日ばかりが経っている。お互いいい大人なので仕事に支障をきたすようなことはなかったが。
嘘だ。
リヴァイは今日中にあげるべき書類の作成をすっぽりと忘れていた。故に残業だ。初歩的なミスに、目が合うと逸らしてしまうハンジの態度が関係ないとは断言できない。
かといって、この鉄面皮を甘く作り替えてハンジに近づき『この間は悪かった、ちょっと考えたんだが俺がお前の飼い主って最高だよな、逆ならもっといい』とか言えるわけもない。『キツい言い方をしてすまなかった』とすら謝れないリヴァイである。
普通の人間から外れた欲望を痛いほど自覚し、また長年隠し続けたリヴァイは、逆にどこから見ても隙のないよう作り上げた自分に歪んだ自負を持ってもいた。弱みを見せて、相手につけ込まれて、自分も相手を信じきって、いざ積年の想いを吐露した瞬間掌を返されたら。堪ったもんじゃない。
そうして、言動から少しでもこの希求が滲み出ていたら、と怯えるリヴァイが無差別に投げたナイフは、一番欲しい人間を傷つけてしまったのだ。
「死にてえ」
一人きりのオフィスで、思わずとうに過ぎた思春期のガキのようなことを吐いてしまう。リヴァイが本当に犬だったなら、尻から生える尾は踏みつけられたように垂れ下がっているだろう。
なんとか気分を変えようと椅子の上で伸びをしたリヴァイは、シャツの肩の後ろから糸が飛び出ているのを見つけた。千切ろうと手をのばすも微妙に届かず、キャスター付きの椅子が力をかけた方向にまわる。
その場でくるくる回りながらなかなか糸に手が届かないリヴァイは、少しして自分の姿が己の尾を追いかける犬に似ていることに気付いてますます沈み込んだ。
「死にてえ……」
死ぬならいっそ、ハンジに正面きって「俺をお前の犬にしてくれ」と言おうか。
ハンジに冷たい目で見られ、会社に訴えられ、社会的に死んだあと肉体的にも死ぬのだ。いいかもしれない。いやダメだ、ハンジが気に病む。
そんなことをしなくても、恋人になればいいのでは? リヴァイはふと思った。ここから関係が良い方に向かう前提の話だが、男と女として近しい関係になって「俺をお前の犬にしてくれ」と言う。いいかもしれない。いやダメだ、速攻で別れを切り出される。
「……死に」
「そんなに難しい仕事なんですか?」
「!?」
突如として自分の後ろに現れた気配に、リヴァイがしたことと言えば殺気のこもる視線を投げることだった。けれどその視線の先にいたのはよりにもよって──今一番、関係を修復したい女。リヴァイは二度目の失敗を悟った。
「ハン……ゾエ」
「いや、そこまでいったら“ジ”も言いましょうよ」
もはや瀕死状態のリヴァイを気にするでもなく、ハンジは持っていたビニル袋を示し、椅子を持ってきてリヴァイの隣りに座った。鞄から社員用タブレットを取り出しロックを解除する。
「あ、ハイこれ。お夜食です。手伝えることがあったら回してください。チーフが食べてる間にやっちゃいますから」
「いや、お前の手がいる仕事じゃない」
意図せずキツく響いた言葉に「またやってしまった」と思うより早く、ハンジがデスクに夜食を並べていく。
「じゃあちゃっちゃと食べて終わらせましょう! 明日も朝からだし!」
「そ、」
「チーフきのこ大丈夫でしたっけ? 玉ねぎはダメだったからこっちが私でいいですか?」
矢継ぎ早に言葉を重ねるハンジは、何かから逃げているように見えた。何から? なぜ? どうしてこちらを見ない? ああ、きのこはダメだ……。
タスクが重なった時は、まず優先順位をつけること。
リヴァイは一番最初に浮かび上がった疑問を掴んだ。
「お前、なぜここに来た」
ハンジはようやくリヴァイを見た。
その目はあの時と同じだった。甘えようと機会をうかがう犬に、両手を広げるときの、甘い瞳。
よかった。ハンジの眼鏡がなければ即死だった。レンズ越しでなくそのまま見つめられていたなら、リヴァイはすぐにでも跪いていただろう。
緊張と安堵の狭間で揺れ動くリヴァイに、不意に手が伸ばされる。
驚きはなかった。それどころか、細い指先の目指すところが頭であることに気付いた瞬間、体の奥底から沸き上がるものを感じる。
これはそう、歓喜だ。
ハンジの指が、そっとリヴァイの髪を撫でた。
一日過ごして汚れ、くたびれた毛髪をとかすように、優しく柔らかく。
頭皮に集中していた全神経が、こめかみ、頬へと移るハンジの手を追ってざわざわと大騒ぎをする。掌にすり寄ったのはもうほとんど無意識だった。
「……チーフ、なんだか犬みたい」
「……」
「ずっとこうやって、あなたに触れたかった。あなたもそうなんじゃないかって思ってた……」
「……」
「これって私の勘違いかな」
うっとりと目を閉じていたリヴァイから、触れた時と同じ唐突さで手が離れていく。リヴァイは慌ててその手を取った。理性か本能かわからない部分が「行け」と囁く。
勘違いなんかじゃない。ずっとハンジを見ていた。犬になりたいという願いを込めて、ずっと。
千載一遇のチャンスだ。本音を曝けだす、最初で最後の機会かもしれない。針が告白に傾いた瞬間、リヴァイの口は勝手に言葉を紡いでいた。
「俺をお前の犬にしてくれ」
どう伝えれば誤解されないで済むのか。二十年近く考えてきたはずの決め台詞の数々はまさにその瞬間四方八方に飛んで消えた。後に残ったのは純粋な欲望だった。
ハンジ、お前の犬になりたい。
皮肉でばかり口が回るからもの言わず傍にいたい。しかめ面しかできない自分だからつぶらな瞳になってただ見つめたい。四つ脚を存分に稼働させてお前を守りたい。寒い日は震える体を温めたい。暑い日はだれる体を冷やしてほしい。並んで座って夜を見つめて、朝日を浴びながらキスをしたい。
悲しみに添いたい。喜びを分かちたい。疑いも何もなく信頼したい。あなただけは裏切らないと信頼してほしい。
共に生きたい。
死ぬときを優しく見送られ、けれど失くした痛みをずっと心に留めてほしい。悲しんで泣いてほしい。
全部、あのとき叶わなかったことだから。
切望の先に突然、見たこともないビジョンが降って湧く。そしてすぐに消えた。
なんだろう。リヴァイの歴史のずっとずっと下に、誰かの遺跡が埋もれている気がする。そいつも、……その男もやはり、ハンジを求めていた気がする。
疑問はけれど、頬から顎に添えられた冷たい手によってどこかに消えてしまった。
衝撃的な告白を受けたにもかかわらず、ハンジがリヴァイを見る目は優しかった。両手で顔を包まれ、指先で耳の下を愛撫される。
それがハンジの答えなら、大声で泣いてしまえるかもしれないと思った。
「泣かないで……なんでもしてあげるから。あなたが私にしてあげたいって思ってること以上に、大切にしてあげる」
無理だ。
求めていたたった一人こそがリヴァイの変質を許してくれる事実を、どうして何もなく受け入れられるだろう。とうとう眦から溢れた粒を拭うこともせず、リヴァイは濡れた瞳でハンジを見つめた。
静かで、温かさをまとい、己を愛する飼い主をまた全身で愛している。
そんな、犬の目で。
リヴァイの両の眼がゆっくりと変わっていく様を見つめながら、慈しむように、ハンジは彼の鼻の頭に小さくキスをした。
〈了〉
1 オマケ