オマケ
オマケ
ハンジが生まれて初めて接した"死"は、飼い犬のレトリーバーのものだった。
ハンジが誕生する以前からゾエ家で暮らしていた彼女は、赤子のハンジが四足歩行を止めて二本の足を使いこなせるようになるとすぐにケージから放たれ、起きている時間はずっとハンジのことを守り続けた。
ハンジが珍しい虫を追いかけて急な土手を転がり落ちたなら、咥え掴んで上まで引っ張り上げ、近所の悪童の投げた石が運悪くハンジに当たったなら、低めた頭に牙を剥き出して唸りだす。彼女はさながらハンジの騎士だった。
彼女が死んだのは、ハンジが十二歳の時だ。
夜中に突然目が覚め、水を飲みに階下へと下りた時、そこで動かなくなった彼女を抱いてしとしとと泣く母親の姿を見つけた。スクールで気の合う友人と出会い、遅まきながら家族以外への社会に溶け込み始めたハンジが騎士の力を必要としなくなり、それと入れ替わるようにして彼女が病に臥せった、そんな矢先のことだった。
「どれだけ尽くしても、きっと『充分やった』と思えることなんてないのよ」
彼女を埋葬する時、母がくたびれた頬と泣き腫らした目でそう言ったのを、ハンジは今でも鮮明に覚えている。目も開いていなかった子犬の彼女を家に連れてきたのも、病気になった彼女の世話に一番心を砕いていたのも、彼女の最期を看取った唯一の人も、母だった。
彼女と出会ってから共に過ごした日々は、母の胸にできた喪失の空洞を、──これからも深さを増していくだろう空洞を──果たして、埋めきれるものなのだろうか。自分の悲しみのどこか遠くで、ハンジはそんなことを考えていた。
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「うん"っ」
なんとも不自然に響いた咳払いに、ハンジは反射的に顔を上げた。
真白いクロスに覆われたテーブルの上に、まろい光沢を放つディッシュ、極限まで磨かれたカトラリー、艶々と眩いグラス、そこに注がれた食前酒。それぞれ二組ずつ。煌々と輝くそれらの反射を受けながら、向かいに座るリヴァイがさっと目を逸らした。
「…………こういう所は、苦手だったか」
「えっ?」
言われて初めて、二人が腰を下ろす席から店内を見渡す。街の中心に立つ高層タワーのいっちばん値の張るレストランで、ハンジの半月分の給料ほどはするんじゃないか?というフルコースが運ばれてくるのを待っているところだった。
「あ、そうですね。庶民なので……こういう高級な店はちょっと、初めて」
質問に答えただけなのに、リヴァイはほんの少し眉根を寄せてハンジを見返した。
「ーー『二人でいる時は、』」
遅れること数秒、ハンジもやっと彼の言いたいことを察する。
「『敬語はなし』、ね。ごめんごめん、職場での癖が抜けなくて……許してよ、リヴァイ」
「別に怒っているわけじゃない」
すかさず飛んできた台詞は、ハンジがリヴァイの部下として働く職場では決して聞くことができない、あからさまな焦りを含んだものだ。
わかってるよ。
内心苦笑しながらも、それを表に出すヘマなどハンジはしない。こういう、彼が意図せず漏らしてしまう感情こそ、いっそ聞かなかったフリをしなければならないのだ。
「……心配事でもあるのか」
「ん? どうして?」
「上の空だっただろう」
リヴァイの両の瞳に、火を入れたように灯りがともる。ちらちらと揺れるそれが返答次第では燃えるほど熱くなることも、逆に凍えるほど冷たくなることもハンジはよく知っていた。思わず嘆息しそうになる。
心配する必要なんてこれっぽっちもないのに。
私が彼の元から離れるなんて、これから先も絶対にありえないのだから。
「……そっち、行ってもいい?」
「は?」
円を描くテーブルの縁に沿って、ハンジは椅子を引きずってリヴァイの側に近づいた。腕が触れ合うほどの距離まで。
リヴァイは目を見張ったが、視線がテーブルの周りではなくただひたすらハンジに向いている時点で体裁など露ほども頭にないのは明らかだ。ハンジが肉薄するのに合わせて、その喉がぐっ、と上下する。
「っなんだ?」
「あなたを見ていたら、昔飼ってた犬のことを思い出したんだ。彼女は私の親友だった。でも彼女は私に己のすべてを見せようとはしなかった。それを引き受けていたのは、私の母だったんだ」
犬、という単語にひくりと浮き上がったリヴァイの肩から腕を、ハンジは慈しむようになでおろす。
無償の愛が存在するというのなら、たぶん、母が彼女に施したものもそれだったのだろう。食事も排泄も病気もなにもかも、犬の肉体にまつわるあらゆることを母は引き受けていた。汚れることさえ厭わずに。死に別れる時「もう十分だ」と思えないほどに、それを幸せだと感じていた。彼女も母にだけはすべてを許していた。
彼女は正しく母の犬で、母は正しく彼女の飼い主だった。
「リヴァイ……キスしてもいい?」
「お前は、本当にいちいち言動が突飛だな」
彼の返しは冷たく響いたが、耳の先から続く皮膚があっという間に赤に染まっていく光景はまったく別の真実を示している。ハンジは眼鏡を外し、顔を傾けてリヴァイに唇を寄せた。リヴァイも自然な動作でそれに応え、ゆっくりと瞼を下ろすハンジの瞳を最後まで追い続けた。
あなたのことが好きだと気付いた時。
あなたに回りくどい愛の告白をされた時。
死に別れる悲しみさえ誰にも渡したくないと、そう思ったんだ。
あなたが自分自身で嫌う汚れさえ。
どれだけ尽くしたとしても「十分やった」とは思えない飢えさえ。
あなたの喪失が遺していく空洞さえ。
全部全部、私のものだ。
見えない首輪を探して触れたハンジに、リヴァイの手が重なる。
二人の肌と肌が触れ合う場所には、誰にも理解されることのない歓びが、確かに存るのだった。
〈了〉
1 オマケ
(初出 16/11/28)