偶然の水、必然の蜜 …原作/リヴァハンが雨宿りする話
偶然の水、必然の蜜 …原作/リヴァハンが雨宿りする話
断続的だった小さな音たちが一つの大きな音楽になる頃、私とリヴァイは揃って走り出した。
ぬかるみ始めた足元を器用にかわしていく彼とは逆に、慣れないブーツのヒールを覚束なく制する。
雨粒が眼鏡のレンズに留まって視界を妨げ、私の足をさらに遅くした。
そういえば、壁外で使用するゴーグルには撥水用のオイルを塗っていたんだっけ。
(ゴーグルしてくれば良かったな、なんて……)
自嘲して、両手の荷物の隙間から今日の装いにちらりと目を落とす。秋の始まりを告げる雨が、葡萄色のスカートに容赦なく染み込んでいく。
(私がこんな格好したから、空も驚いたのかな)
雨は応えるように勢いを増した。
ここから近場の建物まで、二人の足で少なくとも三十分あった。抱えている紙袋の中には粉物もある。
さてどうするか、と顔をしかめた私に、リヴァイの行き先を変える声が届く。
林道の脇に、大人一人が通れるほどの隙間が空いていた。否、隙間ではない。足を踏み入れると奥まで続く小道だとわかった。
空は微かに色付いた葉に覆われており、その合間をぬって落ちてくる粒が頬に当たった。
リヴァイは薄暗いそこを迷いなく進んでいく。不安げな私を見たのか、少しだけ速さを落として。
数分も走ると林を抜けた。
雨雲の薄暗さを取り戻した視界に小さな農場が映る。人気はなく、随分前に打ち捨てられたように壁や屋根が破れていた。
灰色の農舎の反対側、抜けてきた小道の右手には、小高い丘があった。
そしてその頂点に、夏も終わったこの季節に濃緑の枝葉を空いっぱいに伸ばした、巨大な木が鎮座している。
「行くぞ」
リヴァイは木に向かってまた走り出した。
雨宿りなら農舎の方が、と言いかけた口は、巨木に茂る葉の密度を見て閉ざされた。
「すごい、雨が落ちてこない」
破れた屋根よりよっぽど雨を防ぐだろう。
「おまけに〝アッチ〟は埃まみれだ」
顎で廃屋を示しながら、リヴァイは紙袋を木の根元に置いた。私もそれに倣う。
「濡れちゃったかな」
「大丈夫だろ。店のオヤジに二重に包んでもらったしな」
私は笑った。リヴァイは学習能力の高い人だ。
「突然の雨にずいぶん慣れてるんだね?」
「……前もいきなり降られた」
その時もここで立ち往生したのだろう。二人が傘を借りるその木は、大人が四人ほど手を繋いでやっと一周できる幹の太さだった。
私の頭の十センチ上、と枝の生える位置は低く、木肌に背を預ければ目の前はほとんど分厚い葉の壁だ。
雨が弱まる気配はない。時間帯が昼だったのが救いだ。まだ本格的に暗くはならないだろう。
べっとりと濡れた上着を脱いだものの火を起すものもなく、私とリヴァイは重たい布を抱えたまま雨音に耳を澄ました。
人っ子一人いない野原に、見据える先を霞ませる雨。夏枯れを過ぎた草花の匂いが辺りに微かに漂っている。暗くて寒くて、間断ない水音だけが騒がしい世界。
肩を冷やすブラウスの生地に、惨めになる。
たまたま非番が重なったから、たまたま要る物があったから、たまたま目指す場所が同じだったから。
積み上がった偶然に内心喜んでいたことなど、リヴァイは知りもしないだろう。らしくない私服で現れた私に向けた、呆れたような表情ときたら!
そうやって二人で兵舎を出た時は、私の心を絵の具にしたかのような気持ちのいい秋晴れだったのだ。
買う物は経費で落とせる類いの物だったが、馬を出すのも気が引けるなぁと呟いた私の言葉に、「歩いて行けばいい」と言ってくれたのはリヴァイだった。
道すがらずっと、馬鹿みたいなことを言い合って、笑って。務めなど忘れた顔でリヴァイの隣にいて。
その結果がこれだ。
浮かれすぎたな。やれやれ、柄にもないことをするから。
「寒いのか?」
肩を抱いていた私に気付き、リヴァイがそっと身体を寄せてきた。
跳ね上がる心臓を「ここにはないものだ」、と抑え付ける。
「ちょっとね……まったく、たまの休みに私が兵服を脱ぐとこれだもの。嫌になるね」
「お前の格好と天候に何か関係があるのか?」
「まあ、気持ちの問題かな。『慣れないことをすると不幸に遭う』という、悲観的な思い込みの一種だよ。でもそういうの、意外とない?」
「……不幸」
「内地にそういった経験則や法則をまとめて本にした人がいてね。彼の名前を取ってマーフィーの、」
「不幸、な」
リヴァイの声が低く落ちたので、私は口をつぐんだ。空気が重さを増したことも肌で感じ取れたが、原因はわからない。
「私がスカートを履くと雨に降られるんだよ? 笑えない?」
「……そうだな。笑えるな」
リヴァイの声音は少しも賛同などしていなかった。濡れた黒髪が目元と気持ちを隠してしまっている。
せっかく二人でいるのにね。こんな風に湿って重い空気で。
悲しいな。私には、二人には、滑稽でいる以外のやり方もないのに。
「雨がお前のせいなら、雨宿りは俺のせいだ」
リヴァイが小さく言った。何のことかわからず、一瞬呆けてしまう。
「え、もしかして馬のこと? あれは、」
(私がぼやいたからで……)
長い道のりの途中で天気が変わる可能性を、リヴァイは経験から知っていたはずだ。
それでも私に合わせて、歩きで……。
ふ、と疑問がさす。リヴァイは学習能力の高い人だ。
「……傘、持ってこなかったんだね」
ヒクリと、リヴァイの手が揺れた。
いつの間にか傍にあったそれが、揺れた拍子に私の脚に当たる。
リヴァイ? と呼びかけると、応じた彼が顔を上げた。
その瞳が、雨に閉ざされた世界で、真夏の太陽のようにギラギラとしている。
私は呼吸を忘れた。
「——許せ、ハンジ」
腕を引くリヴァイの掌は熱かった。
冷えた身体の奥の小さな泉に、火種を投げ入れるほど。
離れた唇が罪を告白する前に、私はそっと眼鏡を外した。
望んでくれるのなら、どうかもう一度触れてほしい。
目を閉じて聞く水音の甘さも、二人には遠く。
〈了〉
(初出 15/11/27)