欲と愛と
男性不信のハンジとそれを凌駕するリヴァイの話
欲と愛と
男性不信のハンジとそれを凌駕するリヴァイの話
私、何度か遺体の解剖に立ち会ったことがあるんだけどさ。
あなたがここに来る前の話ね。〝あの子たち〟は体の中も人間に似ているのかなって疑問に思って、後学のために。まあその時は壁の内側に連れてこようなんて思ってもなかったんだけど……そう、それで。
――台の上の遺体は、既に衣服を剥がされていた。解剖医がメスを執り、慣れた手つきで一枚一枚、一つ一つ、一人の人間が纏うものを取り去っていく。
皮膚。筋肉。神経。骨。内臓。
体が変わってもその並びが変わることはなく、人間を構成する要素はこんなにも複雑で、こんなにも普遍的なものなのかと当時は驚いたものだった。
そうしてその小さな衝撃は、今も確かな実感としてハンジの中で息づいている。
ところどころに染みがにじんだ書を閉じ、黄ばんだ背表紙の並びに戻す。兵団内部のさまざまな刷新のたびに不要となってきた文字と紙の山々は、ハンジとリヴァイがいる資料室の中で、ひたすら朽ちていくことに時間を費やしている。
隣りに立つリヴァイへと目を向けると、彼は本棚に背を預けたまま、ハンジが再び語りだすのを待っていた。先ほどまでの、この男にしては随分固くこわばったものに比べれば、その表情は困惑を含んでいるぶん柔らかくなったようにも見える。
特異だ異常だなどと言われる男にも案外あどけない一面があったのかと、特に感慨もなくハンジは思った。
けれど、そんな一面を持つ彼さえ、
「切り開けばみんな一緒なんだなぁって思ったんだよね、その時」
「……そりゃ、なんだ。つまり」
リヴァイの反応は鈍く、歯切れが悪い。
「お前にとっちゃ、死んじまえばどいつも同じってことか?」
「そうだけど、もっというと生死も関係ない。特異な力を持ってるあなたも肉体そのものは普通の人間と変わりがないようだし、切り開いてみれば、」
「つまり、お前に決まった相手はいねぇし、作るつもりもねぇってことか」
食い気味に言い渡された、ひどく飛躍したその結論に、ハンジは一瞬虚をつかれた。それからこの会話のそもそものきっかけである、リヴァイのとある問いを思いだした。
――『ハンジお前、決まった相手は……男はいるのか』
そこでようやく、一つの可能性に思い至る。
「もしかしてリヴァイ、私の『決まった相手』になりたいのかい?」
唖然。
を、かたどった顔は、しかし瞬時に背けられた。ハンジとは反対のほうへ向かったそれが、わざとらしい舌打ちだけを投げてよこす。納得するにはほど遠い応えだ。ハンジはさらに詰め寄った。
「私と寝たいってこと?」
「この……少しは慎みってもんを覚えろクソメガネ」
「自分では言葉にせずまわりくどい聴き方をして、言葉にされたら慎みがない? 冗談だろ」
リヴァイが胸の前で組む腕に手を伸ばし、その筋張った甲に触れる。わかりやすく跳ねる肩に反して払いのけられはしない。太く浮いた血管に指を這わせながら、ハンジは少し下にある小さな耳に唇を近づけた。
「私とシたいってこと?」
「やめろ」
「あれっ」
拒絶は予想外だった。一気に緊張した全身の筋肉と逸らされたままの顔、じわりと色を変えていく肌はまったく逆の反応を示していたので尚更だ。
ハンジは、リヴァイの皮膚に触れつづけている己の指先を見つめた。接触を許しておきながら、彼はさらに言う。
「俺は……違う。それだけが目的じゃない。お前が……お前を、」
『それだけが目的じゃない』のなら、それも目的に含まれているということだ。
いくら言葉を重ねたところで、ハンジにとってそれ以外はさして重要じゃない。
リヴァイは何をお高くとまっているんだろう。疑問が苛立ちへと変わっていく。答えは目の前にあるのに、他人のせいで得られないという状況がハンジを煽りたてる。
「そっか。話は大体わかったよ」
「なにが……っオイ」
ハンジはリヴァイのすぐ目の前に立つと、その場で膝を折った。そして時と場合によっては躊躇なく蹴りを振るう彼の、曰く『蹴りやすい高さ』に跪く。
「オイ待てクソメガネ、てめぇ何するつもりだ」
「嫌なら止めなよ」
リヴァイがハンジの額を掴む。しかし素直に「痛い」と訴えると、拘束は途端に弱まってしまう。
「心配しなくても、酷いことなんてしないから」
いつもよりもずっと微かな笑みを作り、今度はその腿に指を這わせながらリヴァイを見上げると、驚愕、困惑、そのなかに確かな色を差し込ませた瞳がじっと見つめ返してくる。視線を交わしたまま、ハンジは筋肉の張った両脚のあいだに、ゆっくりと唇で触れた。
「……っ!」
跳ねた体を押さえ込むように、男しか持たない隆起をそのまま愛撫する。額に再び力がかけられるが。拒絶の気配はもうほとんどない。
優しいその手に自分のものを重ね、頬を包ませるように導いてやると、自ら動いて撫でようとさえしてくる。ハンジは温かい掌に擦り寄り、甘さのお返しに膨らみを増した部分へと軽いキスを贈った。
「……っ」
「動かないでね。大丈夫、ちゃんと気持ちよくしてあげる」
「てめ、よせ、」
リヴァイの眉間がきりきりと狭まり、引きずられるようにしてその表情も変わっていく。怒りでも侮蔑でもなく、見る側が切なさを覚えるような哀切へと。ハンジの体の芯がすう、と冷えていく。
(……そんな顔するなよ)
こんなの、たかが欲望の排泄じゃないか。
そうだろう?
ちゃんと気持ちよくしてやるから、いつもみたいに大人しくしてるんだぞ。
一度だけ、瞼を下ろす。
幻聴が幻覚にならないように。
右と左、どちらも指を絡ませるように彼の手を握って動きを留めると、ハンジは唇と舌だけで欲望の兆しに触れはじめた。
リヴァイは顔を逸らし目をきつく閉じていたが、ハンジの歯と唇で兵服の戒めが解かれていくのを止めようとしなかった時点で、これからの行為を受け入れているのと同じだった。ハンジの与える刺激に確実に熱と芯を増やしていく場所など、受け入れるどころか受け入れられたがっている。なのに、彼ときたら。
(頑なだなぁ)
衣服を掻き分け、とうとう熱源が顕になる。すでに半分ほど勃ち上がったそれを掬うようにして舌で持ち上げ、離す。丸みを帯びた先端にいくつもキスをして、また離れる。欲が噴き出す予定の窪みに舌先でくすぐりをかけ、やはり、離れる。
子供じみたイタズラにすぎなかった。それでもリヴァイは、く、と口の端から空気を漏らして、実に憎らしげにハンジを見下ろしてくれた。にんまりと笑って返す。
「やっとこっち向いてくれた」
「……」
「ねえ、リヴァイのここ……すっごく濃いにおいがするよ。体臭なんてないような人だと思ってたのに」
屹立を避けて、根元に鼻を近づけ、くすん、と鳴らして見せる。それから恥じらいをまとって言う。
「男の人のニオイだね。……ドキドキする」
「――ハンジ」
リヴァイは表情の厳しさを変えないまま、わずかにしか陽の当たらない室内でもわかるほど肌を赤くした。己の性を注視されたのがよほど嬉しかったらしい。
男にはそういうところがある。自分は蹂躙する側だと、無垢にも信じきっているからだろうか。
(……吐き気がする)
胸の内に湧くものを誤魔化すように、ハンジは亀頭を口に含んだ。
「っ!」
歯を立てないように慎重に、たっぷりと濡らした舌で舐め回す。唾液が口から溢れそうになったところでじゅっ、と音を立てて吸い上げると、目の前のものは顔を動かしやすい角度と固さで次を待ち望む姿勢になった。
上目遣いでリヴァイを見るが、彼の顔は眼鏡のレンズの外に行ってしまっていた。口に含むまで肉薄すると、彼のこまやかな表情はますます窺えない。そのことを残念に思い、かわりに握ったままの両手に軽く力を込める。リヴァイは、わずかにだが握り返してきた。
ここまでくればもう簡単だ。彼の体内で煮えたぎる欲望に向かって、「こっちだよ」と手を振ってやればいい。
それまで舐めるだけに留めていたものを、ゆっくり、ゆっくりと喉まで飲み込んでいく。行き止まりまでたどり着きまた顔を引く過程で、頭と胴の境目に舌を這わせ、唇をすぼめて段差をひっかけるように優しく締めつける。リヴァイの脚がピクピクと敏感に跳ねたおかげで、ハンジは彼の好む場所をたやすく見つけることができた。いきなりそこを攻めることはせず、優しく、緩く、愛撫をくり返す。
直接的な刺激はもとより、視覚と聴覚への刺激にはやはりリヴァイも興奮するらしい。
なるべく顔をあげ、劣悪な視力なりにリヴァイの眼がある辺りを見つめて、ちゅる、じゅぷ、とあからさまな音を立てて口腔で扱くと、男根はあっというまに先走りを滲ませた。上方から降ってくる吐息も急速に乱れていく。顔を左右に傾けながら何度も抜き差しをし、彼の腰がうねるのに合わせて動きを速める。ハンジはリヴァイを悦ばせることに夢中になった。
「はぁ、くそ……ハンジ」
名を呼ばれたので、交差させたままの手指に力を込めた。不鮮明な世界の中でも、リヴァイの眼がハンジを見ていることがわかる。
「ハンジ」
また、ぎゅ、と手を握り、緩める。すると、今度は強く握り返された。
口の中のものは苦しそうに震えて破裂の予感を伝えていたが、それにしては静かなリヴァイの外面のせいで、ハンジは彼が達する瞬間の見極めに慎重になった。
"男"とは、もっと欲望の誇示にうるさく、自分の状態を伝えることに忙しない生き物だと思っていた。ハンジを拘束して、好き勝手に動いて、ほら、もう吐き出すから、ちゃんと受けるんだぞ、と……
「――ハンジ」
眼鏡のレンズの外から、より一層強い視線を感じた。裸のまなこに彼の瞳の輪郭が鋭く刺さり、存在ごとその場に縫いとめられたような気になる。
途端、出どころのわからない焦りを覚えた。リヴァイに塞がれている口よりも奥、胸に何かが詰まったような、けれど詰まった先からその何かが溶け出していくような不明瞭な感覚だ。ハンジを呼んだ声もいけなかった。掠れた声には、よく知る熱と、全く知らない熱が載っていた。
思考を深いところへ運ぶ前に、ハンジは嘔吐感への恐れすら忘れ、いっぱいに開いた喉奥で勢いよく彼を飲み込んだ。その瞬間。
「ぐっーー!」
「っ!」
繋がっていた手が振り払われ、頭が強く掴まれる。リヴァイの全身が大きく震え、それと同時にぬるつく熱と苦味が奥の穴に向かってしぶいた。青臭さが鼻を抜けていく。
「ぁあ、は」
理性を失った溜息が聞こえる。無意識なのか、リヴァイはそれまでのお利口を忘れてさらに腰を振り立てた。口内の中程まで退いた塊が喉に戻り、退いて、また戻る。押さえつけられたハンジは逃れることもできず、鼻での呼吸を意識しながら抜き差しされる男根からの残滓を受け止めつづけた。
リヴァイが我にかえるまでに、そう長い時間はかからなかった。
徐々に、しかし確実に覚醒した目がハンジを捉え、がちりと固定されていた頭部が突き放されるように解放された。乱暴な動作のせいで綺麗に別れることのできなかった部分がだらしなく糸を引く。
咳き込んだことでさらに汚れた口元をゆっくりと拭うと、ハンジの眦に溜まっていた涙が、ぽつ、と床に落ちた。
「わ、るかった、無理をさせるつもりじゃ」
言いながら膝をついたリヴァイが、珍しくおぼつかない手つきでハンカチを取り出した。しかし触れようとはせず、ただその場でうろうろと手を彷徨わせる。
「使え……吐き出せ。怪我はしてねぇか、どこか……ハンジ?」
その時にはもう、つい先ほどまでハンジの胸中を占めていた苦しさは、水面に出た泡のように弾けてなくなってしまっていた。
別にリヴァイのせいではない。責める気などなかった。元はと言えばハンジが呼び覚まし露わにするように仕向けた欲望だ。
言葉でどれだけ抑制を叫ぼうが、男がそれを我慢できないことをハンジはよく知っている。
なのに、無性に腹が立った。リヴァイを睨みつけ、見せつけるように喉を動かし、ごくり、と彼の排泄物を嚥下する。「オイ」と狼狽える手からハンカチをむしり取り、口を拭う。
「私、言ったよね、『動かないで』って……っゲホ」
飛び出たのは明らかな詰りだった。意図せず転げ落ちた咳がさらにリヴァイを追いつめたらしい。ハンジの前で所在をなくしていた手が、きつく拳を握った。
「すまない」
「ん、いいよ。気持ちよかったんでしょ? よかったね」
「……待て」
ハンジの声音に急速に離れていく関心を感じ取ったのだろう、ほとんど縋りつくような強さで腕が掴まれる。
「今のことは謝るが、誤解するな。俺は……一方的にヨくなりゃそれでイイわけじゃない。お前を満足させねぇと、気が済まない」
「――満足?」
意外な言葉に意表をつかれる。
一度でも吐き出してしまえばそれで済むだろうと思っていたリヴァイの欲望は、ハンジが知るものとは少し違っていたらしい。確かに、自分の手管で女を泣かせることに大層な意義を見出す男もいる。けれどリヴァイがそうだとは予想していなかった。
(にしても、随分下手に出るな)
思わず身構える。最後に破ってしまったとはいえ、最中のリヴァイは「動かないでね」の言いつけを守ってじっとハンジの動きを見つめていたし、粗相したあとも開き直ることなく心配する様子を見せている。演技でないとは言いきれないが、演技が必要な場面だとも思えない。
リヴァイはハンジ一人を動かすために、そこまでの従属が必要だと思っているのだろうか。体のどこかを振るうだけでいとも簡単に人も巨人も地に落とせる男なのに。
そこはかとなく不気味さを感じたハンジは、試しに本棚のあいだの通路を指差した。
「……じゃあ、そこに寝てくれ。仰向けで」
「は?」
「私のこと満足させたいんだろ? させてくれよ、ここで」
掴まれていた腕を引き寄せ、近づいてきた体を抱きながら押し倒す。倒れた拍子に床を這っていた埃が舞い上がり、湿気の臭いが鼻をついた。
リヴァイはたいして抵抗もせずされるがままに背中を地につけたが、そこが汚れていることは見過ごせなかったらしい。ハンジの突拍子のない行動よりも不潔に気を取られている。都合がいい。
装備していた立体機動用ベルトの留め具を、パチン、パチン、と一つずつ解除したハンジは、緩んだベルトの一繋ぎを体から抜き去り、空いた手でリヴァイの両手首を捉えた。そこで意図を察したらしい彼がはっと眼を見開く。
「お前、まさか」
「今度こそちゃんと『動かないでね』。リヴァイは何もしちゃダメだから」
交差させた手首をぐるぐるとベルトで囲み、最後に真ん中の谷間で縛る。
「こんなことをしなくても、俺は」
困惑のままの訴えに、ハンジは大げさに頷いてみせた。
「うん、私も信用したい。あなたの言うことだもの。でもね、さっきの今でそれは難しいよ。満足させたい相手を前にあなたは一人で勝手に気持ちよくなっちゃったんだよ?」
それで終わったとしてもハンジは構わなかった。彼の次の望みが、ハンジの〝下〟を使って欲を晴らすことだったとしても別にいいと思っていた。『それじゃダメだ』と引き止めたのはリヴァイのほうだ。
「私を満足させたいんだよね? だったら言うことを聞いて」
リヴァイが抵抗をやめ、ハンジを見上げる。
「聞いたら……お前は満足するのか」
「少なくとも、あなたの言葉を疑うことはなくなるかもね」
疑うことは疲れる。
だからといって、ハンジはもう一対一の約束に盲目にもなれなかった。
何度も惨めな姿にされた。火に焼べる小枝程度の感覚で、あらゆる嘘がハンジの体の上を過ぎ去っていった。
けれどリヴァイなら、きっとそんなことはしない。肉体を切り開けば同じものしか持たない人間ではあるが、リヴァイとハンジの衣服の外側には、短くない時間で培われたしがらみがある。
ハンジの誘惑を跳ねのけずに受け入れ、その上で無体を働き、しでかしたことを悔いてみせたリヴァイのことだ。軽蔑する人間にはとことん刃を突き立てる性格のハンジを、その上さらに煽るようなことはしないだろう。
リヴァイはじっと何事かを考え込んでいたが、やがて無言で力を抜いた。……が、ハンジがジャケットを脱ぎ捨てたことでぎょっとしながらまた頭を起こした。構わずシャツのボタンを外し、胸を覆う下着を捲り上げてズボンに手をかける。
「オイコラ、クソメガネ! 誰か来たらどうすんだ」
脱衣の様子をつぶさに見ていながら、焦った調子で止めるリヴァイがおかしい。ハンジは笑って返した。
「来ないよ。ここは私の場所だもの。あなただって、誰も来ないとわかってたから来たんだろう?」
薄い唇がぐ、と閉じられ、指摘が合っていたことを教える。ハンジは「どっちだっていいけどね」と口角を上げた。見られたって何の問題にもならない。
なってこなかったのだから。
下も脱いで傍に投げ、肝心の部分が見えないようリヴァイの上で四つん這いになる。片手を脚のあいだに伸ばし、自分で自分の秘部に触れる。
「ん、やだな……濡れてる。舐めて濡れたの初めて……」
「……見えねぇからわかんねぇよ」
あからさまな望みを伝える言葉に、しかし気づかない振りで返す。
「だってほら、音がするだろ?」
二本の指で溢れでる液体をくちゅりとかき混ぜると、リヴァイは喉を大きく動かした。表情こそないがわかりやすい男だ。
対してハンジの体はちぐはぐだった。
強引に擦られてようやく滲む程度に潤っていた記憶しかない穴が、誰かに触れられる前からしたたるほどに濡れている。試しに潜り込ませた指も簡単に招き入れてしまうほどだ。
『舐めて濡れたのは初めて』などと、リヴァイを煽るためになんの躊躇もなく伝えた事実が、体の内側で静かにハンジを驚かせた。
(久しぶりだから、準備の度合いがわからなかったんだな)
そう納得させ、腰を揺らしながら指を動かす。空気と粘液を混ぜてわざと音を立てると、リヴァイは喉どころか全身を震わせた。視線はずっとハンジのそこに注がれている。彼の位置からでは下生えしか見えないだろうに。
「ん、……ぁ、ダメ、軽くイキそ……」
指を棒に見立て、届く範囲で何度か中に突き立てる。敏感な部分になどまだ触れていないにもかかわらず、ハンジの体は細々と快感を拾い、そう高くもないてっぺんにたどりつこうとする。
「ハンジ」
いつのまにか目を閉じていたハンジは、その声に素直に瞼を持ち上げた。
ここに足を踏み入れた時は昼前の高さにあったはずの日が、今はもう中天を過ぎつつあった。傾いた光源が天井近くの小窓からわずかな光を送り込んでいる。
その薄い陰影の中で、リヴァイがじっとハンジを見つめていた。今度は確とした線が彼の瞳を描き出し、強くハンジを打ち抜く。
「ぁっ……ん、」
リヴァイと目を合わせながら、ハンジはあっという間に達してしまった。爆発こそ小さかったが広がったものは予想外に大きく、締めつけるモノの心細さに腹の中が耐え難いほど切なくなる。もっと大きくて、熱いものが欲しい、と。
足が震えて内側に狭まろうとしたために、ハンジは不安定な体を支えきれずリヴァイの胸に突っ伏した。縛られた手をぶつからないよう遠ざけたリヴァイが、小さな声で「大丈夫か?」と問うてくる。ハンジは息を整えながら頷いた。
余韻が燻る全身を奮い立たせ、早々に起き上がる。と、リヴァイと自分の腹のあいだで固くなっている男根に気づいた。
「おや……もう回復してる。あなた本当に三十代?」
「うるせぇよ」
「凄いな。精液も濃くて量が多かったし、ぷるぷるして喉に引っかかってすっごく飲みにくかった……なんだろう、体質かな」
「……お前もう黙れ」
「よく言うよ。興奮してるくせに」
直接的な刺激がなくてもここまでになるのかと驚くほど、リヴァイのそこは反り返ってひくひくと脈動していた。ハンジの明け透けな物言いにもまったく萎える様子はない。
口内で味わったときの感触を思い出す。坂道から転げ落ちたばかりの欲情がまた這い上ってくるのを自覚し、彼の熱い表面を指で摩ってしまう。
「リヴァイの、おっきいからきっと奥まで届いて……精液もしつこく留まるんだろうな。掻きだしても出てこなくて大変そう……」
「……試してみるか?」
ハンジは思わず鼻で笑いそうになった。ちっとも待てのできない男だ。
いや、違う。男は総じてそうだった。それにハンジだって、人のことを言えないほど興奮している。
――そう、ハンジは興奮していた。
声の代わりに口の端をゆるく持ち上げ、リヴァイに笑いかける。蠱惑的に見えるように。
「安心して。最初からそのつもりさ」
手で支え持ったリヴァイの熱に向かって、ゆっくりと己の熱を重ねていく。狭さを感じた場所で一度腰を浮かし、またじわじわとおろす。押し開かれる感覚は数年ぶりのもので、少しだけ引き攣るような痛みがあったものの、頭を起こして自身が飲み込まれる様を凝視するリヴァイを前にした途端、大した問題ではなくなってしまった。
「あ、あー……かっ、たぁ……」
「……ふ、」
互いに湿った息を吐きあい、時間をかけてようやくピッタリと繋がり合う。リヴァイの先端はハンジの奥深くを押し上げて、迂闊に動くと強い刺激を受けてしまう場所に到達していた。馴染ませるように小さく体を揺すると、それだけで背中がカッと熱くなってしまう。こめかみに汗が浮き、腰使いも自然と慎重になる。
「や、すご……い。またすぐイッちゃいそう……」
リヴァイの腹に手を置き、互いの秘部の周りを優しく擦り合わせるように、ゆっくりと下半身を回し動かす。繋がったところから生まれたむず痒さが皮膚の下のすみずみを巡り、ハンジはそれを捕まえるように自らの裸の胸を掴んで頂点を捏ねまわした。と、その拍子にまた少し達してしまった。
「ぁー……、っ、」
喉を伸ばして薄い喘ぎを天井に投げたハンジは、中のものがぴくりと痙攣したことでようやく下敷きにしているリヴァイを思い出した。眼下に意識を戻すと、彼は赤い顔であいかわらずハンジを見つめていた。変わったことといえば、皺のよった額に汗が浮き、そこが前髪の何本かを引き止めていたことくらいだ。それでも、汗をかいたところを見せない彼にしてはたいそう珍しい光景だった。
手を伸ばし、ぺたりと張り付いた髪を優しく払いのける。腹の中に収まったものが角度を変えて悩ましい感触を伝えてきたが、そのせいで、ハンジは今日一番リヴァイの近くに来たことに気がついた。
目が、彼の薄く開いた唇に吸い寄せられる。そこは一度だけきゅっと閉じたかと思うと、再び開いてちらりと舌を見せた。暗い洞の中で、柔らかさをもった肉が蠢く。
誘われている、と思った時にはもう、口付けてしまっていた。
従順に見えたリヴァイの口は、ハンジの同じところを捉えた途端に噛み付くような勢いを持った。下からの攻めにもかかわらず、ハンジの舌を正確に捕まえ、吸い、なぶり、唾液をめちゃくちゃに攪拌させる。自分勝手な情熱はハンジを溺れさせた。対抗して懸命に舌を絡ませ、角度を変えて何度もリヴァイの口内を味わう。
「ん……ふ。あ、は」
どうしてリヴァイの粘膜は、こうもハンジに安らぎをもたらすのだろう。激しくなる口付けと動悸に反して、心はとろりと甘く穏やかになっていく。
これではまるで、まっさらな少女の、初めての口づけの──……
精液くっせぇ口だなぁハンジ。何回咥えさせたんだっけ?
耳元で、リヴァイでない誰かが囁く。
覚えてないか? いっぱい飲んだもんな。
「――いやっ!」
離れようとした身体を、何かが強く阻んだ。リヴァイが拘束された腕をハンジの首に回し、その場に留めようとしていたのだ。締めつける勢いのそれを無理やり引き剥がし、追いかけてきた唇を彼の腕ごと抑えつける。
「リヴァイッ! いい加減にしろよ!」
叱責に対する返答は床に振り下ろされた踵の音だった。ガツン、と大きく響いた反抗に怒りが爆発する。
「なんでっ!? 自分で『違う』って言ったじゃないか! 私を満足させたいって、なのに……!」
ぐっと腰を捻ると、腕の下でリヴァイが息を詰めた。ハンジの腹の中のものは硬度を保ったまま、どころか体積を増してさえいる。不可解で、不愉快でたまらない。
「なんで大きくしてるんだよ!? 嫌って言ったのになんで止めてくれないの? 結局自分のことばかりじゃないか、そう思われてもいいってことだろっ!」
やっぱり同じだ。どいつもこいつも。
「裏切られた」と思って初めて、「リヴァイは裏切らない」と確信よりも期待を抱いていた自分に気づく。
そんなはずないのに。独りよがりな欲望以外で、ハンジが求められるわけがない。
みんなそうだったじゃないか。
ハンジの未通を無理やり開いて、恋人面で利用し続けて償いもせずに馬鹿みたいな死に方をした男も。その男に続こうとした男たちも。
かつてハンジが辱めを受けたこの場所に、同じように女を引き摺り込んで犯していた男たちも。
ここを根城にして人を寄せ付けないようになったハンジに、誠実な顔をして近づいてきた男も。
だったらリヴァイだって同じだ。そうに決まっている。切り開けば皮膚と筋肉と神経と骨と内臓と、他人を利用して勝手に膨らみ簡単に破裂する欲望しかそこにはない。表面にあらゆるものを貼り付けておきながら、剥いでみれば汚いものしか存在しないのだ。
ハンジはその汚さに散々塗れていた。取り返しがつかないくらいに。なのに、まだ汚そうとするのか。
両脇にそびえたつ本棚を支えにして、ハンジは激しく腰を動かしはじめた。驚きに見開かれる両眼を見つめながら、リヴァイの脚の付け根に尻がぶつかるほどの強さで間断なく抜き差しを繰り返し、時折腰をまわし、前後に動かし、背後で足が跳ねるのも無視してひたすらに中を締めつける。
「ぅ、くっ……!」
「気持ちいい? 我慢しなくていいよっ?」
下への刺激だけでなく、律動を利用して爪で胸の頂点を掻いてやると中で悶える熱は弾ける寸前になった。リヴァイがきつく歯を噛みしめ、ギリ、と辛抱の音を鳴らす。
「大丈夫だよ、リヴァイ。これで終わらせたり、しないから」
ことさら甘く言い放ち、握り締められた拳に小さくキスを落とす。と、リヴァイは喉を反らして呆気なく達してしまった。
どく、どくと脈打つ男根が、痙攣する下腹に合わせて欲望を吐き出し、穴を満たしていく。ハンジは数回にわたって中を締めつけ吐精を手伝ってやったあと、もどかしいほどの速度でリヴァイの上から退いた。ずるりと栓の抜けた穴から、少し遅れて粘度の高い精液がとろりと流れだし、床の上に行為の跡を残していく。
「……はあ、は、……、ッ!?」
「『終わらせたりしない』って言っただろ」
ほんの少し硬さを残すだけになった男根を両手で握り、ハンジは放心していたリヴァイに向かって冷たく宣言した。二人それぞれが生んだ体液にまみれ、触るのにも躊躇するほど汚れきったそこを、再びぐちぐちと弄びはじめる。
「ハンジッやめっ……!」
リヴァイは埃のたまる床板の上で身をよじり、ハンジの手から逃げ出そうとした。その反応は快感でも羞恥でもなく、あきらかな拒絶だった。達したばかりで敏感な部分に、剥きだしの神経を針で撫でられるような堪え難い感覚を与えられているのだから当然だ。
丸まって隠れようとする下半身を膝で抑え、握り込んだ先端をさらに強く擦り上げる。暴れる体が怪我をする可能性さえハンジの頭からはすっぽ抜けていた。
「ぃ、ぐっクソ、やめろ!って、言っ」
「やめていいんだ?」
苦悶に歪んだ表情と体が、何かを察してぎちりと固まる。
やめていいのか。俺の采配次第でどうにでもなるんだぞ。
顔のすぐそばに誰かの吐息と囁きを感じ、ハンジの背筋が凍っていく。なのに口は止まらない。
「リヴァイ、もういい? これで終わってもいいかな?」
ハンジは最低のクソ野郎で、リヴァイは信用に値しない人間で、そんなことだけが露呈した時間を、今ここで、終わらせたなら。
「明日から……っいつもの二人に戻れる?」
限界まで拳を握り、歯を食いしばったリヴァイが、それでも、大きく横に首を振った。くぐもって軋んだ声が「ふざけんな」とハンジの言葉を否定する。
「てめぇ、あとで、……おぼえてろ」
「……ああそう。あなたも強情だな。そんなに私を思いどおりに扱いたいのかい? 物好きにもほどがあるね」
この恥辱を耐えた先に、そこで得るものに、リヴァイはどれだけの価値を見出しているというのだろう。ハンジには理解できない。ハンジはいまだかつて、こんな形で表出する欲望に触れたことがなかった。
リヴァイの目的が、わからない。
何を言おうとしたのか、一度だけ口を開閉させたリヴァイは、しかし目を瞑って再び顔を隠してしまった。
「……さっさと終わらせろ」
そう言って、互いの逃げ道を失くしながら。
室内にこもる空気は流れる先を知らず、ただひたすら密度を増していく。
「ぃ、……は、っぐ」
リヴァイの全身はこれ以上ないほどこわばり、見目にもわかるほど腕や腿の筋肉が膨らんでいた。踵は何度も床を削り、衣服に覆われていない場所はどこもかしこも真っ赤に上気している。けれどそんな姿になりながらも、彼は先ほどのように苦痛を与える手から逃れようとはしなかった。
身悶えながら留まるリヴァイに、ハンジも攻めを緩めることはしない。手首を捻るようにして先端を捏ねまわし、幾度となく床から浮き上がる脚を抑えつけ、時折後孔から会陰までを軽く押し込みながら辿る。喘ぐ声を糧にして容赦なく追いつめていく。
「人それぞれだからなぁ、どうかな。上手くいくかな」
リヴァイの耳に入っていないことを承知で、ハンジはぼそぼそと呟いた。
「知ってる? 男も女のように水を噴けるんだって」
だったら自分たちの体でやればいいのにね。
得意げに教えるくらいなら、どうして他人の体に手をかけるのだろう。どうしてわざわざハンジを玩具にして、見世物にして。水溜りに跪かせて、服従を誓わせたのだろう。
……誰か。答えを知らないだろうか。
「リヴァイ……こっちを見て」
無意識の問いかけだった。他人が屈辱に耐える様に、何かを見いだしたかったのかもしれない。
聞かなければ無理強いをするつもりだったが、腕の下できつく閉じられていた目はすんなりと開く。涙の幕の向こうでハンジを映した眼球は、室内の少ない光をすべて集めたように煌々とそこにあった。
屈した者の卑屈さなど、微塵も感じさせずに。
矜持のなせる技だろうか。泣いて喚いて、許しを請うて、それでも突き入れられる痛みが止まなくて、ついには抵抗をやめてしまった弱者の姿など、そこにはない。
(私とは違う)
決定的に。大違いだ。
そう思うと、頬が歪み、苛む手に力が篭る。
「っ、うぁ"、あ、あ、くそっ……!」
「! わ……」
ひときわ高く断続的な声があがり、次の瞬間、二人のあいだを透明な飛沫が裂いた。匂いも何もない水が鈴口から噴きだし、ハンジの額や頬だけでなく辺りをびっしょりと濡らしていく。リヴァイの体は射精のときとは比べ物にならないほど打ち震え、勢いよく出しきった最後まで止まることはなかった。
「わあ……すごいねえ。初めてなのにこんなにすぐ出せるなんて……あ、もしかして初めてじゃないのかな?」
掌をつたう液体に舌を這わせ、ぜいぜいと気管を鳴らすリヴァイを眺め、ハンジはせせら笑った。煽るつもりで、視線にまで蔑みを含ませる。
兵士より娼婦になったほうがよかったんじゃないのか? それなりに稼げただろうに、まんまといただかれちまって。可哀想にな。
哀れみなど少しも持たなかった男たちの、ねばついた軽口が耳の奥で反響する。
巨人という人ではないものと闘いながら、人の心を持たない人間に踏みにじられてきた。痛みと悼みに泣く仲間たちのすぐそばで「生還祝いだ」とのしかかられて、吐き捨てられた欲を馬小屋の藁の上に掻き出して。「いつか絶対に殺してやる」と、そう思っていたのに。
手を下す前に男は死んだ。巨人の歯牙にさえかかることなく。街で酒に溺れ、酩酊のうちに運河の底で眠りにつき、あっけなく死んだ。
彼はハンジの目の前で腹を開かれた最初の遺体になった。そして欲望に汚された記憶と絶望だけをハンジに残していった。
切り開けばみんな一緒だ。男も、男たちも。リヴァイも。
「……満足、したのか」
――ハンジでさえも。
床に転がされたリヴァイが、衣服や肌、床を汚す体液が飛び散った無惨な光景のまんなかからそう言ったのを、曖昧な意識で捉える。
満足。他人を踏みにじっただけのこんな行為に、満足を得たかと。彼はそう問うている。
「そんなわけない」と、そう言いきれないことをしでかした事実に胃がよじれ、吐き気がこみあげてくる。
喉を塞ぐ不快な塊を飲み下そうと、ハンジは強く目を瞑った。薄暗い瞼の裏にいくつもの顔が浮かぶ。
醜悪な記憶で描かれるそれらは、ゆらゆらと形をなくしたあと、次第にハンジ自身の顔に変わりはじめた。
「まだ足りねぇのか?」
リヴァイがまた、言う。その声音が憎しみを帯びていくことを恐れて、ハンジは頭を抱えた。
どんな人間だって、切り開けば皆一緒だ。けれど皆、衣服の上にまとうしがらみや、例えばリヴァイが持つような矜持で自分を律している。
ハンジはそれができなかった。
ハンジの憎しみは所詮、その程度だった。蹂躙を跳ね除けることもできず、諦め、何年も燻って、そのくせ死ぬまでその鬱憤を持ち続けるだけの覚悟もない。挙句、他人にぶつけてしまった。周囲よりも一層親しみを抱いていた人に。
リヴァイに。
ハンジの全てを踏みにじっていった男たちと同じやり方で、彼に辱めを与えてしまった。
「――リヴァイ」
ごめんなさい、と続けそうになった自分に、ぞっと背中を震わせる。謝罪を口走ってしまえば、リヴァイの手にある選択肢を『ハンジを許すか、許さないか』に当てはめてしまうことになる。許すという余地を彼の思考の隅に生んでしまう。そんなことはできない。「謝れ」と詰られて初めて、ハンジは許しを請わなければならない。
俯いたまま、キツく唇を噛み締める。
「ハンジ」
苛立ちを隠しもしない声が、暗に「こっちを見ろ」と命じた。拒みたがる自分を叱咤し、のろのろと顔を上げると、髪を乱したリヴァイがすぐそばでハンジを見ていた。
呆れの浮かんだ表情は、ハンジと目を合わせた途端に小さな驚きを孕んだが、憤りや侮蔑はいっさい見られない。それがひたすら恐ろしい。
「なに、泣いてんだ」
それが自分にかけられた言葉だと、すぐには認識することができなかった。目元を腫らし、涙の跡を光らせるリヴァイのほうがよっぽど事情を知らない人間にそう聞かれるはずだ。
それに、ハンジは泣けない。
「泣かないよ……そんな資格、ないから」
「馬鹿かお前は」
リヴァイの親指が伸びてきて、レンズの汚れた眼鏡の内側に潜り込む。目の下が無遠慮に擦られ、陵辱を働いた相手に与えるにしては随分穏やかなその温度に、ハンジは肩をびくつかせた。
しかし兵士特有のかさついた皮膚を想像していたリヴァイの指は、なぜか水分の上を滑るような感触を残して去っていく。疑問に思い、ハンジは自分でも同じ場所に指を伸ばした。
「……!」
「自分の泣きっ面にすら気づかねぇのか? 鈍いにもほどがある」
指先が濡れていた。同じものに触れたリヴァイの言葉を信じるなら、それはハンジが流したものだということになる。意識すると、こめかみが重くなり、鼻の奥がつんと痛んで異常を訴えはじめた。
その資格もないと嘯きながら、ハンジの体はあっさりと涙を流していたのだ。
慌てて拭おうとした手に、ハンジの頬に留まったままのリヴァイの手がぶつかった。そこで気付く。
「リヴァイ……手を、縛ってたはずじゃ」
「あ?」
よくよく見てみれば、リヴァイは当然のように自由を取り戻し身姿まで整えている。後方には手首を固く拘束していたはずのベルトが落ちていた。
呆然とするハンジに、リヴァイがなんの感慨もなく返す。
「あんなヤワな縛り方じゃ、解かないでいるほうが難しい」
「……それは、……つまり、」
「言っただろうが、『こんなことをしなくても』と。それを証明しただけだ」
つまり。
リヴァイはあえて、ハンジに拘束されたまま耐えていたということか。あんなに苦悶していたあいだにも、ベルトを繋いだままでいることに神経を使っていた、と。
「理解できない」
ハンジは呟いた。
「どうしてそこまでするんだよ……あんなに、惨めなことをされて」
どうして、と放心しながら問うと、リヴァイの表面が初めて険しさを浮かべた。ハンジが羽織っていたシャツの襟首を掴み、剣幕を浮かべてぐっと顔を近づけてくる。
「オイ、『言うことを聞けば俺の言葉を疑うことはなくなる』と、お前はそう宣言した。忘れたとは言わせねぇぞ」
記憶を辿る少しの合間にも、リヴァイの睨みは鋭さを増していく。そこには冗談ですら「忘れた」とは言わせない気迫があった。
「俺は言うことを聞いた。満足したな? まだ足りねぇか? 次は何すりゃいいんだ?」
リヴァイが、間断なく従属を重ねようとする。
いや、従属なんて甘いものではない。相手に支配することを強制して、その強制によって逆に相手を支配しようとしている。
彼は根っからの強者なのだ。
ハンジは心の底から狼狽えた。
「やめてよ……! どうしてあなたみたいな人がそこまでするんだ! あんなことをされて、なぜまだ私に、」
「ハンジ。俺は違う」
言葉を遮ったリヴァイが、まっすぐハンジを見つめる。犯されている最中も、幾度となく形作っていた眼差しで。
「どんなロクでもねぇクソの相手をしてきたか知らねぇが、俺は違う。お前がくたばるまでお前を離さない。お前を拒まない。喧しく言うことの一つだって切り捨てたりしない」
「疑わねぇな?」と確認しながら、リヴァイは答えを待っていなかった。
だから、疑いようがなかった。
「俺の決まった相手になれ、ハンジ。男だろうが女だろうが、もう誰にも裸を許すな」
人の中に、他人を食い尽くすだけの欲望しかないなんて。本当はそんなこと、ハンジだって信じたくなかった。信じたくなかったからこそ、どれだけ恥辱を受けても、人類なんてひたすら長大なもののために調査兵団に居続けたのだ。
リヴァイの望みは、肥え太って泥にまみれた欲望とはまったき別の希求から来ていた。
本当はわかっていた。
彼はハンジが信じたかったものを持っている。そしてそれを、ハンジに与えてくれようとしている。
――けれど。
「無理だ……なれない」
首を振る。拒絶のために。
「なぜ無理だ。誰彼かまわず股を開くのが好きなのか?」
「やめてくれ。想像もしたくない」
他人を貶めてしまった。誰からもそれを与えられなかったために醜く歪んでしまった妄執が、ハンジの外も内も汚しきってしまった。取り返しのつかないほどに。
穢れが肌に浮き上がるさまを錯覚し、隠すように胸の前で両手を握りしめる。そこに、リヴァイの手が伸びてくる。固く締めていたはずの指があっさりとほどかれ、彼のものと絡ませられる。リヴァイはそのまま、ハンジの手の甲を甘く撫でさすった。
「なあ、ハンジ。だったらなぜ俺の前に跪いた。何度も何度も目を合わせて、そのたびに泣きそうになってたのはなぜだ」
〝泣きそうになってた〟?
リヴァイの前で自分がそんな顔をしていたと知り、ハンジは言葉をなくした。それが何を意味するのかまったくわからなかったからだ。隙をついて、リヴァイがさらに近づいてくる。
「初めて舐めながら濡れたというのは本当か? それは俺が相手だからじゃねぇのか? 自分から俺の口に吸い付いてきたのはなぜだ?」
矢継ぎ早の質問に、それは、から続く答えはない。その数々の違和の意味を、ハンジは自覚すらしていなかったのだ。
「それとも、すべて男を喜ばせるための技か?」
「! ちが……そんなの、望んでしたことなんてない、今日初めて、」
否定のために振った頭がいきなり掴まれ、痛みを感じる前に、リヴァイがハンジの唇を同じ場所で塞いだ。
「!」
抵抗を思いつく暇さえなく、ハンジの意識はあっというまにぬるま湯に放り込まれた。そうして、心地よさに揺蕩いはじめる。今度は優しく進んでいくリヴァイの唇を、体はなんのためらいもなく受け入れようとする。
けれど、思考の冷静な部分はそれを許さなかった。ハンジは胸がちぎれる思いで顔を逸らした。
「だ……めだっ、汚い!」
「いまさらだろ」
手が素早く背中に回り、離れようとする身体を引き寄せる。シャツ越しに触れられた肌が喜びに粟立ち、ますます焦りを覚えるハンジにリヴァイの唇が何度もぶつかってくる。
「だめ、だよ……リヴァイ、きたないから」
「気にするな。俺の出したもんだ」
「そうじゃないってば! これは私の、」
触らないでくれ、嫌いだ、と。
そう叫べばきっと、リヴァイは大人しく引くはずだ。わかっているのに、なぜかそうすることができない。だからといって身を委ねることもできず、弱々しく縮まってみっともない拒絶を繰り返す。
「リヴァイ……頼むから。汚いんだ、私……」
触れられたくない、と心が叫ぶままに絞り出した言葉は、ひどく弱々しい。それを受け止めて、彼が口を開いた。
「だったら綺麗にすりゃいいだろ」
「……きれいに……?」
「汚れりゃ洗い流して綺麗にすりゃいいんだ。お前のどこにも、間に合わねぇ汚さなんてねぇよ」
その瞬間、ハンジはすべてを忘れていた。
何も知らないはずの彼の声が、まったく違う意味をもって、ほとんど無理やり体の中に入り込んでくる。暴力にも等しい奔流が、けれど痛む場所さえわからなかった痛みをなくしていく。
大人しくなった体をどう捉えたのか、リヴァイがハンジを解放した。そして離れたことで生まれたわずかな隙間を眺め、舌打ちを一つすると、着たままだったジャケットを脱いでハンジの半身に被せた。
一度として、そんなことをした男はいなかった。
虚ろな気持ちで顔を上げると、リヴァイと目線が重なり、ハンジは顔を歪ませた。泣きそうになっている自分に気づいたからだ。
真正面からそれを受け止めたリヴァイは、ひどい空腹に耐えるかのごとく額を軋ませた。
「お前な……散々そういうツラを俺に晒しといて、『ダメ』はねぇだろ」
「わたし、どういうツラしてる……?」
「自覚ねぇのが本当にタチ悪いな」
両腕が背中に回る。ハンジは今度こそ、自分が汚した男の腕に正しく抱きしめられていた。彼に倣って背中に回る手を、もう止めることができない。
「『何とかしてくれ』って顔だ」
眼球が溶け出すのを感じる。乾き始めていたハンジの頬は、再び流れだしたものであっという間に濡れてしまった。眼鏡が顔に食い込むのもかまわず、必死でリヴァイにすがりつく。
「うん、うん……りゔぁい、なんとかしてぇ……」
「ああわかった、部屋に戻るまでが事だが風呂に入れてやる。てめぇが普段やるより綺麗にしてやる。その後はこの汚物倉庫の掃除だ。地獄かここは。隅から隅まで洗浄してやる」
ぼとぼとと泣き出したハンジに、リヴァイはぶつくさと文句を垂れながらため息をついた。自分を辱めた女の体に腕を回し、子どもを相手にするようにあやしながら。
こんな男に勝てっこない。勝てなくてよかった。だって彼は、ハンジが信じたかったものでハンジを打ち負かしたのだから。
背中の真ん中をトン、トンと叩く振動が、泣きじゃくるハンジの体中に響いてくる。
皮膚。筋肉。神経。骨。内臓。
そのすべての奥の、どこだかわからない場所が揺らされる。そこに汚物のような欲はなかった。リヴァイの優しさの暴流が、なにもかもを洗い流してしまった。
たったひとつ、鈍く光るものを残して。
いつのまにか芽生えていた、小さくて頼りない〝それ〟を、なんと呼ぶのか。
(……きっと、これが)
ハンジはもう、とっくにわかっていた。
〈了〉
(初出 18/12/21)