目覚めの音
鍵を開ける少年少女の話
目覚めの音
鍵を開ける少年少女の話
カチン。
誰もいない廊下に、そんな音が響いた。
音源は、等間隔で並んだドアの一つ。
その前に佇んだ少年リヴァイの手元である。
靄の向こうから朝日が滲み始めた。爽やかな初夏の太陽が頭を出し、周囲の温度をじわりとあげていく。
朝の清凉な空気にも、慎ましやかな雀の声にも、少年のまとう空気は張り詰めたまま。
リヴァイは金属を穴から抜き出し掌の上で遊ばせた。
凹凸の刻まれたブレード部分と楕円形の頭部からなる、何の変哲もないシリンダーキー。
この鈍く光る鍵は、リヴァイの自室に掛かるものではない。
彼の隣に住む女子中学生ハンジ・ゾエの部屋のものである。
初めて隣室の朝に踏み込んだのはいつだったか。
リヴァイは思い出せない。
リヴァイの隣人・ハンジは布団に入りたがらない奴だった。
昼も夜も興味関心ごとに没頭して散々騒ぎまわった末に、観念したように倒れる。
そうして眠り始めたハンジを放っておくと、数日は起きない。
当然、学校にも来ない。
途方にくれる担任を見て、存外世話焼きなリヴァイが行動を起こしたのが最初だった筈だ。
眠りこけるハンジを叩き起こし、身なりを整えさせ、朝飯を口に詰め込み、学校まで引き摺って行き…。
それが自然とリヴァイの”役目”になってしまったのは、
──まあ仕方がないだろう、とリヴァイ自身は諦めている。
ハンジが深すぎる眠りにつくたびにリヴァイは覚醒を強要した。
その甲斐あって、夜更かしが染み付いていたハンジにも"夜は寝る時間"くらいの認識は芽生えたらしい。ここ数ヶ月は静かな夜が寮の上を過ぎている。
が、まともな中学生らしく夜は布団に入るようになると、別の問題が持ち上がった。
彼女は、(これまたまともな中学生らしく)朝にめっぽう弱かったのだ。
数日から数週間に一度だったリヴァイの”役目”は、毎日の”習慣”になった。
「明日から来ないぞ」
とハンジに言う機会を逸したまま、リヴァイは朝、ハンジの部屋のチャイムを押す。
返事はない。冷たいドアを叩くも、やはり返事はない。
無言のままドアノブに手をかける。
カチャリ。
軽い音と共に、ドアが開いた。
いともたやすく。
リヴァイはうんざりとしてため息をついた。顔を歪ませ、わざと足音を立てながら部屋に乗り込む。
ついこの間リヴァイ監修のもとでガラクタ大処分を行ったばかりの部屋には、しかし彼の知らない物がすでに二、三個増えていた。
舌打ちをし、部屋の真ん中で眠るハンジに近付いたリヴァイは、睡眠を貪る緩んだ身体や安心しきった顔には目もくれない。枕元にポンと置かれていた眼鏡を脇に避け、せんべい布団の長辺を両手で掴むと、リヴァイはそれを力の限り引き上げた。
それはもう、思いきり。
「──ふおっ!? うぎゅ!」
布団から勢いよくぶっ飛ばされたハンジは妙な声を上げながら跳ね転がり、狭い部屋の壁にぶつかった。
「……ぃたぁ……」
「起きろ! このクソメガネ!」
「ぅうー……めがね、してないし……」
「お前がすべきことは口答えじゃねえ。とっとと起きて俺に理由を説明することだ」
「え?」
ふらふらと起き上がったハンジに眼鏡を渡すと、クソメガネになった彼女はリヴァイの憤怒の顔を見てさっと居住まいを正す。正したところで縒れたTシャツなのだが。
「……えっと……本日も大変、気持ちの良い朝で……」
「ああ、どっかの隣人のおかげで爽やかで優雅な朝だ」
「う"っ……今日も起こしていただきありがとうございます……」
リヴァイの放つ空気が重苦しく鋭利になる。
ハンジは半泣きになった。目覚めてすぐに考えるべきが辞世の句だなんて、と。
「なあ、ハンジよ」
「うんっ、はい!」
「どうして俺は、鍵を開けずに中に入れたんだろうな?」
あ、と見開いた目をリヴァイは冷たく見下ろした。
全く信じがたいことだったが、ハンジには部屋に鍵を掛けるという習慣がなかった。
リヴァイも朝通いを始めてからやっと気付いたことだ。
阿呆だ。
危機意識が皆無だ。
リヴァイが懇々と防犯の理念を解いても、「でも盗まれる物もないし」とヘラヘラ笑うだけ。
自室にゴロゴロと転がる"宝物"の、その真価をきちんと把握している発言である。(じゃあ捨てろよと思うが)
リヴァイにはゴミ同然の"宝物"はともかく"ハンジ自身"のことを考えると、鍵を掛けない習慣をそのままにはできなかった。
奇行が過ぎる女子中学生にだって、巨人が出すゴミ以上の価値はあるはずだ。
が、いくら言い聞かせても直らないことに業を煮やしたリヴァイがとうとう制裁(ハリセン)の手段に訴え始めても、部屋に鍵をかけるという慣習は二日として守られたことがない。
「毎度毎度いい加減にしろ、てめえ」
「でも、私って呼ぶだけじゃなかなか起きないし。鍵かけたら朝、リヴァイが入って来れないかな〜って……」
ハンジが困り顔で小さく答える。
「……」
呆れ返る言葉だった。
「てめえ……この……、……」
「そ、その反応はちょっと傷付くんだけど」
思わず頭を抱えたリヴァイに、ハンジも慌てふためく。
なんだそれは。
俺が起こしに来ること前提の心配じゃねえか。
──でもハンジだから、仕方ない。
「あの、リヴァイ、ごめん……」
「ちっとも悪いと思ってないだろ。おい、ハンジ」
顔を上げたリヴァイは、無表情で言い放った。
「合鍵をよこせ」
ハンジが神妙に渡してきた鍵を、リヴァイは確認するようにちゃぶ台に置いた。
「俺が持っとくが、いいな」
「う、ん。お願いします」
炊きたてのツヤツヤした白米や、フライパンから下ろしたばかりの卵焼き、汁椀からのぼる味噌と葱の香りを含んだ湯気の向こう、正座したハンジは俯いて自分の手元を見ている。
表情の読めないハンジの返答は、リヴァイには戸惑っているようにも聞こえた。
何が困るというのか。
部屋の鍵なんていうプライベートな物を渡す行為に?
リヴァイの腹が沸々と熱くなる。
今更何だ、とハンジを詰りたくて仕方がない。
「これでお前の心配事はなくなったわけだが」
「……そうなるね」
「明日も鍵が開いていたら……わかってるな?」
リヴァイはハンジを睨めつける。
目つきの鋭いリヴァイが意図して厳しい表情をするとハンジ曰く般若のような顔になるらしいのだが、正面のハンジは目線を合わせずに「はーい」と軽く答えただけだった。
ハンジがせっついて、朝食が始まる。
「いただきます!」
「……甘く作りすぎた。俺のも食え」
「わっ! ありがとリヴァイ!」
ようやっと一日が動き出した。
**
「リヴァイ、ご機嫌だな」
「ぁあ?」
洗い場で空の弁当箱を水に浸すリヴァイに、通りかかったミケが近づいて来た。
リヴァイの機微を察せられる人間は少ない。
この学校ではそれこそ、ハンジとミケくらいである。
「何かあったのか?」
「ねえよ」
「……ハンジか?」
なんでそうなる。リヴァイは舌打ちした。
「ああ、ハンジとなら"何か"あったな。ご機嫌どころか大層クソなことだが」
リヴァイが、毎朝の習慣のことからハンジが部屋に鍵をかけないこと、とうとうリヴァイが合鍵を管理することまで話し終えた頃には、ミケの表情は異様なものの匂いを嗅いだようになっていた。
時折鼻の下の髭をこすっている。
「前から思っていたんだが」
持参の布巾でプラスチックの水気をふき取るリヴァイを(若干呆れた顔で)眺めた後、ミケは口を開いた。
「お前、ハンジをどうしたいんだ?」
「は?」
手を乾かしたリヴァイがミケに向き直る。
「どう……って、何だ。アイツが誰かの言うこと聞くようなヤツかよ」
「そういう意味じゃない。わかってるだろ」
何言ってんだこいつ。
残り十分の昼休みでこの話が一体どこに着地をするのか、リヴァイには皆目わからない。
──正直、わかりたくもない。
「……まともな人間になってくれりゃ、涙でも流して喜ぶんだが」
「そうか。お前はハンジをまともな人間にしたいのか」
癪に障る言い方だった。
視線を鋭くしても、ミケはこんな時だけリヴァイの感情を読もうとせず、鼻を鳴らすだけ。
「ハンジは、ダメな奴だな」
「何が言いたいんだお前は……」
「人好きするから、余計にタチが悪い」
リヴァイはつ、と目線を床の隅にやる。
四角いそこに薄く溜まった埃を見つけて、また舌を打ちそうになった。
「これからも色んな奴がハンジに振り回されるんだろうな」
休み時間はあと数分だ。
今から箒を取ってきて、あの塵芥を駆逐することができるだろうか。
いや、リヴァイなら可能だ。
「ーーハンジもきっと、当たり前のように振り回す」
休み時間に掃除しようなんて、リヴァイぐらいしか考えない。
「相手が誰だろうと、アイツは笑って振り回すんだろう」
鳴り響くチャイムの下で、怖いな、とミケが呟いた。
**
眠れなかった。
だらだらと布団の中で夜を過ごし朝の明るさに目と脳を痛めるなど、リヴァイには初めてのことだ。
ぼんやりとした頭で、リヴァイはハンジの部屋の前に立っていた。
右の掌をそっと開くと、鈍い銀色の鍵がおさまっている。
温まった金属の金臭さが鼻に入り込んだ。
人差し指と親指で挟んで構えたそれを、ゆっくりと縦の穴に挿しこむ。
そのまま開錠の方向へ──
ガチン。
耳障りな音がこぼれた。
回りきらなかった鍵を抜いて、リヴァイはドアを開けた。
部屋はひどく静かだった。
ハンジの持つガラクタだの何だのは、持ち主を真似るようにそこに在るだけでうるさい。
だと言うのに、今はハンジと一緒に沈黙して、室内の薄闇に潜り込んでいる。
開けたドアを閉める時も、靴を脱ぐ時も、ハンジに近づく時も、リヴァイは音を立てなかった。
畳すら軋ませないその足で、ハンジの眠る布団のそばまで。
ハンジは熟睡していた。
抱え込んだタオルケットに右半分だけ顔を埋めて、やわい生地の短パンから出る両脚を、揃えた両膝を少し曲げて布団の端まで伸ばしている。
リヴァイはハンジの足元にそっと膝を下ろした。
その二本の脚を跨いで、両側に手をつく。
ちまちまとした小さな指、桜貝のような爪が並ぶ足先から、どこへだって飛んでいく姿からは想像もできないほど細い足首。
慎ましげに膨らんだくるぶしをそっと撫でた右手が、白く光るふくらはぎをじわじわと登っていく。
動く手が視界に入って初めて、リヴァイは自分がハンジに触れていることに気付いた。
気付いたところで止まらない。
寝入ったハンジの肌は、熱かった。
薄い肉と骨がリヴァイの指を押し返してくる。
思考が、とろ火で焼かれていく。
例えばハンジのこの身体の柔らかさを、熱を、微かな硬さを。
いつかリヴァイではない人間が、触る時が来る。
胸の奥の必死で感じまいとしていた激しい痛みに、吐き気を覚える。
ミケの言うとおり。
ハンジはダメな奴だ。そして人好きのする、タチの悪い奴だ。
誰も彼もハンジに振り回されて、そのうちの"誰か"が哀れにもハンジに夢中になってしまって、ハンジはきっと笑いながらそいつを、あるいはそいつらを側にいさせる。
自身に近づけさせる。
それがリヴァイでなくたっていいのだ。
善人でも悪人でも、ハンジを好きになる人間全てに、彼女の心は広く、浅く、開かれている。
誰だってそのドアを開けて、ハンジの内側に入ることができる。
現れるかもわからない存在を、リヴァイの代わりにハンジの隣を占める存在を、その"誰か"を想像する時、リヴァイはいつも獣じみた衝動を覚えた。
今も、また。
膝頭をさすっていた人差し指が、一瞬だけ皮膚に爪を立ててしまう。
けれどハンジは起きなかった。
呼吸はどこまでも穏やかで深い。
リヴァイは、撫でるだけだった自分の五指を、さらに肌へ埋めた。
そしてそのまま、上へ。
太ももから短パンまでを辿る頃には、リヴァイは身体の一部の凝り固まる熱を誤魔化せなくなっていた。
荒い息がハンジの肌にあたり、跳ね返って浅ましい湿り気を伝えてくる。
ズキズキとした痛みが、湧き上がる激情に飲まれていく。
(ハンジ)
"まともな人間"になってほしい、という願いは本当だ。
親切心を刺激された人間が、簡単に手を貸さないように。
けれど、リヴァイが側にいられるなら堕落していても構わないと、そんな形でも側にいたいと願うのもまた、リヴァイの心だった。
ハンジと向き合うと、リヴァイの中には矛盾ばかりが現れる。
迷惑をかけるなと叱り飛ばしながら、ハンジが困った時に縋るべきは自分なのだと考えている。
アホみたいに笑う顔に安心しつつも、泣かせる時を想像している。
普通に眠る姿に安堵しながら、それを阻むように指を這わせている。
大人になるということは、そんな正反対を抱え込みながら、それでも理性的に振る舞えることなのだと、リヴァイはそう思っていた。
思っていたのに。
ハンジの腰骨が掌にすっぽりと収まったことに、リヴァイはひどく興奮した。
薬指と小指を、布越しの薄い尻に何度も触れさせた。
少しだけ捲れたTシャツの下、生の肌色を凝視して、タオルケットを抱く腕が隠す胸の丘を思い描いて、リヴァイは最後に、眠るハンジの顔に近づく。
横向きのパイル地に押しつけられた顔に、眼鏡がずれたまま引っかかっていた。
枕元に開きっぱなしの図鑑が置かれているから、読んでいるうちに眠りに落ちたのだろう。
(クソが)
ハンジの寝顔は穏やかだった。
繊細な作りの耳から下る、未熟な顎の線。
見た目にも柔らかそうな頬の艶。
閉じた瞼の下で眼球がひくりと動き、意外と濃い睫毛を主張する。
自分を脅かす存在など、いることすら信じていない。
そんな緩みきった表情。
滾った油のようだったリヴァイの欲望が、徐々に鎮まっていく。
ミケの指摘は正しい。
合鍵を渡された時、リヴァイは胸の内で喜んでいた。
その鍵は、リヴァイしか知らないハンジの内側を作り上げることができる。ハンジ以外の誰も開けられない鍵を、リヴァイは解くことができる。
そんな錯覚も一緒に手に入ったから。
けれど、鍵は内側を守るための物だ。暴くための物ではない。
(何をしてんだ、俺は……)
ハンジを起こそう。
いつものように叩いて怒鳴って、二人でなんでもない朝を始めるんだ。
間抜けにも膨らんだままの"そこ"には辟易するが、起きたハンジが身なりを整えて、共に朝食を始める頃には辛うじて治っているだろう。
未だ夢の中のハンジを見遣って、リヴァイは別れとばかりに手を伸ばした。
こめかみに触れ、髪にそっと指を差し込み、流れに合わせて後ろに梳かす。
俺はどうしようもないほど、どうしようもないお前が、
(……好きだ)
指が静かに離れた時だった。
「……りばい……」
ハンジの中途半端に隠れた唇が、くぐもった声を発した。
呼んでいた。
リヴァイを。
瞳は閉じたまま。
眠りの中で。
喉が苦しく鳴り、視界が赤に染まる。
無意識のうちにリヴァイは応えていた。
「ーーハンジ」
パチリ。
掠れた声に引き上げられるように、ハンジは目を覚ました。
二、三度と瞬きをした眼が目前のリヴァイを捉え丸く開かれる。
「…………ぁ、」
みるみると驚愕に変わっていく表情の、飴玉のような茶色の中に、リヴァイが映っている。
それほどの距離だ。
ハンジの喉がヒクリと震えた。
眉が下がる直前の形で固まっている。
起き抜けの自分の上に異性の同級生が跨がり、少し動けば唇が触れる近さで覗き込んでいたら、こんな反応にもなるだろう。
当たり前だ。
当たり前なのに、リヴァイの胸は潰れそうなほど軋んだ。
「お前が悪い」
離れることも忘れ、リヴァイは声を落とす。
「お前が、鍵を掛けないから」
見開かれたままの眼に滲んだものをみとめて、リヴァイは弾かれたようにハンジから逃げ出した。
部屋を飛び出す背に、ごめんなさい、と、小さな声が届く。
死にたくなった。
**
「リヴァイ、大丈夫か」
「うるせえ……」
またもミケである。
この友人の言葉のせいでリヴァイとハンジはおかしなことになったのだ。リヴァイは苛立ちまぎれにミケの声をはねのける。
……違う、そうじゃない。
これは八つ当たりだ。
リヴァイにはわかっていた。
遅かれ早かれ、ハンジに抱いていた暗い感情はどこかで吹き出していただろう。
吹き出した後に二人の間に現れるだろう深い深い溝のことも、
ちゃんとわかっていたのに。
ハンジの部屋から逃げ帰ったリヴァイは、そのあと少しして家を出た。
隣室には声もかけなかった。
人も疎らな早朝の学校に辿り着いた後、朝礼が始まるまで部室に籠って掃除をしていた。
ギリギリに教室に入ったリヴァイの視線は無意識に一人の姿を探してしまう。
が、ハンジは結局学校に来なかった。
休みの連絡もなかったため「久々にやったな」と頭を抱える担任を前に、クラスメイトが囃し立てる。
「リヴァイー、なんで今日はハンジ来てねえんだよ? いつも一緒に来てんじゃん」
「……し、」
「やめなさい、リヴァイはハンジの世話係じゃないんだぞ!」
担任の言葉と周囲の笑い声が、リヴァイにとどめを刺した。
ミケが心配そうにリヴァイの顔を覗き込む。
リヴァイの表情は相変わらずの不動だったが、見る者が見ればー今はミケだーありえないほど思い詰めていることがわかった。
「何かあったんだな、ハンジと」
「……お前のせいじゃねえよ」
声に刺が混じっていたとしても、そう言ったリヴァイには本心の言葉だった。
「俺が、我慢できなかっただけだ」
「……そうか」
お前は頑張ったと思う、とミケは頷いた。話さずともわかってしまう察しの良さが、今のリヴァイにはありがたい。
が、意外な言葉がそれに続いた。
「まあ、週末には取り戻せるだろう」
「はあ……?」
リヴァイは高い背丈を訝しげに見返した。
取り戻す。
何を? どうやって?
決定的な溝を掘ってしまったというのに。
だんだんと鋭くなる視線などないかのように、ミケは平然としている。
「お前たちなら大丈夫だ」
予鈴が昼休みの終わりを告げる。ミケは去り際に、鼻を鳴らして笑った。
「今までが寝惚けすぎだったんだ、お前たちは」
放課後、自室に戻ったリヴァイが聞き耳を立てても、隣からは音もしなかった。
(あいつ、今日ちゃんと飯喰ったんだろうな)
途端に心配になる。
が、この期に及んでどの面で世話を焼こうというのだろう。
ハンジが軽蔑や怯え、赤の他人を見るような眼を向けて来たらと思うと、リヴァイの足は動かなくなる。
室内が薄い橙に染まっていく。
いつもならこの時間は、何だかんだ言いつつ部屋に上がり込むハンジと夕飯の準備をしているはずだ。
何をする気にもならないリヴァイは、ぼんやりと闇に沈んでいく窓の外を見ていた。
コトン。
玄関からした音は小さくとも痛いほど耳をついた。リヴァイの全身が一気にそちらへ集中する。
ドアの向こうに、ハンジがいるのがわかったからだ。
扉を叩いて声を上げるわけでもなく、部屋に戻るわけでもない。ハンジは、ドアの前でじっと佇んでいるようだった。
リヴァイは喉の渇きを覚えながら静かにドアに近づいた。そして何を言うべきか、と逡巡する。
──と、
「おはよ、リヴァイ!」
「……ハンジ」
半日ぶりのハンジの声。
わざとらしいほどの明るさに空元気を感じ取り、リヴァイは緊張したままハンジに答えた。
「……"おはよう"って時間じゃ、ねえな」
「いや〜ついうっかり!」
「お前な……」
言葉が途切れる。
ハンジとの会話で、間を合わせなければいけないなんて。
掌を、汗とともに握りしめる。
「起きたら昼過ぎでさあ。びっくりしちゃった」
「……寝過ぎだろ」
「だよねえ、自分でも驚いたよ!……実は変な夢みちゃって、夢の中でまた寝ちゃったんだ」
変な夢。
もしや、今朝のことを言っているんだろうか。
あの後ハンジは、起こったこと全てを夢にしてもう一度眠りについた、と。
けれど本当に夢だと思っているなら、起こしに来なかったリヴァイを言及するはずだ。
つまりハンジは、「あれを"夢"にする」と言っているのだ。
リヴァイの胸にまたあの衝動が湧いてくる。
ハンジからの「なかったことにする」という、許しなのに。
リヴァイの心は、そんなことは絶対にさせない、と熱を上げ始めた。
黒い感情のまま、ドアノブに手を伸ばした時だった。
「……起きたら、傍に鍵が落ちてたんだ」
鍵。
ハンジの部屋の合鍵か。
そういえばいつの間にかポケットからなくなっていた。
「あのさ……ドアポストに鍵、入れたから」
「……は、」
「合鍵とかちょっと、恥ずかしかったんだよね! リヴァイが鍵を開ける姿、想像するとさ!」
鉄の板越しにハンジの声が響いてくる。
そしてその余韻が消えると、今度は小さく届く言葉。
「……でも、今日はちゃんと、鍵かけるから」
だから、と懸命に紡がれるハンジの声は、聞く人間が聞けばわかる程度に上擦っている。
「だから……明日。開けて来て、リヴァイ」
言うだけ言って慌ただしく消えた気配と、隣から聞こえたカチャン、という音に、リヴァイは両手で顔を覆った。
「………明日は学校休みだ、バカメガネ」
ああ、ミケ。
彼の鼻はいつだって、色々わかりすぎていた。
**
カチン。
抵抗もなく半周した鍵を、リヴァイはそっと抜き出した。
なんの変哲もないシリンダーキー。
安らかな眠りを終わらせる、目覚めの鍵。
リヴァイはドアを開けた。
一時だけ光の筋を作った隙間は、すぐに閉じられて、
──カチャン。
鍵のかかる音。
そのドアは、それからしばらく開くことはなかった。
〈了〉
(初出 15/9/26)