これが(よき)日々になりますように。
かっこよく、佳き日々の話
これが(よき)日々になりますように。
かっこよく、佳き日々の話
『やあハンジ、久しぶり。リヴァイが萎びて腐って溶けているぞ』
「野菜庫の奥で忘れられた野菜か何か?」
UTC+6、母国よりさらに+6時間の未来を行く地に立つハンジは、旧知の電話が告げた内容に驚愕した。現在19時35分。スマホの向こうは朝の7時を過ぎた時間のはずなので、出勤前になんぞ思い立って、あるいは事前に決めて、仕事が終わったころのハンジに電話してきたものと思われる。話題に出た人物と違って丁寧に『今話せるか?』と訊ねてきてからの野菜宣言だったので、この友の思考にずいぶん慣れ親しんでいたハンジも戸惑ってしまった。
「急にどうしたんだよ、エルヴィン。リヴァイが何だって?」
『萎びて腐って溶けている。最近ちゃんと連絡を取りあってるか?』
「え? うん。電話やメッセージでやりとりはしてるけど……」
常識的な頻度で、と心中で添えながら「特に変な様子はなかったよ」と締めくくる。
『本当に?』
回線の向こうで首を傾げているらしいエルヴィンの口ぶりからして、一ヶ月に一度は会う友人が見目でわかるほど元気を失くしている原因にハンジを定めて架電してきたようだが、あいにくこちらには思いつく節がなかった。
大きな声では言えないが、長期の出張が決まってこの地に飛んできたばかりの三ヶ月前のハンジは、しっかりホームシックにかかってリヴァイに電凸しまくった。相手を束縛するタイプのパートナーのように昼夜問わず連絡をとって、ひたすらくだらないことを話して、返ってくる声や文字を端末ごと抱きしめていた。
それだけでも問題だったのだが、さらに拙かったのは、リヴァイがハンジの友人に過ぎなかったという点だ。親兄弟でもなければ恋人でもなく、家族でもない彼はハンジの精神衛生維持向上になんの義務も持たない状態で、それでも深夜の寝室に鳴り響くコール音を無視はしなかった。昼日中の炎天に炙られながらリヴァイを求めるハンジに『何時だと思ってやがるクソメガネ』とひととおりの罵声を浴びせて、それからいつも通りの声を聞かせてくれていた。
仕事は忙しかった。
部下たちから「また電話ですか?」と心配そうな顔もされた。
これはおかしいんじゃないか、と自分で気づいたのは一ヶ月が過ぎたころだ。
そもそも、旅立つ前の歓送会で誰でもないリヴァイから「大丈夫なのか?」とじきじきに確かめられたじゃないか。ハンジはその裏も揶揄いもなさそうな質問に頭っから爪先まで驚いて、「大丈夫じゃないことなんてあるかい?」と訊き返した。
現地の言葉だって読む書く聞く話すは日常的にできるし、生活能力だってある。十代のころから一人暮らしも集団生活も外国暮らしも経験してきた。
――「大丈夫なのか?」
珍しくまっさらな憂いが滲んでいた、リヴァイの表情を思い出す。大丈夫じゃないことなんて、あるはずがない。あの時の自信を覆している今の自分はなんと格好悪いのだろう。
それで、二ヶ月目には耐えることを覚えた。「リヴァイに、」と衝動が起きても、「リヴァイは、」とすぐに切り替える訓練をした。リヴァイは今仕事だ。リヴァイは今お昼ご飯を食べている。リヴァイは今飲みに行っている。リヴァイは今、……ハンジと話す気分ではない。
仮定の中でも彼から自分に線を引かせれば、ハンジの中で蠢く『リヴァイにだけ指向する奇妙な希求』は徐々に落ち着いていった。そうしてようやく〝常識的な頻度で〟……ともすればそれよりも少ない回数の連絡をとれるようになった四ヶ月目、こうしてエルヴィンから別の問題が持ち上がったというわけである。
「そっちこそ、リヴァイとは最近会ったの?」
『昨日いつものところで飲んだよ』
羨ましいな、と内心唇を突き出しつつ、だったら話が違ってくるな、とも思う。エルヴィンはリヴァイに直接会い、彼の意気消沈の原因がハンジであると判断する何かを得て火急的に連絡をしてきたということになる。腹の中に、ポトン、と石ころのような冷たい緊張が落ちてくる。
「……彼、なんだって?」
『それは言えないな』
「はあ?」
脚をかけた瞬間に梯子を外された気分だった。登る前だったのが幸いだが、これでは状況を俯瞰できない。
「言えないってどういうこと? 私のことを話したんじゃないの?」
自信過剰などとは言わせない。エルヴィンのここまでの言動は明らかに、昨晩の話題にハンジが上ったことを示している。だが、彼は会話の内容についてだけ口を割ろうとしない。
『アイツの沽券にかかわる。友人としてそれはできない』
「沽券……? リヴァイの社会的な評価が下がる可能性があるってこと? コンプライアンス違反でも犯したの?」
『世間がどう思うかじゃないさ』
「……私が、ってこと?」
ますます意味が分からない。一体どういう話をすればハンジの中のリヴァイの評価を下げることになるのだろうか。まさか、リヴァイに全面的に管理を任せているハンジの家に侵入して、許可なく私物を売り払ってしまったとでもいうのだろうか。金に困っているなら喜んで相談に乗るし、事後でも正直に話してくれれば許さないわけがない。いや、そうじゃない。そもそもリヴァイがそんなことするわけない。
「彼に失望したり、ましてや嫌いになったりするなんて、私に限ってはあるはずがないよ」
『俺もそう言ったよ。だがなハンジ、男ってのは際限なく格好つけたいものなんだ』
格好つけたい。つまり、この場合の『評価』=「格好いいかそうでないか」ということか。犯罪に関することじゃなくてよかった。少しだけ肩の力を抜いたハンジは、「話の内容は言えないけど俺の所感を最大限述べるからそこから推察しろ」というエルヴィンの二方向に篤い友情を感じ取り、時差12時間の距離にいる彼と素直に膝を突き合わせることにした。
「……私、そんなにリヴァイに〝格好いい〟を押し付けてたかな」
『お前はどう思う?』
「ちょっと待って……」
メッセージアプリを開き、リヴァイと頻繁にやりとりしていた三ヶ月前まで遡る。
木を彫って造られたという筋骨隆々な神の像の写真を送り、「リヴァイみたいですっごくかっこいい!って写真撮りまくってたら現地の人が一緒に撮影してくれたよ」――返信は「そうか」。
向こうの日付が変わる前に電話をかけたら不通で、それから一時間ほどして「部下のミスで今まで対応中だった」とわざわざかけなおす許可を求めてきた彼に、「最後までついていてあげたんだね。格好いい上司じゃないか」――返事は「まぁな」。
背筋が寒くなった。試しにメッセージ内を「かっこいい」で検索すると、出るわ出るわ、リヴァイに向かって賞賛の意味で使われているものに始まり、送った写真、動画、ハンジの角膜に残る像、こちらで出会った誰か、そのほかの諸々に対して、ハンジは息をするように「格好いいね!」と口にしていたのだ。震える手で電話に戻る。
「エルヴィン、言ってた。私すごく〝格好いい〟って言ってた。本当に、親の名前より言ってた。確かにリヴァイに押し付けてたかも。男の人って格好いいものが好きだよなって勝手に決めつけているところもあったかもしれない。本当は〝可愛い〟が好きかもしれないのに」
『早まるなハンジ。少なくともリヴァイは〝可愛い〟に特別な感情はないよ』
「そうかな……?」
エルヴィンに指示され、一旦深呼吸する。落ち着きを取り戻したハンジは冷静に「次」を考え始めた。
「ええと、私が単純に評価基準を〝格好いい〟から改めればそれで解決……って話でもないんだよね? リヴァイは私を起因とする何らかの理由で急激に元気を失くしていて、君がこうして緊急でSOSを出してくるくらいには対処を急がないといけない。だけどその『理由』は、私がリヴァイに押し付けてきた〝格好いい〟が壁となって君の口からは教えられない。ここまではいい?」
『けしかけておいてなんだが、その点についてはお前が気に病むことじゃないよ。アイツが勝手に格好つけてるだけだ』
エルヴィンがいきなり掌を返したので、ハンジは電話越しに目を丸くしてしまった。
「どういうこと?」
『格好いい、なんて古今東西世間一般的に使われている、特別でも何でもない言葉だ。お前はリヴァイ以外にも頻繁にそういう形容を使っていたし、お前以外の人間がリヴァイをそう形容することだってあった』
後者は初耳だった。頭の一部に黒い靄がかかりそうになるのを戸惑いながら払い、ハンジは「それで?」と続きを促す。
『言っておくが、相手は男だし、言われたリヴァイも心底疑うような目で彼を見ていたよ』
「べ、別に気にしてはいないけど! 変なの、リヴァイが格好いいのは間違いないのにね」
エルヴィンは軽く笑うだけで肯定しない。だからこそ、リヴァイは彼の前で〝格好いい〟を脱ぎ去った姿を見せられたのだろう。沈みかけるハンジを導くように、『本質はそこじゃない、ということだ』と深い声が続く。
『ここ二三ヶ月、お前とリヴァイのあいだに何か変わったことはなかったか』
「それは……」
以前ほど連絡をとらなくなった。が、それだけだ。
「あるにはあったけど……正しい形になったってだけだよ。それでリヴァイの様子がおかしくなるなんて、ありえないと思う」
『ふむ。提案なんだが、今夜アイツに電話してやってくれないか』
「ええ?」
また急な転換だったが、エルヴィンなりに考えがあってのことだろう。ハンジはとりあえず了承する。
「構わないけど、力になれるかはわからないよ? それで、何を話せばいいんだい?」
『特別なことは何も。ただいつもどおりに話せばいい。アイツもそれを装うはずだ』
「……?」
『一つだけ、気を付けてほしいことがある』
声が低くなり、一気に真剣みを帯びる。ハンジは背筋を伸ばした。対面でなくともこうして心を掴まれて操作されるのだから、どこからどこまでが彼の掌の上なのかわかったものではない。果たして、彼の指令が下る。
『〝格好いい〟ではなく、他の言葉で、アイツにお前の気持ちを伝えてやってくれ』
「他の言葉……」
『そうだ。これは俺の見解だが、リヴァイはな、〝可愛い〟でも〝賢い〟でも、なんならお前が作った未知の形容でも、本当はなんだって構わないんだよ。お前から自分に向けられるなら、なんだっていいんだ』
「どういう意味……?」
『なあ、ハンジ。なんだっていいんだと言われたら、アイツに一番に、何と伝えたい?』
意味深な言葉を残して、エルヴィンは「そろそろ仕事だ」と電話を終わらせてしまった。どこまでが彼の手の内か知れたものではないが、少なくともハンジには、リヴァイのことを考える余地がたっぷり与えられていた。
『もしもし』
ワンコールで声が聞こえてきたので、ハンジは慌てて紅茶を飲み下す羽目になった。
「やあリヴァイ、いま話しても大丈夫?」
『相変わらず急だな……少し待て』
聞く限りは以前と、――最後の通話が二週間前なので、その時と――変わりがないように聞こえるが、直接顔を合わせたエルヴィンはこれを指して「萎びて腐って溶けていた」と言っていたのだ。「いつもどおりを装うはず」という彼の予想は当たっていたことになる。ハンジに対して格好つけている状態ということなのだろう。水音や衣擦れ、陶器が小さくぶつかるような音のあと、静かになった空間からリヴァイがようやく一声を発する。
『それで、何かあったのか』
「ううん。声が聞きたくなって」
『……何か言われたのか』
付き合いの長さがそうさせるのか、リヴァイもエルヴィンも、ハンジの含みを持った言動には敏感だった。私ばっかり筒抜けなんだなぁと自分に呆れつつ、ハンジも特段隠すようなことはしない。
「エルヴィンのこと? 心配してたよ、リヴァイに元気がなかったって」
『チッ。……ほかに何か聞いたか』
「目ぼしいことはなにも。電話してやってくれって言われたけど、私で力になれるとは思えなくてさ。……だからこれは、純粋に私がしたくてした電話」
『っそ、うか』
いつからこんなにぎこちなくなったんだっけ?と考える。毎日のように電話していたころは、一本の大木から掘り出した鐘と槌のように、打てば打つ分だけ小さくて柔くて内側に響くような音を二人で繰り出していた。ハンジが連絡を控えだしてから、その和音が徐々に馴染まなくなってきたような気がする。
だけど、これが正しい距離なんだよね。
そうだろうリヴァイ?
だって、君から連絡をくれることは一度もなかった。
そんなことをクサクサと捏ねて、ちょうど仕事も楽しくなってきて。いびつに歪んだ小さな物ものを、そのまま置いてきてしまったのだ。会えない状況は事態を複雑にするらしい。じかに彼を視界に捉えて、声を聴いて、触れられたなら、きっとこんな思いをすることもなかった。
「……リヴァイ。私がいなくて、寂しい?」
『は……』
絶句の気配があった。当然だ。今日の今日まで、ハンジがどれだけ「寂しい」「帰りたい」「会いたい」と言い募っても、リヴァイは同じ言葉を返すことはしなかった。翌日にはもう「この仕事が楽しい」「あの人が面白い」「ここに来てよかった」と声を明るくするハンジを見越してか、黙って話を聞くに徹してくれていた。ハンジもその深い受容に感謝していた。けれど、遠い異国の地にようやく足をつけられて、複雑な事態をしっかりと通り抜けた今。しみじみと思うことがある。
「私はね、ずっと寂しいよ。故郷も恋しいけれど、これは別の寂しさだ。本当は、毎日でも君に会いたいって思ってる」
『ハンジ』
名を呼ばれ、口を閉じる。今日はハンジがリヴァイの話を聞く番だ。これからずっとそうでもいい。そこから格好よくない何かが飛び出したって、一向に構わない。ハンジはむしろ嬉しいと思うだろう。
リヴァイの吐息が聞こえた。常ならぬ惑いに乱れて、何か大事なことを言おうとしているのだとわかった。
『俺は……お前が、夢を叶えるために行くと言ったから、……何も』
「……っハハ」
とうとう明かされた、欠けだらけで、それでもすべてを満たす本音に、ハンジは思わず笑い声をあげていた。
『なんだ』
「ううん」
『言えよ。俺を買いかぶっていたという自嘲か』
「なんだよそれ、違うよ。私はただ、リヴァイのそういうところが……」
格好いい、なんて一言じゃ全然足りない。なんだっていいなら、一番にこれを伝えたかった。シンプルで重くて、引っ込みのつかない言葉だ。
「すっごく好きだなぁって、改めて思っただけ。好きじゃないところなんて、一つもないけどね」
ガタン、と大きな音が聞こえて、電話が切れた。再び鳴ることもなかった。ハンジもかけなおさなかった。今度こそ向こうから手を差し伸べられるまで、自分から連絡を取るのは止めようと思った。ハンジは胸の内をすべて明かした。終わってしまったのか、終わったうえでまた始まるのか、リヴァイの選択に委ねるだけだ。リヴァイがどんな行動に出たとしても、あいにく失望するとか嫌うとか、そんなものとは無縁なのだった。
『やあハンジ、先日ぶり。リヴァイが失踪したぞ』
「部屋の中でなくなる眼鏡か何か?」
二日後。ハンジは旧知の電話が告げた内容にまたも驚愕することになった。聞けば突然有休をとって、誰にも行先を知らせずに忽然と消えてしまったのだという。それなりに異常事態のはずなのだが、電話越しのエルヴィンは今日も沈着に笑みを滲ませ、すべてを見通した様子でハンジに言う。
『ゆっくりしてこいと伝えてくれ。ああ、ビザの期限には気を付けろ、とも』
「行先を知ってるの?」
『お前はどう思う?』
「ちょっと待って……」
ハンジが仮の住まいとするマンションの前に、どうにもこの地の空気から爛々と浮き上がる人影があった。あるいは、ハンジの眼がそう見せていたのかもしれない。人影が振り向き、揺れて。ゆっくりとこちらへ向かってくる。
「……エルヴィン。今度段ボールいっぱいにお土産を送るよ」
『それはありがたい。小さいのでいいから招福キャットを入れてくれ』
電話を切って、スマホをポケットの底に落とした。彼に向き直り、近づく距離の中、へにょりと下がって見える眉尻や歪んだ目元を注視する。きっとハンジも同じ顔をしている。それがたまらなく嬉しくて、無意識に駆けだしていた。
「――リヴァイ! 会いたかったぁ!」
飛びついて抱きしめて、抱きしめ返されて、それだけで、頭蓋の中が涙で満たされる心地になった。頬を包んで覗き込んだ顔は、なぜか予想に反してむくれている。「どうしたの?」と首を傾げると、極限まで小さくなった声が、それでもハンジにだけ届く量で無茶を紡ぐ。
「……もう、満足したか」
「はは、全然っ! 君は?」
一度目を逸らした彼は、しかし何かを覚悟した様子でハンジとまっすぐ目を合わせる。揺らめく炎が、内側から彼の瞳を舐めている。綺麗だな、とハンジは思った。これに燃やされるなら本望だ、とも。
「満足……しないだろうな。これからも、ずっと」
「そっか。そういう気持ちも、君から直接、いっぱい聞きたいな。……これからも」
しばらく二つになって揺れていた影が、隙間もないほどくっつきながら、とうとうマンションの中に消えていく。互いのどこかを掴む手は、病めるときも健やかなるときも、腐る時もかっこよくない時も離れぬことを誓って、一年後に一揃いのリングを嵌めるのだった。
〈了〉
(初出 24/01/04)
(更新 24/05/23)