地獄にクピド
痴話喧嘩を目撃される二人の話
地獄にクピド
痴話喧嘩を目撃される二人の話
この学校には、最強の清掃員がいる。
学校側が直接雇った人間ではなく、外注の清掃会社から派遣されてきている。毎日毎日校内のあちこちで熱心な仕事ぶりを見かける真面目な男だ。
ただし、背負ってる噂が尋常じゃなくヤバい。
この街どころか州を跨いで大勢の犯罪者たちを裏で仕切っていた過去があるとか、殺して埋めた人間の数は千を数えるとか、病的な綺麗好きの理由は体に染み付いた血の臭いを取ろうとしてのものだとか。とにかく付いてまわるイメージが恐ろしい。それを裏付けるように、雰囲気にも眼光にも、振り下ろしたナイフの風だけで人を蹴散らせるような鋭さがあった。
「かくれんぼは終わりか?」
と、いうわけで母さん。僕は今日これから、その恐ろしい彼に殺されます。
**
その日、僕が夕刻までの憩いの場に選んだのは西棟のAV教室だった。
針金で鍵を開けて、施錠しなおし、備え付けの机の下に寝そべってスマホで電子コミックを読みながら、目下僕の学校生活を沈鬱なものにしているすべてが明日まで遠ざかるのを待つ。この教室はその目的を果たすために最適な場所で、僕の心は日中のいつよりもずっと穏やかだった。
けど、誤算が二つ発生した。
一つは、その日に限って僕が居眠りをしてしまったこと。
一つは、——起きたら〝それ〟が始まっていたことだ。
「……ふ、ぅ、ぁ……」
パタ、と床から浮いた何かが再び地面に接する音、そして声に眠りを覚まされた僕は、ぼんやりする頭のまま耳を澄まし、『室内に誰かがいる』という事実にまず息を潜めた。学校というジャングルで生き抜くための処世術が結果的にそのときも僕を助けることになった。
摺鉢を半分にした形の室内に階段状に机が据え付けられ、一番低い位置にプロジェクター用のスクリーンが吊るされたこのAV教室は、さながら小さな映画館のようである。
背の高い場所にある小窓には電動式の遮光カーテンが引ける仕組みで、それを引くか引かないかで簡単に教室内の自然な明るさを調節できるのだ。
僕はそのとき、眠ってしまう前には漂っていた薄明かりが消え去っていることに気がついた。
(カーテン……誰が閉めた?)
音の出所と状況を確かめるために、ひとまず机の下からそっと通路に顔を出す。けれど、
「……!」
すぐそばの、二列下の机の端にいたものを目にして、僕は固まってしまった。
清潔を示す、淡い色の作業着。
校内でその衣装に身を包むのはただ一人、あの最強の清掃員である。
慌てて頭を引っ込め、机の隙間から様子を窺う。見えるのは腿から下のみだったが、それだけでも多くの情報を得られた。
まず、清掃員の両脚は「ここからすぐには動かない」とでもいうようにしっかりと地面に立ち、ついでにその意思を重ねるかのごとく〝誰か〟の脚にピタリとひっついていた。
そう、誰かだ。清掃員のほかに誰かがいた。あいにくそちらも腿から下しか見えなかったので誰であるかの特定には至らなかったけれど、広い手がまさぐるスラックスの線を見るにどうやら女のようだった。
どっ、と冷たい汗が噴き出す。耳の奥でドクドクと血管が脈打ち、いつのまにか派手に鳴り出した「くちゅくちゅ」なんて水音とともに脳内を爆走しはじめる。
暗い部屋。密着した男女。湿った空気。
見なくてもわかる。何が起こっているのか。あるいは、これから何が始まるのか。
僕はよりによって、あの校長より恐ろしい清掃員がナニしてる現場に居合わせてしまったのだ。
(死ぬ……!)
ここにいるとバレたら、僕は間違いなく殺される。清掃員はきっと持てる掃除道具すべてを使って、僕の存在を死体も残らぬよう無にしてしまうだろう。
恐怖でその場から動けなくなった僕を置いて、清掃員と女はどんどん盛り上がっていく。
「……ね、駄目だよここじゃあ……」
潜められた声は秘事にふさわしく低まっていて、けれど柔らかな高音も含んでいて、脚の持ち主が女であることを確かにする。
「下校時間は過ぎてる」
「でも……」
「俺の出勤時間も終わってる」
(じゃあ帰れよ!)
ちっとも納得に至らないその言葉で、どうやら女のほうは絆されてしまったみたいだった。知ってる。エロいことをしている人間の判断力は劇的に下がるんだ。その証拠に、清掃員の両手に尻を揉まれた女は作業着に密着しながら「んぐっ」なんて甘く呻く。
もしかしたらキスだけで終わるかもしれないと期待を抱くも、清掃員が女を軽く抱えて机に載せてしまったので「ダメだこりゃ」と頭を抱えた。なんて鮮やかな手つきだ。きっと日常的にこんなことをしているんだ。
学徒の学び舎で! クソ! クソ大人!
「だ、めだってばっ!」
と、女の強い声が響いた。声量にも驚いたけど、まさかさっきの様子からここまではっきりとした拒絶が出てくるなんて思わなかった。
「ここどこだと思ってんだよ、学校だよ!?」
「このあいだパコったのも校内じゃなかったか」
「ぁあああれは駐車場! く、車の中だったし、夜だったし!」
(やっぱり前科持ちかよ! クソ大人!)
「ああ、お前がだらっだら垂らしまくったおかげで掃除のしがいがあったな。いまだに雌クセェもんで運転中も反応しそうになる」
「っじっぶんで言ってて恥ずかしくないの!?」
僕より十以上年齢を重ねているであろう男が、ものすごく馬鹿みたいな言動をしていることに衝撃を受ける。エロに染まった脳みそとはいえただの男じゃないんだぞ。最強の清掃員だぞ。
「しょうがねぇだろ。思い出すだけで脳の血管ブチ切れるんじゃねぇかってほどヨかった」
「それは、……ん、耳舐めないで……」
自分で言ってて恥ずかしくないのかな、この人たち。
(ああ、でも)
低脳な会話を過剰摂取したせいか、思考が逸れていく。清掃員はきっと、相手の拒絶を許容したうえで引きずり込める程度には何度もこの女とこうしたことがあるのだろう。それってつまり、
(恋人、ってことだよな?)
「……リヴァイ」
僕の予想を肯定するように、女が初めて清掃員の名を呼んだ。そうだ、彼は確か『リヴァイ』という名前だった。耳慣れない文字の連なりが、女の甘く掠れた声で紡がれたことによって僕の脳に強く染み入ってくる。
胸が苦しくなった。僕もいつか、僕の名前をこんなふうに呼んでくれる女の子に会えるだろうか。
(その前に殺されちゃうか)
ふと我にかえるまでのあいだで、女と清掃員はなぜかまたキスに興じはじめていた。
「はあ、ん、りばい、」
「……なあ、舐めるだけだ」
「だめ……絶対、んっ、床まで汚すから」
「安心しろ。俺が片付ける」
「安心する要素皆無なんだってば!」
バシッとそれなりに大きな音が響く。言うことを聞かない男が女に罰を受けたらしい。
「いてぇな」
男の声は痛くもなければ怒ってもなさそうだった。強者の側に立つ余裕を感じたけれど、それはそれとして。人間どころか植物や空気さえ平伏させる力があるのでは? と思うほどに恐ろしい鋭さを持つあの清掃員が、恋人と戯れている。
校内では汚れを生むものに徹底的な制裁を行う彼が、プライベートな時間には恋人を悦ばせるために膝をつき、汚れを生み、その汚れを自分の手で綺麗にするまでしているらしい。
愛ってすごい。人生で初めてといえるほど馬鹿デカい恐怖が、お馬鹿なカップルの一幕に塗りつぶされ……まではしなかったけど、暗黒の下からうっすらと極彩色を覗かせる程度には薄まっていく。女に対する清掃員の態度は彼のイメージを砕くには十分だった。
(耳塞いで寝てたら、さっさとヤって帰るかな……)
思考はもはや諦めに傾いていた。場違いな感動に疲れていたとも言える。だから僕は、この逢瀬の雲行きが怪しくなっていたことに気づかなかった。
「だっ、もう……! リヴァイッ」
アレッと思った。女の拒絶の声に、甘さではなく涙の湿りを感じたからだ。
「……どうした」
「流される私も悪いけど、いつもこんな……手軽に抱けるみたいな、扱いして……」
恋人同士でも性行為の強要は犯罪になるという。女が本気で拒否しているなら、たとえ恋人であろうとも男はそれを受け入れるべきだ。だけど本気の拒否ってどこまでを言うんだろう、なんて考える僕の耳にとんでもない言葉が聞こえてきた。
「……恋人でもないのに」
「え゛っ」
明かされた衝撃の事実に思わず声が出る。慌てて口を塞いで耳をすませるがどうやら二人には聞こえなかったらしい。話を続けているが僕はそれどころではなかった。
(恋人じゃないのかよ!)
じゃあお馬鹿カップルじゃなくてただのお馬鹿じゃないか! 頭に『お』をつけて丁寧語で読んでやる! 大馬鹿!!
「とにかく、もう金輪際こういうのはやめようよ……お互いのためによくない、から」
一際はっきりした声が聞こえて、それから一人分の足音がした。教室を出ていく気配のあと、重たいほどの無音が響く。僕はその空虚に、女の最後の言葉がポワポワと浮いている気がしてならなくて——
「かくれんぼは終わりか?」
「っひーー!!!」
ポワポワどころじゃない顔が目の前に現れ、心臓の動きを数秒、確実に止めた。
(見つかっ……!)
いや、違う。男は音もなく目の前に現れた。僕の存在は既にバレていたのだ。きっとさっきの声で気づいたに違いない。
這い出ることもできずに震える僕へ、最強の清掃員ことリヴァイこと殺し屋が、両眼をギラつかせながら手を伸ばしてくる。
「チッ、埃くせぇな」
「あ、あ、あびゃびゃ」
「ナメてんのか?」
ブンブンと頭を振る僕の腕が捉えられ、とうとう、ずるりと机の下から引きずり出される。
「……さて」
白日のもとに晒されて一番に「服をはたけ」と命令されカツアゲを覚悟したが、どうやらポケットの小銭には興味がないらしい。男は机に腰掛け、脚に肘を置き、頬杖をつき、今すぐ僕を捻り殺しそうな顔で徐に口を開く。
ああ、母さん。僕は今日これから、この恐ろしい男に殺され——
「要求はなんだ」
「は、は、はひぃ?」
「先公にもビビられてる俺の弱みを握ったんだ。とりあえず言ってみろ。聞くだけ聞いてやる」
「は、……ん……?」
恐怖一色だった脳の真ん中に、不意に、小さな空白が現れる。弱み?——要求?
「え!? 僕が脅す側なの!?」
「……どうやらまっとうに育ってきたガキらしいな」
なぜか母さんのことを褒められたと思ったら、男は、ふう、と溜息をついた。その全身からわかりやすいほど険しさが抜けていく。それを見た僕は「助かった」と思った。だってあとに残ったその人は、理不尽な暴力を振るうような悪漢にはどうしても見えなかったからだ。
「悪かったな」
「あ……はい……」
「ガキにこんなこと言えた義理でもねぇが、今日のことは黙っててくれねぇか」
「えっと……」
答える前に、なんでだろう、と疑問が膨らんだ。それは今いま生まれたものではなく、この教室で珍事が繰り広げられていた時から僕の中に積もっていたことだ。
「せ、『先公にすらビビられてる』のに、僕の要求を聞こうとしてたんですか……?」
先生にすら恐れられるなら、学校の持つ権力はこの男にとっては瑣末なものだということになる。それもどうなんだよと思うけれど、だったらわざわざ僕の要求を聞いて口止めなんかしなくていいはずだ。真実を喧伝されたところで痛くも痒くもないのだから。男は唇を引き結んで何も言わなかったが、僕は自分の思考にハマっていた。
「いや、自分の身を守る必要は、ない……?」
そこで、ふと思い出す。この場にいた人間で、ああいう行為をしていたことが学校にバレたら、本格的にまずい人。
「あ。もしかしなくとも、さっきの女の人が、この学校の先生だから……?」
途端に、どう、と重たい圧が肩に乗っかって、僕は膝をつきそうになった。汗が噴き出して、胃がひっくり返る気がする。それもこれも全部、目の前に座る男の発した威圧のせいだ。
「そういう物言いをするってことは、……アイツが誰なのかまでは、わかってねぇワケか」
「ア゛……はい……」
「そうか」
少し考える素振りを見せた後、清掃員が立ち上がる。今度こそこの世からの解放を覚悟していた僕は、くるりと向けられた背を間抜けヅラで見る羽目になった。
「鍵は閉めとくから帰れ。もう遅い」
どうやら、この支配からの解放を勝ち取れたらしい。なんとか足を前に踏み出し、こわごわと男のそばを通り過ぎ。やめておけばいいのに、振り返ってしまっていた。
「あの、さっきの……『聞くだけ聞いてやる』って、やつ……」
「あ?……ああ。意外と肝が座ってんな、お前」
生意気にも「要求はなんだ」の言葉を掘り返した僕に、清掃員は首を傾げるだけで、殴ったりはもちろん、笑ったりもしない。どうしてかそれが、僕の勇気を讃えているように思えて。
「さ、さっきの女の人に、ちゃんと、あなたの気持ちを、言ってあげてほしい……です」
「……」
(調子に乗ったー!!!!)
男の顔が今日一番翳るのを見て、やっぱり死を間近に感じた僕はもはやヤケクソになった。
「ぼ、ぼ、僕! 毎日他人に、面白いコンテンツとして消費されてるんだ!」
ああ、こんなこと言ってどうするんだ。
そう思うのに、何かの拍子に生まれた大きな感情が、ずっと心に埋めていたものも引きずり出してしまう。
「どつかれて笑われて、僕の気持ちなんて『友達だから許してくれるよな?』って感じで無視されてる!」
暇で暇でしょうがない人生勝ち組連中に追い回され、面倒な毎日を過ごしてきた。門の前で待ち伏せまでしはじめた奴らから逃げ回るのにもいい加減うんざりして、たどり着いたのが隠れることだった。
だけど。どうして僕が逃げ隠れないといけないんだろう。弱いから? 強い奴らに搾取される側だから? そんなの理不尽だ。僕だって、あの女の人だってひとりの人間なのに。
「さっきの女の人はあなたにとって、一方的に消費してもいい人なんでしょうかっ! あの人がどんな気持ちでいても、一緒にいて自分だけが気持ち良いならそれでいいんでひょーか!」
噛んだ。早口で涙混じりでヨダレまで垂れてきて、みっともないし、言いたいことが伝わってるかもわからない。混乱した僕の頭は、だんだん余計なことまで叫び始めた。
「女の体液いそいそ掃除して喜んで! 自分のこと放っておいて庇おうとするくらい好きなクセに告白もできないのかよ!」
「オイ」
「あの女もあの女だ! なーにが『お互いのためによくない』だよ! 青少年の情操教育に悪いことしといて結局自分たちのこと第一かよ! 『ダメ』ばっかで『イヤ』がない時点で好きって言われたいだけの構ってちゃんムーブじゃんか!」
「ちょっと待て」
「全員バーカ! 嫌いだ! クソッタレ‼︎」
バーン! と音がして、とうとう殴られたかなと目を開けたら眼前には夜の廊下があった。どうやら殴っていたのは僕で、殴ったものは教室の扉だったらしい。見下ろせばまごうことなき僕の体が駆け足をしていて、そこでようやく、激情の爆発が勝手に僕自身を動かしたらしいことを知った。やることが逃亡なのが僕の脳と体だ。えらいぞ。
そのまま振り返らず、止まることもなく、僕は帰路を走った。出迎えた母さんの顔を見て少し泣いたのは別にどうでもいいことだ。
**
視界の隅にいつもの連中が歩いてくるのを見とめ、僕は手を止めた。けれど不幸にも指だけは止まらず、つるりと滑った硬貨が自販機のスリットに飲まれてしまう。ああ、ちくしょう。せめてジュースか小銭どちらかは回収したい。
慌ててボタンを押そうとした僕の頭上に、ぬ、と影がかかる。まさか、もう接近されたのか。
うんざりと顔を上げた僕の横にいたのは、あの最強の清掃員だった。外履き用の箒とチリトリとを携えた彼が、あの夜から数日後の今日、僕のタマを取らんとそばに立っていたのだ。
「ひーー!!」
「礼をしにきたんだが」
「ありがとうございます!!」
「お前にしろとは言ってねぇよ」
清掃員の肩越しにジョック連中の青い顔が並ぶのが見えて、「ああ、これが虎の威を借る狐か」と搾りかすのような気力で思う。この虎は威を貸してくれたあと狐を食い殺すだろうけど。
(ん?)
「礼……?」
「ガキに焚き付けられちゃ、さすがに俺もなあなあにするわけにはいかねぇからな」
言っていることの意味がイマイチわからず、そう遠くない彼の顔を見る。目を逸らした彼の耳が、少し赤い。ピンときた。
「ーーあ、」
「オーイ、リヴァイ!」
僕が何かを言う前に、背後の校舎から声が飛んできた。とんでもないことに、清掃員を名前で呼んでいる。少し高い位置から聞こえたそれを辿って視線を巡らせれば、二階の窓から手を振る人物が見えた。
「……ゾエ先生……」
清掃員ほどではないけれど、やはりこの学校の要注意人物と評される存在、——化学のゾエ先生だった。
一見して男か女かわからない身姿に、授業や化学のこととなると生活を簡単に犠牲にする悪習、準備室で法外な実験を繰り返しているという噂、そしてなにより、この清掃員と校内でよく会話しているという目撃情報が重なり、実像よりも随分悪く目されている人である。
どうでもいいけど、本当になんなんだよこの学校?
ゾエ先生は清掃員のそばにいる僕に気づくと、呼びかけていた当の男のことを放って先日提出したレポートについて大声で褒めてくれた。いろいろと変な人ではあるけれど、学業に勤しんでいれば小さなことでも絶対に評価してくれる先生のことが僕は苦手じゃなかった。
「選択は化学か?」
「え、あ、はい」
「……そうか」
背後から問われ、ちらりと顔を動かして答える。含みのある表情にちゃんと向き直る前に、ゾエ先生が本題を思い出したらしい。
「そうだリヴァイ! ボトル忘れてるよー!」
そう言って振った腕の先に、ピカリと光る紫のステンレスボトルがあった。見た目には小さくて軽そうだ。
「投げようかー?」
「いや、いい!」
驚くくらいの声量が清掃員の口から飛び出し、僕は肩を跳ねさせた。思わず彼を振り返る。
「すぐ、取りに行く」
一転して低く抑えられた言葉は、果たして、先生に届くかというほどの囁きで。
代わりに一語一語を象った唇が、その最後に、うっすらと笑みのようなものを浮かべて。
瞳だけはじっと、たった一人を見つめていて。
(あ、)
僕はまた、二階の教室の窓を仰ぎ見た。
視線の先には、窓の縁に頬杖をつき、やはり僕たちを見下ろすゾエ先生がいる。下がった眉尻に細めた目、うっすらとピンクの頬。何事か呟いて、柔らかく閉じる唇。急に丸みを帯びはじめる、女の輪郭。
(あー…)
すべてが、ピタ、と一致した時だった。
「おおおおぉい! お前遅えよいつまで自販機と遊んでんだよ!」
グン、と腕を引かれ、視界がスライドする。驚いて力のもとを見ると、てっきり清掃員の姿に尻尾を巻いて逃げたと思っていた連中が、白くて汗だくの顔を精一杯明るいものにしながら僕を囲んでいた。
「あっいつもお疲れ様でーす! それでは!!」
「えっ、ちょっ……」
「ばかっ、お前! あの男とゾエ先に関わるなよ!」
「えっ」
「知らねぇのかよマジでやばいんだぞ死ぬぞ!」
「?、?」
耳元で矢継ぎ早に囁かれ、焦りをまとった複数の腕に引きずられあっというまにその場から離される。遠ざかっていく清掃員は少し呆気に取られたような顔をした後、首を傾げ、それから僕を見て「さっさといけ」とでも言うように手を振った。
あとはもう、ゆっくりと背を向け、その先で窓辺の先生と何かを交わしはじめる。言葉もなく。
きっと、彼らしか知りえないことを。
「あ〜〜めっちゃ怖かったー!」
「お前! お前な! あーいうときはすぐに逃げるんだよ!」
「本当にさーなにやってんだよー…ほら」
口々になじられ、どつかれ。最後に渡されたのは缶入りのぶどうジュースだった。僕がさっきまで、小銭と秤にかけていたもの。
「……ありがとう」
受け取った手のひらにそれは冷たく沁みて、ジョック、だなんて言葉で一括りにしていた連中の顔が一つ一つ鮮明に見えてくる気がする。
「えっあの状況で自販機いけたの? 凄くない?」
「お前らがあの男の気を引いてるあいだに、ちょちょっとな……」
「やべー」
(言ってみようかな、僕も)
あの最強の清掃員に啖呵を切れたんだ。
本当の気持ちも、聞きたいことも。
たぶん、いくらでも言えるはずだった。
〈了〉
(初出 21/04/25)
(更新 24/07/04)