【再録】Who is this ? …原作/電話で繋がる二人の話
【再録】Who is this ? …原作/電話で繋がる二人の話
私の声が聞こえますか。
あなたの耳に、届いていますか。
望郷と悲恋を綴ったそんな詩を、仲間の誰かが歌ったことがあった。
遠い昔のことだ。
響く和声が誰のものだったかも曖昧だが、泣き濡れた女の姿を連想させるそれに自分が「会いに行けばいいのに」と腐したことはよく覚えている。
『さっさと会いに行けばいいじゃないか。同じ壁の中にいるんならさぁ』
わかってないな、という顔で首を振る仲間たちに、ハンジはさらに「はぁ? なんで?」などと食い下がって。くだらないことで更かしたあの夜、果たして、彼は隣にいただろうか。
「こちらコニー、聞こえますか!」
瑞々しく、それでいて耳をつくほど大きな声が室内に響き渡る。けれど、それを咎める者はいなかった。部屋中の視線と意識は熱を孕み、机上のひとところ──五十センチ四方の木箱と、そこから伸びた皮のコード、コードの先でコニーの手が握り締めている機械──に集まっている。皆が皆、呼吸さえ止めて見守るなか、一秒、二秒。
『こちらジャン。ちゃんと聞こえてるぜ……あ、聞こえてます!』
機械の中から、こもりがちながらも耳慣れた声が聞こえてきた。コニーが興奮した様子で機械に向かって叫ぶ。
「ジャン!? 本当にジャンだな!?」
『そうだって言ってるだろ』
「じゃあ手ェ振ってくれよ! 大きくだぞ!」
言い終わるや否や、コニー以外の眼が弾かれたように開け放たれた窓の外に向かう。なのに指示を出した当のコニーは手元の機械をじっと睨みつけたままだ。ハンジはその肩を優しく叩いた。
「コニー。ジャンが手を振ってるけど、応えてあげないのかい?」
「はっ! そうだった!」
ようやく顔を上げた彼は、しかし今度は持っていた機械を机上に放りだし、皆と同じく窓辺に駆け寄った。
「ジャーン! あはは、アイツあんなに手振ってる」
小さな中庭を挟んで反対側の棟に並ぶ窓のひとつは、ハンジたちがいる部屋の状態を真似るように全開にされていた。その四角い枠の真ん中にジャンが立ち、二十メートルは離れたこちらに向けて大きく手を振っている。隣にはアルミンの姿もある。
夏に差し掛かった空は、それでもいまだ兵舎に眩しいほどの光を落としている。調査兵団支部はマリアの復興と時を同じくしてシガンシナへと移されており、立ち入る人間が多くなるに合わせて何度か改修も行われた。壁や屋根は数年前にここにいたときの記憶よりもずっと新しく、若者たちのあいだから見える明度にハンジはそっと右目を細めた。
視線を下げ、コニーが手放した機械を見る。全体が扉の取手にも似たそれは、二つの碗型の金属部を約二十センチ長の木製の握りで繋いだもので、握りを持って碗型の一つを片耳に当てたとき、もう一つが口の横にくるように設計されている。
先ほどジャンの声が聞こえてきたのは上の金属部、通称『受話器』のほうであり、コニーの声が吹き込まれたのは下の部分の『送話器』だ。合わせて送受器と呼ばれるそれを皮で包まれた銅線で木箱に繋ぎ、中でとある仕組みを動かす。
そうしてできたのが、離れた場所にいる人間同士の声を届け合う『電話』という器械だった。
『ハンジさん?』
不意に、丸い碗型の一つがハンジの名を呼んだ。アルミンの声だ。ハンジは送受器を取り上げた。
「はいはい、聞こえてるよ」
『凄い、本当に音と音が繋がっている! なんなんですかこれは! 一体どういう仕組みで……!?』
音どころか熱まで伝播する声音に、ハンジの口端も自然に緩んでいく。器械が初めて出来上がったときの興奮がたやすく蘇るようで、逸る鼓動を抑えながら口を開く。
「簡単に説明するとね、音というのは空気中に漂うとてもとても細かい粒、分子の振動によって伝わっている。この振動を一旦電気信号に変換した上で、遠く離れた場所にいる人間に伝達する。伝達された側は信号を再度音の振動に変換し、声として受け取るという仕組みだ」
『この器械とコードの中で、その変換・伝達・再変換が行われているということですね。……もしかして、マーレの義勇兵が使っていた無線機も似た構造ですか?』
「さすが、鋭いねアルミン」
長距離間での情報伝達の方法は、海に到達する以前から模索されていた。調査兵団が使用していた信煙弾もその一つだ。
望まぬ形で急激に世界を広げられた壁中人類において、もはや視覚での情報伝達では遅すぎるのではないか。そう考えたハンジは、中央憲兵が秘匿し、歴史から葬り去ろうとしていた学者や碩学の研究を読み漁った。エレンが見たグリシャ・イェーガーの記憶の中にもヒントを探し、技術部とも掛け合いながら、職務の陰で音による伝達の方法を模索していた。
躓きを均すための最後の知識を与えたのは、一ヶ月前にこの島の海岸線に現れたマーレの調査船団と、そこで突如として謀反劇を披露して見せた反マーレ派義勇兵たちだった。
彼らを率いるイェレナと交渉を行った調査兵団は、島外からの技術の一つである無線通信によって後続する船団の動きを読み、あっというまにこれを降すことができたのだ。
彼らが使用した無線通信、および無線機の構造を許可を得て分析したハンジは、そこで緻密な音の変換方法を知ることができた。
聞けばマーレを含む大陸では、既にこの『電話』が利用されているらしい。器械そのものを入手することは叶わなかったが、義勇兵の中で電気工学に詳しい者からも話を聞き、完成に漕ぎ着けたものがコレだった。
「一連の流れには動力となる電気エネルギーが常時必要となるんだけど、これには〝光る鉱石〟を利用した」
目の前の木箱をコン、と叩く。中にはレイス家地下堂から採取した鉱石を組み込んだ、電気を生み出すための光電池が収められている。
「特定の異なる物体を二つ接合させ、その接合面に強い光をあてると、物体の内部で電気が発生する。それぞれの物体に電極と呼ばれる装置をつけ、生まれた電気を取り出して使用するんだ。ただ、光から電気を生み出す際の変換効率は一割の十分の一に過ぎない。この光電池は、半永久的に発光しつづける鉱石あってこその装置なんだ」
『逆にいえば、鉱石が光を発している限りは光電池も電話も使用し続けることができる、ということですね』
「そのとおり。それで……」
先を紡ごうとしたハンジは、ふと周囲からの視線に気づいて顔を上げた。喧騒はいつのまにか止んでいて、騒ぎの中心だった者たちがぐるりと机を取り囲んでいる。視線が電話に集まっていることから見て、どうやら皆、次の順番を待っているらしい。
「ハンジさん、俺もう一回試していいですか!?」
「待ってくださいコニー! 次は私の番です。ジャンはこちらが手を振ったから振り返しただけかもしれません、私がもっと違うことで確かめて……」
「サシャはさっきもそう言ってアルミンに鼻を掻かせた。もう十分」
コニーがハンジの持つ送受機を指差し、サシャが横からそれをはたき落とす。少し後ろに立つミカサが常にない早口で呟き、エレンは何も言わないながらも、記憶のどこかと実物の電話をなじませているのか木箱やコードに触れることを繰り返している。
彼らの行動こそ多様であったが、その瞳は一様に見たこともない輝きに彩られ、キラキラと瞬いていた。雷槍を初めて披露した時の青ざめた相貌とは大違いだ。兵団に長くいては遠のきがちになる年相応ぶりをそこに見て、ハンジの胸のあたりが、きゅう、と苦しくなる。
場違いな感傷だとはわかっていた。
発展と安寧を求めて、王と貴族の秘密保持のために理不尽に殺されてきた者たちの研究成果。いまだ信用のおけぬジーク擁護派がもたらした、エルディア人を奴隷として扱う世界の知識や技術。ハンジが手元に掻き寄せて作り上げたのは、そういう血と無念と憎悪に満ちたものから成る道具だ。彼らの光る眼差しを一心に受けていいものではないのかもしれない。
『──ガキども。はしゃぐのはそろそろ終いにしろ』
「うわっ!」
受話口から聞こえてきた声に、ハンジの意識は賑わいの場に立ち戻った。驚くコニーに苦笑いを投げ、受話器を耳に当てる。木箱を持って窓際に移動し、先ほどまで賑やかな舞台だった向こうを見据える。そこに彼がいた。
「やあ、リヴァイ兵士長! そちらの具合はどうかな」
『このブツのことなら、まあ悪くはねぇんじゃねぇか。俺の部屋のことなら大騒ぎに使われて塵と泥まみれだが』
銅線をつたってきた低音は、生身の口から聞くよりもやはり篭りがちで、どこか別人のようだ。
口元の送話器で電気信号に変換された声は、相手の耳側にある受話器の中で円錐型の板を震わせる。それによって再び空気の振動に換えられ、音として鼓膜を震わせるのだ。
板の材質や重量によって再生できる音域が変わってくることはわかっている。生身の声に近づけるならさらなる研究が必要だろう、と考えこむハンジを、リヴァイがせっつく。
『なんだ、……うんともすんとも言わねぇ。やっぱり不良品か?』
「聞こえてるよ。部屋の件は悪かったと思ってるから。あ、電話線を踏んだりはしてないよね? その線を敷くのにも随分お金と手間と時間がかかったんだ。取り扱いには気をつけてくれよ」
『踏んでねぇよ。お前らも……』
後半は声が遠くなった。見ればリヴァイは送受器から顔を離し、後方の二人に確認している。ジャンとアルミンがそれぞれ頷くのはかろうじて見えたが、返事は聞こえなかった。受話口との距離と聞き取り可能な音の関係もおいおい確認していくことにして、彼の言うとおり、このお披露目会もそろそろ終いにすべきだろう。
「じゃあ、リヴァイ、」
幕引きを告げようとしたタイミングで、リヴァイが再び正面を向いた。彼の耳元に戻された受話器と、外気を突っ切ってきた眼が、ハンジの言葉を待つ。
一秒、二秒。三秒、四秒。
何も交わさない時が過ぎて、ハンジはようやく口を開いた。
「感謝するよ。付き合ってくれてありがとう」
出てきたのは、〝こう言うべきだろうか〟というどこか反射的な予想からなる言葉だった。滑らかに紡ぎおわった舌が、けれど、過去に埋もれていた半透明の記憶に触れる。
『──了解した。通信を遮断する』
ハンジがおぼろげな像を鮮明にさせる前に、リヴァイの声を最後にして音が途切れる。視界をまた向かいの兵舎に絞れば、送受器はアルミンに手渡され、陰に持ち込まれて見えなくなった。木箱に取り付けたフックに掛け納めたのだろう。
「ええ!? もう終わりですか?」
背後から上がったコニーの嘆きに叩かれ、ハンジも振り返って送受器を置きながら皆に笑いかける。
「また機会があったら実験しよう。まだ試作段階だからね」
「だったら、その時はもっと距離を開けて……はっ! ニコロに電話を持ち歩いてもらって、料理ができあがったら教えてもらうのはどうでしょう!?」
「駄目。コードを引きずるから持ち歩きはできない」
「俺はそのニコロとやらの飯も食えないしな……」
賑やかさを保ちながらも、若者たちは終わりを知るとすみやかに部屋の外に向かう。ここがハンジの私室であり、昼の休憩のわずかな時間を割いて集まったことを思い出したのだろう。ハンジも午後からの業務の準備をしなければならない。
ふと、閉め忘れていた窓を越え、相も変わらず降り注ぐ光に網膜を浸す。その向こうにあって室内の黒に切り取られた四角は、すでに窓板も閉じられカーテンまで引かれていた。部屋の主はこれから夕刻まで新兵たちと銃剣の訓練にあたるはずだ。
(『付き合ってくれてありがとう』、ね)
随分と懐かしい台詞が出てきたもんだな、と。今さらながらに追いついた思い出を持て余しながら、ハンジは窓を閉じた。
**
六年前、マーレによるパラディ島への侵入・威圧攻撃に端を発した『始祖の巨人奪還計画』は、一年前にこの地で起きた激闘により一旦は潰えることとなった。
調査兵団は多くの犠牲のもと、ジークが持つ獣の巨人、ライナーの鎧の巨人を退け、ベルトルトが宿していた超大型巨人を手中に治めた。この結果により戦力を減らしたマーレは、自国を取り囲む諸外国との戦争状態に陥っているのだという。
その情報をもたらしたのは、他でもない調査兵団の仇ともいうべきジークを頂天に据え、マーレに反旗を翻した義勇兵一派だった。
「中央の奴ら……追い出せ追い出せって、文句ばっかり言うなら具体的な対抗策を示してみろってんですよ」
このところようやく目を閉じても行き来できるようになった兵舎の廊下を、足音が二つ。心なしか力のないそれに被せてジャンがこぼした怒声は、懐中石灯の明かりに先んじて暗闇を走っていく。
島に上陸した義勇兵と、彼らが提示した『ジークとエレンを引き合わせる代わりに島の発展と防衛に力を貸す』という策に対して信用をおくべきか否かという問題は、兵団中央本部でもいまだに意見が分かれていた。
というか、多数の反対派や中立派を前に調査兵団だけが孤立した形になっている。今日もまた、トロスト区に構えられた本部で一日中「奴らを追い出せ」という非難をやり過ごしてきたところだ。
「耳が痛いねぇ。イェレナたちの力なしに島を守る策を提示できないのはこちらも一緒だ……本部の人間とは口を閉じてるかどうかの違いしかないんだって、心底思うよ」
浴びせられる苦言に内心で納得しながらも、外からもたらされる知識や技術が、島の軍事力を高めていくのもまた事実。近ごろ工事が始まった『港』などは、特に島の発展と防衛にかかせない場所となるだろう。
要するに壁の中の人類は、信用できないと顔を背けている彼らの色に、ジワジワと身を染められていくしかない状態だった。
ハンジの返しを受け、ジャンが慌てて謝罪を口にする。
「あ……すみません、自分のこと棚に上げて、偉そうに」
「こちらこそ、謝らせてすまないね」
本当は、こんな言い方をすれば彼をますます恐縮させてしまうことはわかっていた。わかってはいたが、ハンジの中の疲労が事実に被せる気遣いを放棄してしまう。
(リヴァイならきっと、こういうときも上手いこと言えるんだろうな)
己の不甲斐なさを突きつける思考のはずが、無表情で輪郭が柔いことを言う男を思い浮かべるとなんとなく肩の力が抜けてしまう。黙り込んでしまったジャンに意識を向ける余裕も生まれる。
「ジャン、さすがに疲れたから今日はこのまま部屋に帰って休むよ。君もゆっくり休んでくれ」
足を止めて労をねぎらい、姿勢を正した部下になるべく真っ直ぐ届くよう言葉を選ぶ。
「君や他の一〇四期たちのそういう忌憚のない愚痴を、私は大切にしたいんだ。だからこれからもドンドンこぼしてくれ! まあ、時と場所は選んでほしいけどね」
「……はあ」
沈んでいた表情が、息の終わりに少しだけ笑みを浮かべた。それに「おやすみ」とだけ声をかけて、ハンジは一人、夜更の行き先を自室に定めて歩き出した。
ふう、と口をついた声に、昔からこんなにデカい溜息ついてたっけな、と白々しく思う。兵服を脱ぎ、眼帯を外して水場で顔を洗い、室内の篭った熱を逃そうと窓を開ける。
向かいの窓には明かりがついていなかったが、夜も更けたこの時間だ、寝ているのだろう、と気にも留めない。
寝間着を着て、寝台に横たわる。このところはますます帰る頻度も減った部屋はどこかよそよそしく、机上の明かりをうけて浮かぶ影が余所者を窺っているような錯覚さえ起こす。
視界を天井から移し、体を横にしてなんとはなしに机の上を眺める。
(……あ)
狭い天板の隅に、ハンジよりもこの部屋に馴染んだ様子で鎮座するものがあった。半月前に試作品を披露して、それ以降使うことのなかったあの『電話』だった。
「やあ……久しぶりだね」
正直、今の今まですっかりその存在を忘れていた。
電気を生み出す光電池の部分はまだしも、空気振動と電気信号の変換を行う炭素粉や振動を音に換える振動板の配合・材質、電話と電話を繋ぐ銅線の確保など、これの発展にはさらなる資金と時間と手間がかかることがわかっている。
海岸線と支部や兵団本部を行き来し、時には義勇兵に与えられた拠点で数日を過ごすこともあるハンジに、それらを費やせるだけの余裕はない。
残念だと思わなくもないが、成果を提示できないものに下手にかかずらう様子を見せれば、また中央から「団長の嗜好品か?」などといらぬ批判を受けるかもしれない。自分が役職に見合った仕事を十分こなせているとは到底思えないが、それは最初から責務をないがしろにしていい理由にもならない。
「……」
目蓋を半分だけ下ろし、眠りの気配を待ってあれこれと思考を巡らせる。
(いまだ明かされないジークの『秘策』なしに義勇兵たちを退けて、島を守り続けられるのか? 空や海から攻めてくる敵に、この島の力だけで、一体どんな……)
脳内に映る像が、海と、船と、銃と──巨大で強大な、制御など及ぶ気もしないものを転々とする。
いつのまにか目元に力が入っていたことに気づいたハンジが、右の目頭を指で軽く押さえたときだった。
ピイ。
室内のどこかから、小鳥の地鳴きを切り取ったような、奇妙な音が聞こえてきた。響くほど大きくはなく、違和を覚えるには十分なほど高い。一度だけ耳に届いたそれを、ハンジはそのままにしておかなかった。
「……?」
体を起こし、周りを見回す。音は机の辺りから聞こえてきたはずだ。じっとそこを注視していると、また、ピイィ、と音がする。
鼠の鳴き声ではない。本当に鳥でも迷い込んだのか? と足を下ろしたハンジは、そこで気づいた。この部屋に、目に見えないハンジ以外の存在があるとしたら。静かに立ち上がり、机までの数歩の距離を息を詰めて縮める。そうして、天板に両手をつき、〝それ〟に耳を近づけた。
ピイ。
「……なんだ」
三度目の声は、先ほど思い出したばかりの電話、もっと言えばフックにかかる送受器からはっきりと聞こえてきた。この電話機から伸びるコードは、扉の隙間から部屋を出て廊下の隅を這い、兵舎の中を数メートル伝ってもう一つの電話機に繋がっている。もう一つの電話機──リヴァイの部屋に置いたままのもの。
場所の選定に意味はない。リヴァイもハンジも多忙を極めるせいでほとんど部屋を使用せず、重要書類なども執務室で厳重に管理しているために、私事においても機密においても『この兵舎の中でもっとも価値のない部屋だ』と判断したためだった。
音の出所を知ったハンジは、そこでようやく思い出した。この高音は口笛だ。電話口にいる相手を呼び出すとき、送話器に向かって吹くのだ、とハンジが皆に教えたやり方だった。
ほっと緊張を解き、しかしまたすぐに体を縮こまらせる。夜も深まった時刻に、リヴァイが何の意味なくこんなことをするだろうか。『緊急・機密』の文字が脳をかすめ、ハンジは汗の滲んだ掌で送受器を取り上げ耳に当てた。
「こんな時間に何の用だい?」
『……』
返事はなかったが、そこには確かに人の気配があった。それがハンジの不審を煽る。
「ええと、どうしたの? 喋れないの? 必要ならそっちに行くけ」
ピイ。
予想もしなかった返答に、思わず言葉を切る。この期に及んで口笛を吹き続ける男の意図が読めず、ハンジは受話器を耳に当てたまま困惑した。
『夜中に口笛を吹くと、コソ泥がやって来るという話がある』
「え?」
ようやく与えられた人間の言葉は、しかしさらにハンジの虚を突くものだった。声は続ける。
『なぜだか知ってるか?』
「えっ。いや、知らないな……え?」
『コソ泥は仲間内で標的を教え合う。夜中の口笛は「狩場だ」の合図だ。だから寄ってくる』
「へえ……」
『以上だ』
受話器の向こうで、カタン、と素っ気ない音がして、それきり何も聞こえなくなった。ハンジは受話器を取った時と同じ姿勢で固まったまま、どうやら終わってしまったらしい通話をゆっくりとなぞりはじめる。
とりあえず、声の主はリヴァイだった。そこは長年の付き合いだ、機械によって多少声が変わっていたとしても、抑揚の付け方や息の継ぎ方で容易に彼だとわかる。だがそれ以降が難しい。彼曰く、『夜中に口笛を吹くと泥棒がやってくる』のは泥棒同士が口笛で合図を送り合っているからだそうだ。
「なんでわざわざそんなことを……」
まったくもって意味がわからないが、以上だ、と締められたならこれで終わりなのだろう。妙な緊張が解けた余波で、ハンジはぬるい虚脱感に襲われていた。かけなおして問い詰めるのもなんだか億劫になり、送受器を置くと、石灯の戸を下ろしてのろのろと寝台に上がった。
「なんだよもう……つまり口笛を聞いて電話に出た私が、コソ泥だって言いたいのか……?」
ぶつぶつと疑問や文句を重ねているうちに、天井からとろりと眠気が被さってくる。ハンジはその夜、籠もった声が耳元で囁いた言葉を何度も繰り返しながら、いつのまにか意識を手放していた。
ハンジが奇妙な通話のことを思い出したのは、それから四日後の夜、口笛が再び鳴った時だった。
「あ~…」
リヴァイに会ったら不可解な行為の意味を尋ねようと決めていたのに、すっかり忘れていた、と額を抑える。それから、そもそもここ数日リヴァイと顔を合わせていないことに気づいた。二人の動線がまったく重ならなかったのだ、これでは言及しようもない。ピィ、と二度目の音が鳴り終わる前に、ハンジはさっさと受話器を取り上げた。
「はいはい、こちらはコソ泥です。そちらはどちら様?」
前回は結局一度も名乗らなかった彼だ、今日もそうなら、彼は名前がない誰かを演じることに何らかの意味を見出しているのかもしれない。案の定、求められたことを素通りして声が言う。
『何か盗んだのか』
「私が? どうして?」
『自分でコソ泥と名乗っただろう』
どうにも上手くいかないなぁ、などと、胸に小さな驚きが刺さる。実物を前にして言葉を交わせば躓くことなどないのに、顔が見えないだけでこうも意思の疎通が難しくなるなんて。普段いかに言葉の外でのやりとりに依存していたかがわかるようだ。
「ああうん、特に意味はないから気にしないで。本当に何か盗むわけないよ。税金泥棒なんて呼ばれることはあるけどね」
『……そういや、暴れる鶏の機嫌をなだめる方法があるんだが。知ってるか』
常になく強引な話し運びに、ハンジはそこで初めて、顔の見えない男の非合理的な行為に愉快な気持ちを抱いた。
そこにどんな意図があるのかさっぱりわからないが、彼が話すのは今のところ、他愛もなくて小さくて、ハンジの資源を消費しない話題についてだ。厭う理由はない。
「知らないなぁ。どういうやり方なんだい?」
『目を隠すんだ』
「へぇ……」
『じゃあな』
数秒後、フックの鳴る音がした。声が告げる呆気ない宣言よりも、物同士が起こすそれのほうがずっと終わりを意識させる。
その点は声だけだろうと生身が伴おうと変わらない。リヴァイは昔からそうだった。「じゃあな」と背中で発した一言よりも、丁寧に閉められた扉で終わりを示した。
だからハンジはいつも、彼が出ていくまでの数秒間に、まるで止める余地が存在するかのような気がしていた。
電話を置き、明かりを消し、シーツの合間に体を滑り込ませる。今夜の添い寝の友は鶏の目隠しについてだ。
(私も今度、感情が高ぶったら隠してみようかな……)
閉じた右眼が誘ったのか、ハンジは早々に深い眠りについた。
それを密会と呼んでもいいのか、確かめたことはない。与えられた職務をこなし、完全に脱ぎ去ることはできずとも限りなく薄くした兵士の皮をまとって、ハンジと彼はただいつも、中身をすり合わせるのに必死だった。
いや、必死になっていたのはハンジだけだったのかもしれない。実際必死だった。
『随分声が変わるんだな。初めて知った』
『……私もだよ』
いつもそばにいるのに、不思議だね、と笑えたのはほんの一瞬のことで、彼が動きはじめると脳はすぐに夜に溶けだした。とうとう声も出なくなったハンジを表情一つ変えず見下ろし続ける彼に、「もしかして顔も溶けちゃってるのかな」と馬鹿みたいな絶望を抱いた気がする。
浮き上がる腰や閉じる脚を何度も掴まれては抑えられ、広げられ、息も止まるほど攻められたけれど、やめて、とは言わなかった。
あのときのハンジは、ずっと必死だった。けれど、必死だったことには気づかなかった。
最後に扉が閉まった時の音を、時間が経ってから思い出して、あれが本当の終わりだったのだと知った時にようやく気づいた。
人並みに惜しむ感情があることに驚いて、苦悩して、けれどそれを取り戻そうとは思わなかった。
壁内はマリア陥落の恐慌に頭まで沈んでいて、ハンジも、兵団にいる誰も彼も、兵士の皮の薄め方を忘れるほかなかったからだ。
(──これを密会と呼んでもいいかな、リヴァイ?)
今夜、片手の指を数え終わった電話越しの彼に、ハンジは内心でそう問いかけてみる。彼はあれからも数日ごとに口笛を吹き、「どちら様?」と問いかけるハンジになんの変哲もない話を被せてきていた。
『太陽を追いかけたことはあるか?』
「太陽?ってあの、空にある?」
『そうだ』
昼間のリヴァイからは到底聞けないような質問に、ハンジも必死で記憶を探る。
「追いかける……ことはしなかったけど、そういえば昔、大怪我をして一ヶ月間医務室送りになったことがあるんだ。その時は窓から一日中陽の動きを眺めていたっけ」
『それは……いつの話だ』
「いつって、入団して二年目くらい」
『初めて聞いた』
ぐ、と喉が詰まる。
最初の電話をとってから今日まで、二週間以上が経っていた。さすがに日中リヴァイと顔を合わせる機会は何度もあったが、ハンジはこの時間のことを彼に訊ねることはしなかった。
夜の会話で名無しを貫くのは〝リヴァイ〟として接しているのではないという意思表示かも知れない、誰でもない彼のことを投げかけられるのはリヴァイの本意ではないのではないか、と考えてのことだ。
なのに、肝心の名乗らない彼が、自分を既知の存在であるように言う。
「まあ、話したことはなかったね」
〝リヴァイには〟と言外に込めて返すと、今度は向こうが押し黙る。
『……このあいだ、太陽が海に沈んでいくのを見た』
誤魔化すだろうとは思っていたので、追求はしなかった。それよりも、彼の口から出た詩的な響きにハンジは目を丸くした。
おそらくは数日前の、三兵団上層部で義勇兵の居留地に赴いた時の話だろう。視察とは名ばかりに酒を出されて歓待を受ける憲兵や駐屯兵を離れ、調査兵団は海岸線の警備を行うための衛所で一夜を過ごした。
ハンジや一〇四期たちにとってはそちらに泊まるほうが気が休まるから、というのが理由だったが、日ごろから防衛に駆り出されて衛所に詰めているリヴァイに部下たちの顔を見せる意味もあった。表情に乏しい彼がどういう心境でそれを迎えたかはわからないが、岸と海の境がわからなくなるほど黒に沈んだ水面を、ただ静かに眺める姿が印象的だった。
「つまり……日没の時間帯の、海を見たんだね?」
『ああ』
「……そう……」
椅子に背を預け、なんとはなしに、ランプに照り映える木目を見る。ぼんやりと眺めていると、それは次第に浜と海面の斑らになっていく。
頭上から降りてくる星と夜に、赤く燃える海と、防波堤に一人佇んでそれに向かうリヴァイの背中。眩しい光に縁取られた輪郭はひとまわり小さく、ため息が出るほど美しい。
想像へ浸るハンジに、声が淡々と言った。
『太陽が沈んだあとの海は真っ黒になっていたが……本当に〝沈んだ〟なら海の底が光っているはずじゃねえのか。……と、思った』
「ふ」
慌てて送話器を抑えたが、あいにく、ハンジの漏らした吐息はきちんと伝わってしまったらしい。笑われたと思ったのか、彼の声がいつにない平坦さで『じゃあな』と終わりを告げる。ハンジは慌ててそれを遮った。
「あーっちょっと待って!」
『なんだ』
「素敵なお話だったよ。聞かせてくれてありがとう。おかげで今夜もよく眠れそうだ」
『……フン』
トク、トクと逸る鼓動を、まさか聞かれてはいないだろうか。いつもの音が鳴るまでの数秒間にそんな心配をしてしまったハンジは、治まらない心臓を抱えて寝台に横たわった。シーツに押しつけた頬は熱を持っていて、冷たい繊維に奪われるそばから温度をあげていく。
リヴァイが、ハンジの知らないリヴァイの内側を、自らの言葉で教えてくれる。今日まで伝えられてきた形のないものたちは、彼が頭の中にある様々を拾い集めて、彼の喉を通して生んだものなのだ。その事実が、ハンジの胸をひどく締め付ける。苦しい。苦しくて、甘い。
ハンジは枕を引き寄せ、そこに深く顔を埋めた。寝転んだ体をぎゅうっと丸め、あちこちが疼いて飛び跳ねたくなるのをじっと我慢する。
電話だけで通じる夜について、リヴァイに訊ねなかったのは半分は自分のためだ。天辺から足の爪先まで十全の兵士として振る舞うリヴァイが、ハンジの迂闊な越境のせいで綻びのようなこの時間まで覆い隠してしまうのが嫌だった。
(リヴァイ。リヴァイ、リヴァイ……)
だからこそ、空気を揺らさないよう、喉の手前で何度も彼の名を潰す。自分をリヴァイだと言わない声に、ハンジもまた、声をリヴァイだと定めない。定められない。だから、ここで音もなく呼びつづける。
泥棒の合図を知っていること。鶏の扱いに少し長けているらしいこと。海で採れた塩を紅茶に入れて後悔したこと。膝まで丈のあるブーツの中にいつも砂が入ること。水平線に沈んだ太陽がどうして海底で光らないのか疑問に思ったこと。
一つ一つが耳に吹き込まれた時のことを思い出しながら、その夜のハンジは、いつまでも眠ることができなかった。
**
彼が体の中からいなくなる時は、大抵が気をやった直後で、余韻というには強すぎる刺激に夢中のハンジが気づくことは稀だった。
全身の痙攣が治まったころにようやく目を開けて意識を向ければ、彼はとっくに服を着込んで寝台のふちに腰掛けていて、ハンジが最初に発する台詞をそこで待っていた。
『リヴァイ、ありがと……付き合ってくれて』
『──じゃあな』
最後の時まで、この一連だけはずっと変わらなかったように思う。
扉が閉まる音を聞いたあと、のろのろと全身を清めて、張り替えたシーツの上に倒れ込む。体を丸めてぼんやりと眺める天井や壁は、数時間前のハンジには迫りくるような閉塞を与えていたのに、リヴァイが去った後の甚大な疲労はそれを捉えることも許さない。
死を、外部から与えられる回避不能の意識の喪失だとするなら、リヴァイと交わって与えられる絶頂も死に近いのではないか、とハンジは思っていた。
彼と交わり生まれ直して目に映す世界は単純な光と線と色に満ちていて、重たい頭と体はハンジを苦しめる対象にさえ「億劫だ」と首を振る。
そうであるから、ハンジは彼を付き合わせていた。
だらしなく伸びた全身は、夜明けととともに兵士の厚さを取り戻す。とても正しく。それがハンジの再生だったのだ。
『死後の世界はあると思うか?』
「……これはまた……昔懐かしい壁教問答の真似かい?」
再び、数度の密通が過ぎていた。
日照時間は徐々に短くなり、夏のあいだは海に照り返して目を焼くほどだった光も、最近は角のとれた柔らかさを孕むようになった。
珍しく敏感に肌寒さを感じたハンジは、愛用のガウンを羽織ろうと手に取り、けれど少し考えてそれを電話に持ち替えた。光電池の収まった電話機本体とコードを両手で抱え、書き物用の机の隅から寝台のそばに据え置いた小さな棚の上へと移す。
そうして、明かりを絞って窓辺に置き、キルト毛布を被って寝台に上がる。口笛が鳴ったら片耳を枕に埋めて彼の声を聴こう。きっともっと心地よく眠れるようになる。そんな密かな期待に胸を躍らせたのは数日前のこと。
『まあ、アレと似たようなモンだ。死んだ後に天国や地獄に行くという話をどう思う』
思いがけない問いを投げてきた声に、寝台に腰を下ろしていたハンジは、なんと応えるべきか、と眉を潜めた。一つ息を吐き、彼の意図を探りながら口を開く。
「そうだね……どうやら我々ユミルの民は全員〝道〟とやらで始祖に繋がっているようだから、死んだら全員同じ場所に辿り着いて、生前の思い出をキレイサッパリ消された後にまたユミルの民として生まれ変わるんじゃないかな」
『……』
何も返ってこない。思考を巡らせる無言ではなく、ハンジの答えがまだ続くと知っている沈黙だ。溜息を飲み込みそれに応える。
「なぁんてね。死後の世界があるかどうかなんて生きているあいだは確かめようがない。不確かなものを行動や思想の基準にはできないよ。少なくとも私はね」
『ないと思っている、ということか』
「思うようにしているってところかな。他人が信じる分には否定しないけど……」
考え込む気配がした。ハンジは急かすことなく待った。声が次に何を求めるのか、何を求めているのか知りたかった。
『──だったら、お前はいつも、墓の前で何を祈ってるんだ』
リヴァイ、と零しそうになった名を無理やり舌で溶かしたせいで、彼の耳にはきっと、不自然な吐息が届いたことだろう。ハンジはそれほど動揺していた。墓前に跪く姿勢を、まさか彼がそういうふうに見ていたとは思わなかったからだ。
数えきれないほどの仲間を見送ってきた。別離の感情に慣れはなく、こうべを垂れるそのたびに足が根を張ったような感覚を味わう。棺や墓に入れられ、整然と並べられたとしても、喪失が与える感情の飛散はしばらく止まない。
それでも、死者が脅かされることなく眠った、と思った時。ハンジは一つの終わりをそこに見出してきた。もう一度起きてほしいけれど、それは永遠に叶わないのだ、と。
「……正直に言うと……自分のために祈ってる。不甲斐ない私に力をくれって、いないはずの死者の目が、私を見て、……背中を押してやくれないかって」
諦めや自棄に似た断絶で、無理やり前を向いても、死者の面影を探してしまうことはある。けれどその縋りは、ハンジにとってはあくまで前に進むためのものだ。そう告げようとした時、
『そうか』
受話口にピタリと耳をつけていても、聞き逃しそうなほど小さな相槌が、ハンジの意気をばっさりと遮った。声はまた少し間を置き、それから一言『悪かった』とだけ告げた。
カタン。送受器がフックにぶつかり、何も聞こえなくなる。今夜の通話が終わった証拠だ。
「……なんなんだよ、もう……」
知らずに滲む涙を、眼鏡の下に差し込んだ指で乱暴に拭う。情けなくて堪らなかった。きっと声の主は、リヴァイは、墓の前に跪くハンジの内心を知って「頼りない」と呆れなおしたことだろう。
呆れるだけならまだいい。ハンジが背負うべきものを、リヴァイが何も言わずに肩代わりしようとするかもしれない。そんなことは絶対に嫌だった。選択肢がなかったとはいえ、守られるために団長になったわけではないのだ。
後悔に追われて布団に潜り込み、冷えたシーツを痛いほど握りしめる。ハンジはその日、明け方まで、叶うことのなかった弁明を心中で繰り返していた。
マリアの地の巨人を殲滅したことで、調査兵の死亡率は歴代でも例を見ないほどの生存率を記録し続けている。当然といえば当然だ。出れば確実に二割は死ぬといわれていた壁外調査がなくなったのだから。
並んだ墓石は列を増やすこともなく、整えられた芝生の隅に、真新しい石が一つだけ建つ。
その日は訓練中に死亡した兵士の葬儀だった。兵士は定められた距離を開けずに雷槍の信管を抜き、爆発に巻き込まれて即死した。
巨人の表面よりも中身にダメージを与えられるよう設計された兵器は、飛び散った破片や火炎で外に長引く損傷を与えることはないかわりに、爆破の威力を限界まで高めている。兵士は体表だけを綺麗に残し、内臓を攪拌された状態だったという。苦痛はなかっただろうという検死結果だけが救いだ。それでも、敵を退けるための兵器で──ハンジの考案した兵器で仲間が死んだことに変わりはない。
兵士は三十を少し過ぎた歳で、駐屯兵団から移籍してきた者の一人だった。兵団を移るのに合わせて、妻と四つになる娘と共に北部からトロスト区へと移ってきたばかりだったそうだ。
「このたびは……夫の事故で、多大なご迷惑を……」
身内だけの葬儀を終えて深々と頭を下げる妻に、ハンジの胸は重石が限界まで詰まった皮袋のようになる。なんとか言葉を重ねて頭を上げさせたところで、濡れそぼった頬を乾かすこともできず、結局肩を抱いてその体に寄り添うことしかできない。罵りであれ、悲嘆であれ、遺族の声は体の中を焼きまわる。
「おじさぁん。お父さん、ここにずっといるの?」
ハンジの背後から、幼い娘の、無邪気な声が風にのって聞こえてきた。彼女は父親の墓の前にしゃがみ込み、隣にいるリヴァイを仰いで墓石を指さしている。
「ああ、そうだ」
「なんで?」
「……お前の親父は、……」
言葉が続かない。珍しく、彼の背中が逡巡に揺れているように見える。肩越しにじっと目をやっていると、答えないリヴァイに焦れた娘が今度は母親とハンジの元へやってくる。
「ねぇ、どうしてお父さんずっとここいなきゃいけないの? おうち帰れないの?」
「ああ……そうね、そう……お父さん、たくさん頑張って疲れちゃったから、ここで眠るのよ……ずっと眠るの」
母親の様相に異変を感じたのか、柔らかくて丸い頬が、ゆっくり、くしゃくしゃと歪んでいく。
「じゃあ、お父さん、もう、会えない……?」
黒いスカートを握りしめて、小さな頭が俯く。母親と同じ形のそれに、ハンジは思わずその場に跪いていた。真っ赤な目元を覗き込み、必死で言葉を探す。
「残念だけど、お父さんのことは……ここに置いていかないといけないんだ」
「……」
「でもね、触れないものは、いろんなところにあるよ」
「……さわれないもの?」
「お父さんの笑った顔、覚えてる?」
こく、と動く顎を見て、ハンジは考える。
「おはようって言う声は?」
「……うん……」
「いつも、君が何をしたら叱ってた?」
「お母さんの言うこと、きかなかったら」
「何をしたら、お父さん喜んでいた?」
「……寝るまえにね、ご本をよんだら、よくねれるよ、ありがとうって……」
「そういうものは、全部、君のそばにありつづけるよ」
青い瞳に吹き込むように、大切に一言一言を紡ぐ。
「お父さんは、君のそばにも、お母さんのそばにもいる。ちゃんとそばで見てるよ。いつもね」
それは生者が願う、どこまでも生者を生かすだけの願いだ。しわくちゃの顔が、ず、と鼻をすすり上げ、深く俯いた。隠れた口からかろうじて聞き取った唸りは、おそらくは了承の声だった。彼女の心細さと安堵を、ハンジはよく知っていた。
「せっかくだから、みんなに会っていく?」
墓地の出口に向かう背中へと、ハンジはそう声をかけた。肩越しに振り返ったリヴァイが「ああ」と頷くのを確認して、〝みんな〟──馴染みの名が刻まれた慰霊碑へと行き先を変える。
シガンシナで没した一九九名の遺体は、数ヶ月の待望の後に、ここトロスト区の街に帰還して丁寧に葬られた。『壁中人類を解放した英雄たち』と女王の名の下に讃えられ、今は静かに眠っている。
「二人で来るの、初めてだね」
「いつもは騒がしいからな……」
今日までの弔問には、必ず、共に戦い生き残った一〇四期を連れて訪れていた。墓地にあってもけっして暗くなりすぎない若者たちの声は、いつもまるで周囲の空気を払ってくれるようで、二人の足音の響きとシンと鎮まった場に秋の匂いを含んだ風が吹くだけの今、辺りの寂しさが余計に際立つ。
中央に建てられた慰霊碑の敷石を踏んで、その周りをぐるりと取り囲む、一人一人の寝所を眺める。ここに来るといつも、等間隔を開けて置かれた白い石を波間の飛沫に錯覚してしまう。それほど、眠る仲間たちの場所は尽きないのだ。
「……多いなぁ」
なるべく軽やかに聞こえるよう、呟く。
「現在の調査兵団はこれの倍の兵士を有しているわけか。そして年ごとに増えていく」
「実地で使える数に絞りゃかなり減るがな」
「重いか?」とリヴァイが問うた。ハンジは一も二もなく頷く。
「重いさ。当然だよ。でもその重さの分だけ地に足をつけていようと思える」
短く息継ぎをして、「リヴァイ」と呼びかける。
「私は、私が団長として足りる資質を持っているとは自分でも思っていない。そこはどうしても他の力を借りてしまう。でもね、」
隣に並んで、目を合わせることもせず、肩幅に開いた兵士然とした姿勢で二人は立っていた。その位置と距離は途方もなく正しい。
「私は常に先のことを考えているんだ。考えていたいと願っている。……それがあなたやみんなの安心材料になるかは、わからないけど」
望むことそれ自体は、生きていてこそ叶う。だから私は望むことを捨てない、と重ねる。
リヴァイは一度、息を吐いて吸った。
「過去に囚われていないと、そう断言できるか?」
「できる」
平気な顔で、ハンジは嘘をついてみせた。長年の精錬によって身に纏う兵士の皮はそれなりに厚く硬くなっている。少なくとも、目の前のたった一人の仲間を騙せるくらいはできるはずだ。
ハンジの即答を聞いて、リヴァイはそれ以上何も言わなかった。目端でうかがう横顔は相変わらず無駄なく締まって、揺れもブレも到底見当たらない。あの夜の気配など、当然どこにもない。
ハンジは安堵した。名を明かさず、こちらの名も呼ばない電話の男は、その線引きを固く守ってくれている。昼間のハンジが甘えを見せない限り、リヴァイは自らの領分を超えて手を差し伸べようとはしないだろう。
彼は変わらない。ずっと昔から。裸になったハンジをどこにも引きずらない。十分に正しい兵士として、それは完璧な立ち振る舞いだった。
──『もしもし、どちら様?』
「だけど」と、胸の隅の、ごくごく狭い暗がりで思う。
急いて、急いて急いて急いて、ぶつかることだけを求めていたあのころに、例えば口笛とおどけた台詞で始まる銅線で繋がれただけの夜のような、他愛もなく、互いの兵士を損なわないだけの言葉を交わせていたなら。もっと、互いの兵士でない部分を知れていたなら。
ハンジの声を、誰でもないハンジとして、臆さず彼に届けていたなら。
隣り合うこの距離の、何かが変わっていたのだろうか。
「ハンジさんって、女性ですよね?」
足音は、リヴァイの一メートル背後で止まっていた。振り向きざまにナイフを走らせれば容易に斬れる範囲に入り込み、そのことを十分に知っていながら、女はへらへらと言う。
「最初は間違いなくそうだと思いましたが、立ち振る舞いには男性のあなたよりも荒さを感じるときがありますし……会うたびに印象が変わりますね。いやあ、不思議な方っ」
波間に揺れる木屑を眺めながら、リヴァイは捻った体の半分で女の鼻先に銃口を突きつけていた。
「お望みなら俺も手荒くしてやるが……まずは鼻の穴でも増やすか?」
「そんな……とんでもない」
萎縮した様子を装いながらも、女──イェレナの声は不気味なほどに上下がなく、首を動かして睨みつけたところで、丸く大きな虹彩は左右に動きもしない。沖合で網にかかったグロテスクな魚を思わせるその眼は、リヴァイがイェレナを信用しない理由の一つだ。
「鼻の次は舌だ。立場に見合った口が聞けるよう、ボロキレみてぇに刻んでやる」
「どうかお許しください、リヴァイ兵士長。無礼な物言いを謝罪します」
「間違えるな。〝俺に〟じゃねぇよ」
そこで初めて、穴のような目が瞬きに途切れる。イェレナはしばしの微笑みの後、頬に食い込む口角をさらに上げた。
「ああ……あの方に、ですね」
「オーイ、そこの二人!」
場違いなほど朗らかな声が、二人のあいだを通り抜けて海まで落ちた。緊張があっというまに散っていくのを感じ、リヴァイは舌打ちを潰して素早く険しさをしまいむ。
ハンジが、含むものなど何もない足音をたてて近づいてきた。後ろに肌の黒い義勇兵の男も続く。
「こんな所にいたんだ! 姿が見えないから探しちゃったよ。オニャンコポンも知らないって言うし」
リヴァイの所在は告げていたはずだから、イェレナのことを言っているのだろう。
「申し訳ありません、ハンジ団長。リヴァイ兵士長と友情を深めようと思いまして」
「そうなの? でも掘れる土がないと深めるのも無理だよ」
「……そうですね」
悪気の一切感じられない声音が、イェレナのまとう空気に少しだけ冷を刺す。そのことでようやく溜飲を下げたリヴァイは、腕組みをしてその場から一歩後ろに退いた。
「それより、マーレの捕虜兵の中に少し話を聞きたい人がいるんだ。一応取り次いでもらってもいいだろうか」
「もちろんです。参りましょう」
結局、ハンジはリヴァイに声をかけることなく、イェレナとオニャンコポンを連れて去って行った。並ぶ背中を強く睨み、他の調査兵たちもたむろする工事管理事務所まで三人がたどり着いたところで、リヴァイも再び海に向かう。
陸地の一部をえぐったようなこの入り江は、船を呼び込むのに最適の形をしているらしく、現在は南部港湾建設地の中心となっていた。
視界に広がる海のあちこちには作業船や作業場の骨組み、人の影が散らばり、岸壁にちゃぷちゃぷとぶつかる波は工事の排水に汚れている。
初めて訪れ、「陸の終わりに来た」と思ったあの時、ここはうるさいほどの光に溢れていた。心底から出しているのだろう若者たちの歓声に、笑顔に。頻繁に高さが変わる透明な水場から、風の重なりのような波の音。飛沫、遠くなるにつれて青くなる海原の広がり。
白い足首。濡れた下衣を体に貼りつかせて、真剣に足下を探る背中。振り返った両手に収まる奇妙な生物。
『リヴァイ、なんてことだ……こんな巨大な……ナメクジ?』
『捨てろ。今すぐに』
まさに戦慄、と言う顔をしておきながら、どうして躊躇なくその対象を鷲掴みできるのかリヴァイにはわからない。ハンジ・ゾエにはそういうところがあった。にこやかに接していながら腹の底に氷を溜めているときもあるし、感謝を伝えながら上の空のときもある。頭の中で起こっていることに身体が追いつかないのだろう。
そのせいで苦さを被る人間の一番は、随分昔はリヴァイだった。けれどその地位も、役職を得て、部下ができて、死なせる側になってと過程を重ねるうちに違う誰かのものになった。
戻ってくることは、恐らくもうないのだろう。
リヴァイは海面を睨んだ。光の乱反射で網膜を焼き、わざと意識を散らす。
この場所は嫌いだ、と思う。
海岸線警備のために駐在しているが、敵は前方以外にこそ常にある。ただでさえ四方へと警戒を投げなければならないのに、胸中には余計な泡立ちばかりが浮かんで疎ましい。
マーレの調査船は、第一次船から半年が経った今も一定の期間を置いて沿岸に現れていた。裏の知れない義勇兵から始祖を宿すエレンを遠ざけようとすると進撃の巨人は使えないため、奴らが持つ無線通信技術を利用して船の鹵獲を行っている。救難通信でおびき寄せ、超大型の出現で威圧し、船とマーレ兵を傷もなく手中に納めるというやり方だ。
新来のマーレ製銃火器をもってしても、対人戦においてはリヴァイの機動力がやはり頭抜けているらしく、リヴァイはアルミンとともに調査船の水揚げに必ず駆り出されていた。そのせいで、シガンシナの兵舎に帰れるのも数日に一度という始末だ。
『ミカサはなるべく、エレンのそばにおいて置きたいんだ』
護衛としてね、という下手な付け足しをして笑ったハンジに、どちらにしても俺がやるしかないだろう、と返したのはリヴァイ自身だったが、気の毒に思ったらしいハンジはエレンとミカサを除く一〇四期を伴って頻繁に顔を見せにやって来ていた。
──単にマーレの技術に触れる機会を増やしたいだけかもしれないが。
ハンジだけではない。海で採れる食材と持ち込まれた香辛料、技術によって並べられる料理に、サシャやコニー、ジャンはいちいち大騒ぎをしながら夢中になっている。
信用できない人間が作った食事はなるべく避けようとするリヴァイだが、厨房にはいつも複数の監視があり、成分検査も密に行われているため、調査兵団の食い盛りが腹に収めて喜ぶ分には大丈夫だろう、と許していた。
『彼らが持ちこんだ食物を島で栽培できないか、王都の研究所に調査を依頼してるんだ。この島で採れたもので作った料理なら、あなたもエレンも食べられるだろう?』
『まあ、作る奴にもよるが』
『だったら技術のほうも誰かに覚えてもらおう……上手くいくといいなぁ』
リヴァイは軽く目を瞑った。
どうにもいけない。数日ぶりにハンジのうるさい声を聞いたせいか、いやに記憶が引きずられる。そのくせリヴァイとは目も合わせずに去ったものだから、浮かぶ像はいちいち、こちらを覗き込んで表情を変えるものばかりで──
「スーク、ヒルデ」
「はっ」
「詰所に人が増えてる。飯の時間だろう、行って来い」
それまで一切言葉を発することなく脇に控えていた部下たちに言う。この二人は駐屯兵団からの移籍者だが、トロスト区が巨人の侵攻にあった際の生き残りだった。彼らは顔を見合わせた後、通じた気まずさをリヴァイへ明け渡すようにこちらを向く。
「俺はあとで行く。三十分で戻れよ」
ようやく頷いた頭二つが、踵を返して背後に去っていく。その足取りは隠せないほど軽い。
手薄になれば少しは緩んだ脳も締まるだろう。リヴァイは自分に向かって盛大な溜息をつき、陸と海の境目に沿って伸びる発展を、苦々しく眺めた。
**
『お前、女だったんだな』
揶揄や皮肉のいっさいもなく、リヴァイは言った。覆われていた視界の一部が勢いよく放たれたような、ある種の解放感を味わいながら。嫌味がないことをハンジも察したらしい。肩が細かく揺れ、吐息のような笑い声が暗闇に消える。
『男じゃなくて残念だった?』
『馬鹿言え。よくは知らねぇが、ヤる分には入れる場所が変わるだけだろう』
『よく知らないのについて来たんだ……好奇心旺盛だね、君は』
その時のリヴァイは、好奇心ではなく単純な欲望で、ハンジの性別がどちらであっても「付き合ってくれないかな」と引かれた袖に見合うことをするつもりだった。
寝台にもつれ込んで服を脱がし、体を押し潰したところで柔らかい跳ね返りと若干広い腰に気づき、そうして出た言葉は、過程を踏まえてみればやはり得心から生まれたものだったように思う。
それから順当に入り込んだ中も、揺さぶる外も、確かに女の形をしてはいた。してはいたが、リヴァイの劣情に一番爪を立てたのは、ハンジが最中にあげる声だった。
普段の声帯と同じ場所を通っているのかも疑わしいそれは、高く、かぼそく、すすり泣きに似ていて、聞く場所が違えば悲痛にも思える響きを持っていた。合間に呼ばれるリヴァイの名の、痛いほどの甘さときたら。
だからこそ、乾いた体で過ごすようになって久しい今でさえ、最初に思い出すのはあの声なのだろう。
──『もしもし、どちら様?』
ふと開けた視界は、まぶたの裏より暗かった。休むために腰を落ち着ける場所はいつも同じと決めている。目を閉じる前と後で、眼前の光景に違いがないかを確かめられるからだ。
ぐるりと首を回し、唯一変化した窓の外に目を移す。体感では三十分も眠っていないはずだが、そこはリヴァイの周囲とひと続きのように黒かった。秋の陽は知らぬまに消えてしまったようだ。
壁外調査がなくなって以降、馬や装備や天候の変化に細心の注意を配る必要がなくなったせいか、こうして数日ごとに兵舎に帰り同じ光景を見比べて、初めて季節の移りを知ることも多くなった。
時計を見れば、ちょうど夕食のために食堂が開いている時刻だ。立ち上がって椅子の背にかけていたジャケットに袖を通す。リヴァイはもう一度窓のほうに目をやり、それから音もなく部屋を後にした。
時期ごとに在籍数を多くしていく兵舎は、けれど兵士それぞれの役割と勤務地が分散しはじめたために、日によって行き交う人間の数が増減するようになった。今日はどうやら増のほうらしい。銃器訓練を終えた新兵、雷槍の訓練を終えた中堅の兵士たちの波がぶつかり合い、食堂内は人でごった返している。
入口からちらりとそれを窺ったリヴァイは、厨房で食料をもらって部屋に帰るか、と思い直す。と、不意に名を呼ばれた。
「兵長! お疲れ様です!」
リヴァイが来たのと反対のほうから近づいてきたのは、往来の中にあっても見慣れた部下たちだ。
「帰って来られてたんですね」
「兵長もこれから夕食ですか?」
コニーの第一声のあと、ジャンが笑い、その後ろからサシャが問うてくる。今や幹部と呼んで差し支えない顔揃いのはずなのだが、こうして職務の外で集まる姿はいまだ子どもの面影を残している。
「お前らもか」
「ええ、久々に全員揃ったんで」
ジャンが体を引くと、少し後方からアルミンとミカサ、そしてエレンが歩いてきていた。三人もリヴァイに気づいた。
「兵長。アルミンと揃って帰ってくるの珍しいですね」
「僕は鹵獲作戦の時だけだけど、兵長はずっと詰めてらっしゃるからね」
リヴァイも三、四日に一度は兵舎に戻っているのだが、長居すれば本部があれこれと用向きを仕掛けてくるためあまり留まることをしていない。
特に憲兵団上層部は義勇兵を排する既成事実が欲しいらしく、ハンジほど連中に親しんでいないリヴァイへ粉をかけてくるのだ。
「本部への報告も終わったんですか?」
「ああ……思ったより早く兵舎に戻れたが、部屋で眠りこけちまった」
彼ら以外にこんなことを言えば「あの人類最強が?」などと真面目に心配されるのだが、数年の付き合いになる部下たちは「寝過ぎて食いっぱぐれなくてよかったですね」と笑うだけだ。
久々にならぶ馴染みの顔に、体のどこかがゆるりと解れていくのがわかる。が、促されるまま食堂に入った先で一斉に向けられた周囲の目に、それもすぐに冷たくなってしまった。
厨房からいくつかのパンと干し肉、少し考えて紅茶を受け取り、長テーブルの端に席につく。紅茶の分だけ相席して、あとはやはり自室で食事を摂ることにした。そのほうが部下たちも気を遣わずに済むだろう。
と、同じく席についたミカサが、珍しくリヴァイに声をかけてくる。
「あの、ハンジさんは」
「……ここ数日王都に出向いている。今日中には帰ると思うが、遅いぞ」
ミカサは「そうですか」と俯いた。真意の読めない仕草に内心首を傾げるも、続くアルミンの言葉で得心する。
「このメンバーでハンジさんだけいないと、なんだか寂しいよね」
「うん……」
「ハンジさんも忙しいもんなー」
「こないだは工業都市まで行ってたんだぜ。しかも馬車じゃなくて馬で」
「工業都市? なんでですか?」
「『空飛ぶ船を撃ち落とせる武器が作れないか』って、兵器工場に相談したかったんだと。……上手くいかなかったみてぇだけど」
「そうか……壁の中の兵器じゃ、やっぱり〝外〟には及ばねえんだな」
周囲を慮ってか声を低くしたエレンが、達観とも諦めとも似た言葉をつぶやいた。それを最後に、全員が揃ったように口を閉じる。
一〇四期とハンジの繋がりも、リヴァイと等しく二年を数えようとしていた。彼らが調査兵となり、怒涛の数ヶ月を経て両手で足りるほどの数にまで仲間を減らした時も、ハンジはリヴァイと共に彼らのそばにいたのだ。
親しんだ上司が壁内の進退窮まった状況を破るために奔走し、けれども報われない姿は、打つ手がないという結果も合わせて当然喜ばしいことではないだろう。
「……アイツのことだ、落ち込む暇もねぇほど次を考えているだろうよ」
リヴァイは一口紅茶を飲んで、なんでもないことのようにそう言った。実際自分はそう思っている、と聞こえるように。
──『常に先のことを考えてるんだ』
──『過去に囚われていないと、そう断言できるか?』
──『できる』
あの場で「嘘だ」と言えなかった自分には、ハンジに言われたことをなぞって伝えるしかできない。それでも、その言葉が染み渡るにつれて、部下たちは「兵長がそう言うなら」と明るさを取り戻した。食事にありつく姿を見届け、カップの中身を干して椅子から立ち上がる。去り際に、敢えて厳しく命じることも忘れない。
「お前らはとにかくよく食ってよく寝て、きっちり仕事こなして有事に備えておけ」
部下たちはやはり、心得たように笑うだけだった。
真っ暗な室内を、窓へと歩み寄る。カーテンの隙間に指を差しこみ外を窺うと、小庭を挟んだ向かいの部屋の窓から、ちらちらと明かりが揺れるのが見えた。
数分前にはなかったその光は、日付もとうに変わった今、部屋の主がようやく帰還したことを伝えていた。
光はあるところで揺れるのをやめ、今度は窓から少し離れた右上部にある、換気用の小窓に明かりが灯る。上官の私室にだけ設けられた、湯を使うための部屋だ。
この兵舎のどの部屋にも、例の鉱石が光源として設置されているが、あの部屋の主は寝るために帰るだけの部屋に煌々とした灯りを必要としないらしく、夜はもっぱら外用の小さな懐中石灯で過ごしている。
そしていつのころからか、その石灯は窓際に置かれるようになった。おかげで、雑に引かれたカーテンの隙間から、いつだって白い光が部屋の主の所在と行動を教えてくれる。
誰にって、こうして覗き見るリヴァイにだ。
視線を机の上へと移動させる。そこには、あの部屋とこの部屋を繋いで、開いた距離を変えないまま二人を近づける器械──『電話』が置かれている。
突き詰めてみれば、あの窓の明かりから始まったことだった。
部屋を暗くして休もうとしていたリヴァイは、たまたまハンジの部屋に灯る光を見て、「ああ、今帰ったのか」と窓辺に立った。そうして、半月前にここで電話の試用のために向き合ったことを思い出したのだ。
ハンジは自分で仕事を見つけてきては奔走している性分であるから、電話のことも忘れているか、手がつけられないのだろう。
(喜んでたのにな)
なんとなく気の毒に思って、まだ使えるのか気になって、使えるなら使ってやろう、と思い立った。
適当に選んだ話題を伝え、考える暇も与えずに終わらせる。
ただの遊びのつもりだった。
大真面目に「なにやってんの?」と呆れられても別にいい。「お前がコイツを置きっぱなしにしているからだろう」と返して物と立ち位置とをあるべき場所に戻せば、やはりそこで終わるはずだと思った。
何も拗らせないつもりだった。
けれどリヴァイは、そういう乾いた気持ちの裏で、「ハンジはこの遊びに付き合うのではないか」という期待を持ってもいた。
以前まではわかりやすく二人のあいだにあった、負担にならない馴れ馴れしさがまだそこに残っているのではないか、と。
その浅ましさに気づいたのは、二度目の通話を決めたときだ。
結局、一ヶ月経った今もハンジが何かを訊ねてくることはなく、賭けに勝ったリヴァイはかえって勝負から降りるタイミングを逃しつづけている。
水場の光が消えた。窓を離れて電話の前に立ち、持ち手を取り上げる。ピイ。口笛を鳴らすと、すぐに耳元で息を吸う音がした。
『──もしもし。どちら様かな?』
疲れているだろうに、むしろ疲労から解放されたかのような声がリヴァイを迎えた。
名乗らない男の名を求めながら、名前のない遊びに付き合いつづけるハンジの意図はわからない。
もしかしたら、声だけでなく内にある感情までもが繋がっているのではないか、とひどい錯覚を起こすこともある。
所詮錯覚だ。リヴァイがはっきりと名乗ればこの時間は終わってしまう。融解しない昼と夜がその証拠だった。
『あれ……今日はなんだかだんまりなんだね』
ゴク、と喉が鳴る。肉声とも違う、肉体の昂りがもたらす上下とも違う、微妙な曇りを持ったハンジのその囁きは、よく通る声がよく通るままに大勢の耳へ届くのと違って、リヴァイの耳にだけ吹きこまれる。
ハンジはその価値を知りはしないだろう。余韻が消えるたびに名残惜しく、被さる自分の声が煩わしいとさえ思う。
不審に思われる前に口を開こうとして、しかしリヴァイは迷った。先に言うべきことがある。
「……このあいだは、嫌な話をして悪かった」
『嫌な話?』
ハンジは困惑した後、『ああ』と声を出した。一週間ほど前の死後の世界の話のことだと思い至ったのだろう。
なんとなく話し始めたことではあったが、始まった途端から自分がむきになっていくのをリヴァイは感じていた。
死んだ後の世界。死者がたどり着く場所。生きた人間がそれを思うとき、すなわちハンジが死んだ人間を思うとき、自らのどこに置いておくのか。
兵士としての二人のあいだで、そういう話をしたことはなかったように思う。互いに避けている節もあった。一年前からは特に。だから知りたいと思った。けれど、答える声がひどく揺れているのを聞いてすぐに後悔した。
『別に、嫌な話ではなかったよ。人それぞれの考えがあることだし……普段から考えておくのも大切だと思う』
「……」
『私はそこの……考えておくってところがちゃんとできていなかったんだ。だから急に聞かれて、えーと……上手く話せなくてさ』
「……」
話をした数日後、訓練中の事故で兵士が死んだ。当人の操作ミスが原因だったが、巨人に喰われたときと同じく、仲間が死んだことに変わりはない。
墓前で子どもに父親の行方を聞かれ、リヴァイは答えに窮した。仲間との死別それ自体は散々経験してきたことなのに、正解がわからなかったからだ。
──『そういうものは、全部、君のそばにありつづけるよ』
死んだ兵士の魂の行方など、実際に知る人間がいるはずもない。ハンジがリヴァイの代わりに口にしたのは、どこまでも生きた人間を慰めるための言葉だった。
リヴァイは気づいた。互い以外の古い仲間をすべて失った時、自分たちに必要だったのはそれだったのだ、と。
生者のための慰めだと知りつつも、死者の在り様を言葉にさえしていれば、墓の並びを見るハンジのそばに躊躇なく寄り添うことだってできていたかもしれない。
もう遅い。兵士のハンジはとっくに、傷の表面を正常な皮膚で覆ってしまった。石に刻まれた名を辿る目をうかがうこともできず、リヴァイは前を向いているしかできない。
『だからさ、私に申し訳なく思ってるなら、そういう必要はないから……大丈夫、何とも思ってないよ』
「……だったらいい」
『うん。ありがとう、……優しいんだね』
脳がとろとろと溶けていくような気がした。理性を持ったまま兵士の皮を脱いだハンジの声は、言葉は、リヴァイにあっさりと二度目を踏ませた。おまけにもっと長く、多く、と貪欲さに火をつける。
その貪欲を放し飼いにしていればどうなるか、行き着く先も想像できる。きっと受話器を置いて、この部屋を出て、生身のハンジと距離を詰めようとするだろう。正しいことなど何一つない、絶対に起こってはならないことだ。
リヴァイはちゃんと知っていた。わかっていた。ハンジの真ん中に自分がいないことを。
目まぐるしく変わる世界にあって、自らの本分を痛いほど務めようとする人間に、どうしてエゴにまみれた自分が縋れるというのか。
なあ、そうだろうハンジ。
リヴァイができるのは、隣にいることだけ。
**
『うるせぇ』
服を脱いで肌をピタリと触れ合わせてからもぺらぺらと姦しい口を、勢いよく手で塞ぐ。顔半分を隠されたハンジは、リヴァイを見ながら「そんなにだった?」と目を瞬かせた。自覚のなさに舌打ちが漏れる。
日中のハンジに比べて「そんなに」かと問われれば圧倒的にひそやかな声と調子と量だが、関係が始まった時は喘ぎ声さえ惜しんでしがみついてきていたことを思えば、近ごろのハンジはリヴァイとの夜以外の話題にずいぶん執心のようだった。
手を離し、「ごめん」と象る唇に噛みつく。舌を触れ合わせれば、漏れる声はようやくいつものそれになったが、リヴァイの苛立ちは変化しない。
いつもより乱暴に貪って、慣れきった場所の嫌がるところばかりを責めて、涙と涎で汚れた顔をじっと見下ろす。ぐったりと沈んだハンジは、けれどどうしてかその日に限って瞳に理性を残したままだ。
リヴァイはハンジの体をうつ伏せにさせ、脚を伸ばさせたまま再び肉のあいだに熱を潜り込ませた。入口付近を引っかかれたハンジが、背中を大きく跳ねさせる。
『や、だめ』
『だめじゃねぇだろ』
暴れる上半身を抑え、浅い場所で小刻みに律動する。弱い場所などとうに知り尽くしていたから、リヴァイはあえて、互いがすぐには達しない程度にそこを引っかき回した。飛び散る声が脳に鋭く爪を立てはじめて、やっと満足する。ハンジもむちゃくちゃによがって泣いた。泣きながら、しかし合間に必死で何かを訴えつづけた。
『だめ、だよ。あした、あさ、いかなきゃだから……、ーーのところ、に』
上官だとか、部下だとか、そういう誰かの名前を呼んだのだと思う。もう忘れてしまった。
今はもう、どうしようもない苛立ちの形だけが記憶に残っている。
若くて愚かだったリヴァイは、その後にかけられた『付き合ってくれてありがとう』の他人行儀に、いつも以上に鼻白んで、それからハンジの誘いをのらりくらりと躱すようになった。「必死で縋ってくればいい」という子どもじみた侮りは、そうして、壁内に訪れた大きな混乱と困窮のために、二度とリヴァイにハンジを抱かせることはなかった。
「やはり、女、というのが問題なのかもな。優しくて押しに弱い」
「確かに。巨人を屠る力があったところで巨人以外にはただの女だ。侮られる」
「実際どうなんだ、リヴァイ兵士長? ハンジ団長はマーレの連中と熱心に仲良くしたがっているらしいじゃないか。ええ?」
「向こうの代表も女だというからな。案外義勇兵たちはアソコで言うことを聞くよう躾けられているかもしれない。……団長にも試しにやらせてみたらどうだ?」
個人の資質いかんで壁内のこの現状がどうにかなるなどと本気で思っているなら、そいつは耳と目に糞で蓋をした変わり者なのだろう。そう思ったから、リヴァイは兵団本部でかけられた台詞のどれ一つにも感情的に返すことはしなかった。
「貴殿らの進言に感謝する。その調子で鼻糞みてぇな脳を搾り続けてくれ」
両者の立場を慮って感謝の言葉を進呈したくらいだ。そういう連中は当人のいないところでどれだけ下卑たことを言えるかに人生の楽しみを見出しているらしく、団長として振る舞うハンジが直接そういう言葉を受けた、という報告は上がってきていない。ハンジが本部に赴くとき随行させる兵士に必ず報告をさせているので、ほぼ間違いはないだろう。
しかし実際のところ、ハンジの上を通り過ぎる性的な侮辱の言葉や興味関心に対して、リヴァイはもう、特別神経をすり減らすことをしていなかった。
〝調査兵団の長〟としてハンジを貶めたい奴らよりも、自分がさらに汚いことを知っていたからだ。
『……で、その兵士がさ、脱いだブーツを持って浅い所を歩いてたんだけど』
「ああ」
『離れたところにいた仲間が、彼が大きな海藻を両手に持っていると勘違いしたらしくて、それで出汁をとるのかー?って叫んだんだって』
くすくす、と鼓膜をくすぐるような声が聞こえて、リヴァイは細くしていた呼吸をついに止めてしまった。「おかしいだろ?」と囁く声が脳に染み込み、銅線の向こうに存在する、女の体を自分勝手に描こうとする。
職務に関わらないような毒にも薬にもならない会話は、意外なことに、回数を重ねても少なくなることはなかった。最近は電話の前に話題を探す必要もなく、ハンジのほうからも日常の些細を切り取った話が尽きない。
そうしてそれは、次第にしたこともない睦言の記憶をリヴァイに植えつけはじめた。口笛を吹いて始まる夜には、電話越しに聞こえる声や衣擦れ、木の軋み、何かがぶつかった時の反響に耳を澄まし、遠い昔に過ごした雑多な部屋と、共に転がった寝台と、横たわるハンジの姿をそこに重ねる。
日毎長くなる会話が、妄想にたゆたうリヴァイの目覚めを、遠くしていく。
「お前も海に入ったのか?」
『うん。波の引く動きに砂が引っ張られて、足の指のあいだを流れていくんだ。それが気持ち良くて……』
部屋の隅の暗がりに、あの日見た白い足首が浮かぶ。砂よりも、ぶつかり合った波の泡立ちよりも白いそれは、リヴァイの目の前でゆらゆらと揺れて、明るい浜辺にはふさわしくないものを連想させた。
「……ちゃんと肌を洗ったか。海水も潮風もひりつくだろう」
『ひりつく? ベタつくじゃなくて?』
「ああ」
答えると、声が労わりを孕む。
『え、それ、君はずっとヒリヒリするのかい?』
「まあ、半日程度か」
『そうなんだ……私はないけど、肌が弱いのかな。可哀想に……』
指が、リヴァイの頬に優しく触れる。何度かそこを撫でたあと、降りた掌は当たり前のようにリヴァイの手の甲を包み、中指が小さくステップを踏んで手首をくすぐる。
──こんな想像だけならまだよかった。
左手で送受器を持ち、掌の熱で湿らせながら、リヴァイの右手はいつも膝の上にあった。たまにさらりと動かしてみれば、それはあっというまにハンジの手にすり替わり、油断すればもっと熱い場所へ向かおうとする。
慰みものにしていることへの罪悪感すら湧いてこない。ハンジもこの時間を望んでいて、リヴァイの拙い話を喜んでいる。『求められている』という自負が、ハンジの声を糧に動く手を正当化した。
当人の知らない場所で罵倒を捏ねて満足しているだけの連中なんて、この倒錯に比べれば可愛いものだ。心底そう思う。
リヴァイの邪心など知らず、ハンジは尚も心配を重ねている。
『日差しも照り返しもあるし……残念だけど、海と相性が悪いのかもね』
「あそこで長く過ごせと言われたら、俺でなくともキツいんじゃねぇか」
『そうだねぇ……』
途切れたタイミングで時計を見ると、応酬が始まってから、もう一時間近くが経っていた。
ハンジの舌も気だるさを帯びはじめている。眠気のせいだろうが、終わった後はいつもこんなふうに喋っていたな、とどうしても過去の情事を思い出してしまう。
「……眠いか」
『んー……まだ』
「眠いんだろ」
『ねむくらいし……』
普段の闊達はどこへやら、幼子のようにハンジがむづかる。その声は過去のどこを探しても聞いた記憶がないもので、がむしゃらに自分を求めていると思っていたあのころのハンジの、見えない線引きを今さら突きつけられる気分になる。
ふ、と乱暴な衝動が湧き上がり、このまま続けると酷いことを言ってしまう予感がして、リヴァイはあえて声の温度を下げた。
「涎垂らしといて何言ってる。もう横にもなってんだろ。観念して寝ろ」
『ん、ふふ。見えないのにわかるんだ』
「聞いていればわかる。いま手で口を拭いたな」
『え!?』
さすがに驚いたらしく、受話器の向こうで体を起こす気配がした。
「眼鏡も外せよ。顔で潰してる音がする」
『ええ……そんなに筒抜けなんだ……なんだか怖いなぁ』
カチャ、と金属の重なりが鳴ったのを聞くに、大人しく従ったらしい。注意して聞いていれば、面白いほどに動向がわかるものだ。
「お前は音の情報が多い。目の前にいるみてぇだ」
『目の前に?』
若干上擦った声で、ハンジがリヴァイの言うままをなぞる。
「そうだ。例えば──髪がまだ濡れてるだろう」
『へええ、正解』
今夜はハンジが水場を出てすぐに電話をかけた。頭を拭う音もしなかったから、当然といえば当然だ。
「あとは……体を丸めているだろう。寒いのか?」
『! すごいな……! よくわかるね』
話すうちに徐々に篭っていく声を聞いていれば、寝台の上で足を抱え込む姿は簡単に想像ができた。行為が終わった後、半覚醒のハンジがたまに体を丸めていたことも覚えている。長身のハンジが懸命に縮こまる姿は、ひどく哀れを誘った。
『手や足の先が冷えやすくてさぁ……丸まると少しあったかいんだ』
「……そうなのか」
そういう理由があったのか。今さらながら、リヴァイは驚いた。
「俺にはわからないが……大変だな」
『そうか。あなたのは普通にしていても温かいんだね。いいなぁ……』
刺激への耐性も、温度も。たった二つの手なのに、持ち主がリヴァイかハンジかというだけでまったく別のものになる。違う世界を生きるように周囲を感じている。
「……温めてやれれば、いいんだが」
せめて。肌を包んで、熱を分け与えて、同じ感覚を共有したい。だが、それは今の〝リヴァイ〟にはできないことだ。
心を読んだわけでもないだろうに、電話越しのハンジが、名無しの男に向かって笑う。
『じゃあ私の手をあなたのものだと思って、頑張って足を温めようかな? 早く温まるかも』
「そんなわけ……」
ふと、滑稽さに笑いそうになった。きっかけはどうであれ、己が抱く妄想をハンジもまた行おうとしている、と気づいたからだ。
ハンジの手がリヴァイのものにすり替わりその肌を包むのだと思うと、慈しみを押しのけて、邪な熱が前に出てくる。
「……足先だけじゃなくて、脚全体、撫でろよ」
『全体?』
「腿の裏や、脚の付け根は特に。血の巡りをよくしろ……できるか?」
『あ、そうだよね……うん……やってみるよ』
ハンジはそれから無言になったが、絶えまない衣擦れと薄く唇を開いたままのような呼吸音からして、単に夢中になっているだけらしい。はあ、と濃い吐息が聞こえたタイミングでさらに問いかける。
「どうだ、〝俺の手〟は」
『うん、あたたかいよ……ありがとう』
「役に立って何よりだ。ーー今、どこを触っている?」
『あ、えっと……腿の、内側、かな』
「……ああ」
腿の内側。
強い快感を得るたびに隠れようとするそこを、何度も、何度も掌で押さえて露わにした。片足だけを抱えて横から入り込んだ時も、揺さぶりとともにしつこく内側の皮膚を弄って、そこだけで感じるように教えこんだ場所だ。手元にあるように思い出せる。
「そこは特によく撫でろよ。汗をたっぷりかくからな」
お前は、と言わずに付け足す。
『ほんとに、なんでも知ってるなぁ……、ふ』
鼓膜を、艶のある息が舐めた。
極限まで手を近づけて、けれどギリギリ触れることはしていなかった部分が、知らぬうちに大きく脈動をはじめていた。ゆっくりと迫ってくる窮屈さに、リヴァイも追い詰められる。
「お前が知らなさすぎる……自分では触らないのか?」
『……さわるったって……意味がないし』
「今は意味があるだろ」
鼻にかかった声が「うん」と素直に肯定する。
『今は、温かいし、気持ちが……いいけど』
「だったら別の場所だってそうだろう」
『そうかな……』
少なくとも、リヴァイが触れるハンジの体はそうだった。指を這わせるたびに、這わせたところ以外も大層悦んで、言葉も発せなくなっていた時でさえ一番熱い場所で「気持ちがいい」と訴えてきた。
だったら、今ハンジの脚に触れているリヴァイの手でだって、同じ結果を得られるはずだ。
「──試しに触ってみるか」
『試し?……たとえば……?』
聞くなよ、と悪態を吐きそうになる。
「……今の、腿の内側を、もっと……上にのぼれ」
なのに出てくるのは反対の誘いだからどうしようもない。
『う、うん……』
「……もっと上だ」
『……ん……』
「もっと」
『や、でも……行き止まりで』
「その行き止まりもだ」
それまで反響のように返ってきていた声が、ぴたりと止まった。息を詰めている様子に躊躇を感じるが、嫌悪はないらしい。嫌なら電話を置いているはずだ。
「さすがに、そこは一人で触ったことがあるんだろうが」
触る、の意味がもうすっかり変わってしまっていることを、リヴァイはあえて色を含んだ物言いで示す。しばらく口を開閉しているらしいはくはくとした音が聞こえたと思うと、ハンジは小さく、「前は」と答えた。
『前は、触ってたけど……』
想像しそうになり、腹の底が焼けたように熱くなる。
「……なら、やり方はわかるな」
ハンジはしばし黙したあと、はっと小さく息を飲んだ。
『え、……今?』
「そうだ」
『……でも……』
「無理強いはしない。……もう足も温まっただろうしな」
『……』
強引な押しつけを「選択の自由は与えた」という尊重にすり替え、リヴァイは急かすでもなく、だからといって助けることもなく、ハンジの逡巡が終わるのをじっと待った。
次第に、受話器から漏れる呼吸が大きくなっていく。記憶の中の、行為の初まりに聞くものとよく似ていた。過たず応えがある。
『ふっ……服の上からでも、いい?』
おかしな質問だった。誰の了承も許可も必要ないやりとりのはずなのに、ハンジはもうリヴァイに委ねる気でいる。
「お前がイイようにしろ。誰も咎めたりしねぇよ」
『うん……』
他愛ないやりとりで、じわじわと距離を詰めるうちに、リヴァイの右手が描くハンジは一足飛びに先へ行こうとしていた。凝った部分を包み、撫で、もどかしく揺すって、これにじかに触れたいと乞うてくる。
腹に溜まった熱を音にならないよう細く吐き出し、リヴァイはハンジの道連れを望んで、脳に押しこむように言葉を続ける。
「手、まだ〝行き止まり〟にあるな?」
『うん……』
「脚を開け。ゆっくりでいい……掌あてて、動かせ」
指示しながら、そのとおりに動く手を想像する。ハンジのまっすぐの中指が、寝巻きに触れて頼りなく曲がり、下に潜む女の溝に沿ってこわごわと動き出す。
『、んっ……ふ……』
さら、とシーツが擦れる。ハンジが体をよじっている。
「逃げるなよ」
『はあ、だってぇ……』
甘えた声が、無茶苦茶にしたい、という苛立ちをリヴァイの中に生む。
「……今はどこ触ってる」
『溝の上の、……引っかかるところ……』
「ああ」
恥ずかしがってか直接的な物言いをしないところを、可愛いとさえ思ってしまう。
ハンジはそこが好きだった。濡らした指で強めに擦った後、表面を撫でるだけの動きを続けると、ゆるやかに達してしばらく上に留まりつづけた。息も視線もなくなる絶頂ではなく、湿った胸を上下させながら、溶けた瞳でじっとこちらを見上げていた。
リヴァイは、それが好きだった。
「……少し、力入れて、そこ触れ」
『うん……、あ……』
服の上からでも分かるほどの膨らみを、指先で突いて、二本の指で挟んで、形を浮かび上がらせるように摘む。こうすればハンジの肉はあっというまに開いて、中からとろとろと体液をこぼすのだ。今だって、衣服の下で、きっとそうなってるに違いない。
「……どんどん硬く膨らんでるだろ……、わかるか」
『は、……あ、おすと、ちからぬけちゃう……』
「なら、もっと押せよ、」
『ああ、ダメ、ダメ……』
毛布と寝巻きが擦れる音の、間隔が徐々に短くなっていく。ハンジが布団の中で秘部に手を添え、リヴァイが散々可愛がっていた部分を、夢中で、めちゃくちゃに捏ねている。
ひっきりなしに聞こえる声や音から、簡単にそんな像が浮かび上がる。
リヴァイは前のめって息を詰めた。熱くなるばかりの手を──ハンジの手を、下衣の中に潜らせ、とうとう湿った部分を直に掴む。
「っく……」
『あ、あっ、あ あ 』
音と瞼の裏の像だけで繋がっている奇妙な状況が、体と脳をいやに煽った。緩く握り、手で揺するに収めても、それがハンジによるものだと思うと血の巡りが止まらなくなる。
リヴァイのものではない女の皮膚が、滲みだした体液を先端や括れにまぶし、慣れた手つきで刺激する。くちくちと下品に鳴る音を、聞こえちゃいねぇだろうな、と心配する思考とは反対に、手の動きは激しくなっていく。
ハンジの声と手を糧に上り詰め、痺れるような快感に目を瞑った時だった。
『う、ぅ、あぁあダメ、いっ、ちゃう……』
「……!」
悲痛な声が響き、今の今まで募らせていたはずの欲望が、一瞬で白になった。
左手に持つ器械を、ぎゅう、と耳が潰れそうなほど押しつけ、ただ、ハンジが達する声と息にすべての神経を傾ける。
『ひ、ぅっ……!』
ギシ、と木が鳴る。ハンジが喉を反らし、頭をシーツに擦りつける。浮いた胴体がなまめかしくうねる。
『……ぁあ、あー…っは……』
余韻に苛まれる声さえ、ひどく悩ましい。
「……ふ、……」
止めていた息をようやく吐きだした瞬間、何かがどろりと掌にこぼれる感触があり、リヴァイははっと我に帰った。確かめる前から眉間に皺を寄せ、せめて汚さないようにと無駄な丁寧さで手を引き抜くも、案の定の惨状が広がる。
舌を打ちそうになるが、まだハンジと繋がっていることを思い出し、リヴァイはすんでのところでそれを押し止めた。
「……平気か」
『……ん……』
耳を澄まして、ようやくか細い吐息が聞こえてきた。ただそれも次第に深くなり、一呼吸ごとに眠りの色を濃くしていっている。
この状況で寝るのかと呆れるが、ただでさえ日中の疲れが溜まっていたところに神経を使うような無理をさせてしまったのだ。させた側のリヴァイにハンジを責める資格はない。
「ーーハ、……オイ。ちゃんと布団かぶれよ」
詰まった声を誤魔化して、念押しする。と、毛布をまくるような音の後に、小さくておぼつかない返答があった。
『……ん、……ありがと……りばい』
達した瞬間よりもはっきり、穏やかに、頭が真っ白になった。目が眩む感覚に陥り、呆然としているうちに、トス、と何かが布に落ちる音がして、それから何も聞こえなくなる。ハンジが送受器を取り落としたのだろう。
一人取り残されたリヴァイは、とりあえず汗で湿った送受器を置き、それからようやく汚れた掌を思い出した。苦々しくそれを見下ろす。
そこに走った欲も、それを受けた手も、まごうことなきリヴァイのものだ。幻想の影は電話とともに跡形もなく消え失せ、もうどこにも残っていない。
「……ハンジ」
鬱屈と呟いた名前は、電話の向こうではなく、リヴァイの部屋に落ちて消えた。
**
パラディ島が初めてマーレ駆逐艦の攻撃を受けたのは、それから二日後のことだった。
真夜中の海を縫って突然現れたその船は、沿岸部に築かれた違和感を、暗闇の中でも素早く察知したらしい。こちらの謀計が始まる前に、入江に浮かぶ船に向けて腹に抱えた〝何か〟を撃ち込んできた。
「っ、アルミン!!」
ハンジの叫びの直後、巨人化の光と轟音が辺りに響き渡る。超大型の足が海底を踏むのと、船の放った〝何か〟が爆発するのは同時だった。海水と土塊が、聳え立つ巨人の膝まで巻き上がり、巻き込まれた兵士たちの悲鳴が幾重もそこに重なる。
結局、攻性に富んだその船を、無傷のまま手に入れることは叶わなかった。超大型巨人が生んだ大きな波に飲まれ、船は反対側の岸に叩きつけられて半壊した。岸に打ち上げられた残骸を見ながら「いきなり攻撃だなんて……マーレ海軍の間抜けっぷりを今日ほど喜んだことはないですよ」などとイェレナが言う。
ハンジは、爆発の跡に立ち尽くし、元の位置から数メートルは抉られてしまった岸壁をじっと見つめていた。
頬や額や手の甲に、爆発で弾け飛んだものによる傷をいくつも残しながら、瞬きもしない眼はそれ以上に、受けた衝撃の大きさを物語っている。
「魚雷というんだって。昨日見た〝何か〟は」
「……名付けた奴はお前と似たセンスの持ち主だな」
「そうだね、まさに海を走る雷槍だった。でもあれだけの威力がある兵器と船を持ってしても、マーレの海での活躍はイマイチらしい。地上戦で巨人の力を頼みにしているうちに、他国が海上を制覇しはじめたんだとさ」
「今回は敵がマーレで幸いしたと、そういうことか」
「いやあ……この島がどれだけの危険に晒されているか、改めて目の当たりにすると……ね」
折れるな、などと。
折らせないための何かをできない人間が、言うべきことではないのだろう。世界の底辺で彷徨っているというマーレ海軍にすら劣って、地上で何もできなかったリヴァイに、そもそも言えることなどない。
陸に食い込んだかのような駆逐艦の死体が、朝日を受けて鈍色に光る。乗員の半分は捕虜とすることができたが、もう半分は超大型によって海に投げ出されていた。波間をさまよう遺体は、じきに島の岸に流れ着くだろう。
長いあいだ、壁内に閉じ込められた人間たちは、巨人に命を奪われる側だった。それが今、壁を越えて海までたどり着き、巨人を使って人間を殺している。
随分遠くまで来たと、そう思う。
選んだ道が正しいのか否か、正否の定義さえ曖昧な現状で、誰がそれを判断できるだろう。
自分たちは間違っているのかもしれない。
首を吊るための縄を自ら編んでいるのかもしれない。滅亡の道を、粛々と進んでいるのかもしれない。
(それでも、……まだ隣に、お前がいる)
ようやく目線を上げたハンジの横顔は、海面の光をてらてらと跳ねかえして、リヴァイの目にはいっそう眩しかった。
海岸拠点からシガンシナへ戻る道すがら、高い空を背景に、馬上のアルミンが明るい声で言った。
「まだ数は少ないんですけど、マーレ兵捕虜の中に協力してくれる人たちが出てきたんです」
「協力?」
喜色に満ちた顔が、はい!と一つ頷く。
「みんな工兵としての技術に優れている人たちばかりで……港の建設にも力を貸してくれるって約束してくれて、完成までの時間も計画より二割は短縮できそうだって、ハンジさんが」
アルミンの馬頭一つ分を先行きながら、リヴァイは記憶を探る。
「……俺が見た時の捕虜の奴らといえば、どいつもこいつもクソみてぇなツラで睨んできてたが……随分な心境の変化だな」
「そうですね……状況が状況でしたし、最初はやっぱり跳ね除けられてたんですけど……。根気強く話をしつづけていたら、耳を傾けてくれるようになったんです。それと、一昨日の駆逐艦の襲撃も影響したようで」
「アレが?」
「夜中で認識が難しかったとはいえ、仲間であるはずの調査船に事前の通信もなく攻撃を仕掛けていましたからね。それをショックに思う兵士も多かったみたいです」
わからないでもない。現に捕虜の収容所も爆発の飛沫を喰らい、大きな怪我をした者もいる。人権が保証される悪魔の島のほうが、奴隷として扱ってくる人間の大陸よりも幾分かマシだと、そういうところだろうか。
「……よかったな」
リヴァイがそう言うと、アルミンの笑顔がさらにくしゃりと深まった。最近になって、彼にもようやく年相応の表情が戻ってきたように思う。
「はい! 信じて対話をしつづけた甲斐がありました!」
〝信じて〟。
アルミンの口から出ると、その言葉は一層重みを増す。共にいる者たちの強烈な存在感のせいか、よく知らない者には弱腰に見られがちなアルミンだが、その実、聡明さに裏打ちされた芯の強さを持っている。
時折「頑固だ」とさえ言えるその強さは、幼いころから持ち続けた夢を躊躇なく親友に託し、命を投げ出して敵を討つことまでしてみせた。
リヴァイは前団長であるエルヴィンを死なせる決断をしたが、だからといって、反対側にいたアルミンにおこぼれのように生を預けたわけではなかった。
両者が見据える未来を比べて、アルミンのそれが海のように広大で光と熱に満ちているのを知って、〝より貪欲なほう〟を選んだという自覚があった。
そして、理不尽に重たいものを背負わせた自責の念もある。だからこそ、前途にある障壁を除いて、なるべくならそこに希望を置いてやりたかった。兵士の領分からやや外れたその願いは、リヴァイだけでなく、おそらくハンジも隠し持っている。
義勇兵やマーレ兵捕虜との接触、特に知識の応酬の場において、ハンジは積極的にアルミンを伴うようにしていた。
「ハンジに引っ張り回された甲斐もあったってもんだな」
「感謝しています。おかげで海の向こうのことをたくさん知ることができました。ハンジさんも工学に対する知識や理解が深くて、色んな人と話が盛り上がっていましたよ」
「ああ、〝仲良し〟ってやつか」
「えっ?」
くだらない茶々がアルミンに聞こえなかったのは幸いだった。リヴァイは「なんでもねぇよ」と返し、視界の隅で煌めく金髪に言う。
「アルミンよ、お前の『まず会話から』という姿勢は尊いもんだ。大事にしろ。……だが、世の中には言葉が通じねぇ奴らがいるってことも絶対に忘れるな」
空気が、す、と整えられる。戸惑いが挟まることはなかった。頭のいい人間は相手に気遣わせる隙を与えない。損だよな、とリヴァイは思う。
「……通じない、という認識自体が、頭からの思い込みではなくてですか?」
「そうだ。最初っから成り立たない奴は必ずいる。あるいは、拗れきって二度と通じねぇ奴か」
「……」
ほんの数十秒前までの跳ね回るような喜びに水を差す結果になったのは残念であったが、リヴァイはなんとなく、アルミンがどう返すのかも予想していた。
「僕は、それでも……いつかは通じるんだってことを、諦めたくないです」
彼は間違いなく、『強さ』というものを体現している人間だった。
窓に灯る明かりを見たリヴァイは、その光が止まることなくすぐに消えたことで、電話機に伸ばしていた手を止めた。
時刻は日付を変わろうというところだった。
腹でも減って食堂にでも向かったかと思うが、厨房の火も落とされている時間帯だ。ハンジの行方に疑問を抱いていると、リヴァイの部屋へ近づいてくる足音があった。
(まさか)
ドン、と夜にしては乱暴なノックがあり、リヴァイは素早く扉を開けた。果たして、石灯を掲げたハンジがそこに立っていた。外に出る時のコートは着ておらず、兵服のシャツとズボンだけを着た姿は、そういえば久々に目にするものだ。
「脱いで」
「あ?」
突然の訪問と開口一番の意図を、リヴァイはすぐには察することができなかった。「脱いで」とさらに強く求められ、自分の体に目を落とし、まさか、と二度目を思う。
「怪我してるんだろう? 見せてくれ」
声と明かりに浮かぶ表情は、有無を言わさない硬さを持っていた。こうなるともう、リヴァイでは曲げることができない。
体を引いてハンジを部屋に入れ、扉を閉めて前立てに指をかける。シャツの片腕を抜いて、肩から腕にかけてを曝け出すと、赤黒い内出血の痕がそこに広がった。二日前の魚雷の爆発による破片の時雨から、とっさに兵士数名を庇った時のものだった。
「ーーひどい」
「……誰に聞きやがった」
「そんなの誰だっていいだろう。どうして治療してないんだい?」
「必要があればしていた」
数歩離れた場所にいたハンジが、リヴァイに近づき、持っていた灯りで患部を照らした。空いた手が色の変わった皮膚の前を彷徨い、けれど一ミリだって触れることなく下に落ちる。
一瞬だけ肌を舐めたハンジの熱が、リヴァイの肌を静かに粟立たせた。
「……ただの打身だ」
「素人判断するなよ。あなたは医者じゃないんだ。……頼むから、ちゃんと……」
引き絞るような声に、心臓がひどく軋む。疑問や戸惑いよりも、ハンジにそんなことを言わせた後悔や苛立ちがそうさせていた。
壁を挟んで生死を行き来していたころ、負った傷は兵士としての領分を損なわないかどうかでその度合いを判断されていた。打身など肌の色が変わっただけだと負傷にも入れられない。
こんなふうに、甘ったれた声で治療を乞われることなど一度もなかった。
まして、〝ハンジ〟のままでなど。
「どんな些細な傷でも放っておくなんてダメだ。お願いだよ……」
ハンジの懇願が、減りすぎた仲間同士として、リヴァイの兵士としての価値を惜しんでの言葉なのか、それとも別の感情を孕んだものなのか判断はつかない。
つかないが、必死で言い募るハンジの顔を見つめながら、リヴァイは無意識に頷いていた。
「わかった」
「絶対だから」
「俺のことを言うならお前もだ。頬に……」
視界に入り込んだ指を「よせ」と思い、けれど止められなかった。リヴァイの意思より先に動いた手が、ハンジの柔さと温度に到達し、当然のようにそこを撫ではじめる。
右の頬骨の下から顎にかけて、赤く走る擦過傷。熱を持ってわずかに腫れているようにも見えるそれは、爆発の瞬間から沈静までを、残った眼ですべて見ようとしたためにできたのだろう。
ハンジにはそういう傷が多かった。多すぎるほどだった。そのどれもが『復帰には問題ない』と判断されて、リヴァイは触れることすらできなかった。あんなに何度も寝たのに、互いの傷が持つ熱は知らないままだった。
リヴァイが傷をなぞるのを、ハンジはひくりと全身を震わせながらも、拒むことなく受け入れている。それがますます触れることを許してしまう。
「ただ擦っただけだし、」
「さっき自分でなんて言った?」
這わせていた指を掌に変え頬全体を包むと、ハンジは目を伏せてそれに感じ入るような顔をした。
「ーー痛むのか、これは」
「お湯に触れると、ピリッとするくらいだよ……あなたは……?」
「いや……視界に入ってちらちら鬱陶しいだけだ」
頬を覆う手の、指先が、ハンジの耳たぶに触れた。柔らかい感触に気を取られ、ついそれを摘んでしまう。
「……ん、っ」
ほとんど吐息のような声が、目の前の唇から漏れた。釣られてさらに触れると、眉根を寄せてハンジが震える。
背筋が痺れた。無防備にも目を閉じて、眉根を寄せる女を中心にして、リヴァイの視界が急速に縮まっていく。
目的もわからない衝動に背中を押されて、知らぬうちに、薄闇に立つ女の体に肉薄していた。そうして、もう片方の頬も包もうとした時だった。
ギシ。
踏み出した足が、小さく鳴らした床音を合図に、ハンジの目がぱちりと開く。
レンズ越しの、しかもたった一つしかない眼は、いつだって内面に宿す感情を見る者にそのまま撃ち込んでくる。
その時そこにあったのは、戸惑いと罪の意識だった。
「──リヴァイ」
動いた唇が、はっきりとリヴァイの名を象る。
ハンジがリヴァイをリヴァイと呼ぶ瞬間は、電話越しに過ごすぬるま湯じみた時間のどこにも存在しない。存在してこなかった。ハンジが「リヴァイ」と呼ぶ時、それはどこまでも兵士としてのリヴァイだった。
今ここで名を呼ぶことは、リヴァイがしようとしていたことへの拒絶に違いない。
頬に添えていた手が、冷たい指先によってあっけなく外される。
ハンジはそうして、目を逸らしたままリヴァイの脇を通り抜けた。扉の前に立ち、しかし最後に振り返り、冷えていく甘苦い空気に、さらなる杭を打ちこんだ。
「……あなたの怪我のことは、イェレナから教えられたんだ。『兵士長は負傷されていたようですが、大丈夫でしょうか』って」
一瞬、胃が抜け落ちた感覚に襲われる。
イェレナはおそらく、リヴァイが怪我人を搬入した時、治療を断る姿を目撃したのだろう。怪我の度合いは問題ではない。誰が把握しているか、あるいはしていないかが肝要だった。ハンジに知らせなかったことが一番の警戒対象には知られていたのだ。
ポッカリと空いた丸い目が、リヴァイの隙を嘲笑う。
「よく見ているよね、彼女。……私よりも」
ハンジの顔半分が皮肉に歪んだ。〝団長として〟細心が足りなかった自身へのものだろう。リヴァイを巻き込まない、たった一人きりの悔恨だった。
「エレンやアルミンと同じくらい、あなたも兵団には不可欠な存在なんだ。自分の存在を過大評価して……大事にしてくれ」
ハンジが立ち去ったあと、室内には再び、無音と暗闇が訪れた。間違いなど何も起こらなかった夜が、正しく朝までの時間を削っていく。
明日からもリヴァイは、壁内の微妙な位置に立たされる調査兵団にあって、情勢に揺られながら兵士としての職務をまっとうしていくのだろう。
兵士の、ハンジの隣で。
しばらくして、向かいの窓に明かりが灯る。ハンジが部屋に戻ったのだろう。けれどリヴァイは、今夜だけはそこから目を逸らした。
頭の中に、始まらなかった夜が聞こえる。
──『もしもし、どちら様?』
(……俺が聞きてぇよ)
顔も見えずに繋がる声は、言葉は。
一体、誰と誰のものなのだろう。
「ザックレー総統、やっとお会いできました」
「会えなかった理由はもっぱらお前の悪癖だろう、ハンジ」
髭の下で笑う男へ、ハンジもまた薄く微笑み返す。
八五一年、冬の腹の中。
シガンシナ再興が果たされて以降、壁内あらためパラディ島の最重要防衛ラインは壁一枚分を南下し、三兵団を統べる中央本部兵舎はトロスト区へと移設されていた。
現兵団最高権力者のザックレーは「雪が降る前に移れて良かった……王都は寒いし」などと嘯きながら、面会に現れたハンジを応接用のソファに促した。人払いの済んだ室内で、二人は表面上穏やかに向き合う。
「悪癖とは……?」
「自覚がないのか? 壁内をあちこち飛び回って、三人以上の部下が持ち回りで団長に付き従っているとも聞いたが」
「そんな、持ち回りなんていません。必要なら近くにいる兵士を連れていくので」
真面目に答えたはずだが、ザックレーはため息をひとつつき、「なんにせよ」と話を続ける。
「建設中の港が完成すれば、少しは落ち着くんだろう?」
「はい。春先には必ず」
夏から始まった港湾建設のための工事は、マーレ工兵という協力者の存在もあり、一年を待たずに完成しようとしていた。
「マーレから送られてくる調査船や駆逐艦への対応も、港で船舶の管理ができるようになれば随分楽になります」
「そうか……リヴァイ兵士長やアルミンは海岸防衛によく務めてくれていたが、やっと一息つけるのか」
ジークの裏工作、そしてマーレの戦況が芳しくないことも合わせて、来襲する船の数も減ってきている。二人が常駐しなくとも対応できるようになるだろう。
「壁中人類に真実をもたらしてくれた英雄たちだというのに、それを理由にさらなる仕事を押しつけてばかりだ……すまないと思っている」
「……いつか、二人に直接言ってやってください」
しっかりと頷いたザックレーは、丸いレンズの中の目を瞬かせ、さて、と空気を切り替えた。
「話は……義勇兵たちからの〝お願い〟についてだったか」
「捕縛したマーレ兵捕虜の、壁内での限定的な人権を認めて欲しい、という嘆願です」
そう言って差し出した書は、イェレナがしたため、ハンジに託したものだった。ジーク・イェーガーを頂点に据えているというただ一点で兵団内の不審を集めている義勇兵たちだが、彼らがもたらす技術や知識、文化や教育はすでに島の内部に食い込み始めている。
直接会うことは叶わずとも、こうして〝お願い〟が無碍にされることなく最高権力者に到達したということが、その侵食を如実に表していた。
書類をめくって数枚に目を通したザックレーは、ため息をついてそれを机に置いた。
「行動記録書の提出に、見張り用の駐屯所の管理まで申し出ている。入念なことだ。……一応は会議にぶち上げるが、調査兵団団長としてはどう思う?」
「権利に値する以上の恩恵を、彼らから受けているのは事実です。ですが、慎重に判断すべき事項だとも思います」
ありきたりな回答だった。ザックレーもわかっているのか、肩を竦め、鼻に皺を寄せておどけた表情になる。
「恩恵、そうだな。あんなに文句を言っていた憲兵団上層部も、海浜の拠点に招かれてご馳走を振る舞われたそうじゃないか。羨ましい」
「はは……彼ら相当気に入っていたそうなので、いずれ壁内でも食べられますよ」
供するのが誰なのかはわからないが、とは言わない。
午後の本部は、比較的人が出払っていて喧騒も遠く、部屋の一面を窓にしたこの部屋は雪雲が重なる空からも十分に光を取り込み、どこか静謐な白さに包まれている。
悠長だ、とハンジは思った。
ジークの提言を宙ぶらりんにしている自分たちはもちろん、あと三年もないジークの寿命を、白黒はっきりしないパラディでの暮らしに費やしている義勇兵たちも。
どこか、機が熟すのを待っている、とも感じられる。そういった違和を感じるたびに、迫る期限とは別の焦燥にハンジは焼かれる。
ザックレーが、その焦りを読んだように言った。
「これは予感だが。状況が動いた時にはもう、取り返しのつかない位置に我々はいるだろう」
老獪、と言われる男が、呼び名にふさわしい表情でハンジを見据えた。
「時間がないな、ハンジ。ーーきっと今思っている以上に、我々には時間がない」
唇を尖らせ、細く息を吐く。
ピイ、と起こった音は送話口に吸い込まれ、向こう側へと渡る。目を閉じて、じっと待つこと、五秒、六秒。
カタン、とフックの音がして、人の気配がそこに現れた。
『──どちら様だ』
「っふ」
低く、抑揚もない声が予想外の台詞を吐いたせいで、ハンジは不意をつかれて咽せた。まさか自分が散々使っていた言葉を、彼がそのまま返してくるとは思わなかったのだ。
『なんだ?』
「いやなんでも。こんばんは」
『……ああ』
久しぶり、とはどちらも言わない。
最後の通話から、二週間が経っていた。そのあいだ、受話器はずっとフックにかかったままだった。
互いに有事があったわけではない。
むしろその逆で、義勇兵やマーレ兵捕虜の管理を全面的に三兵団で行うことが決定し、負担が減った調査兵団幹部であるリヴァイとハンジも、ようやく兵舎で連夜を過ごせるようになっていた。かと言って、私的な時間が増えたかといえばそうでもなく、今度は溜まっていた兵団本来の内務にかかりきりになった。
結果、リヴァイとハンジは日中、どころか日が落ちてからもほとんど一緒に行動していて、別れる時はそれこそ眠る時くらいになっていたのだ。
バランス、というものがあったのだろう。団長と兵士長という顔を突き合わせ、共に過ごす時間が長くなると、電話で繋がる夜はぷつりと途絶えた。正確に言えば、ハンジが途絶えさせたのだ。名無しの時間との融解を恐れて、聞こえる口笛を無視しつづけた。
きっと、一時的なものではない。
兵団の機能が正常になり、『巨人』や『調査』にまつわる行動が増えていくとすれば、リヴァイとハンジが離れて職務を果たす機会は少なくなる。例外があるとすれば、リヴァイが戦闘員として戦場に出る時だ。そしてそれは、島外の勢力との戦いの時を意味している。
ハンジとリヴァイに、兵士の皮を脱ぐ時間はもうないのだ。
二週間という空白の時間についても、今夜はハンジから口笛を吹いたことについても、電話の向こうにいる彼は何も言わなかったし、何も聞かなかった。
彼はちゃんとわかっている。
今この瞬間、二人のあいだに挟まるのは器械で繋がれ、また器械に隔たれた断続的な時間の積み重ねだけ。二度と話せなくなったとしても、約束して始まったわけではない繋がりが約束もなく途切れただけのことで、そこで終わりなのだと。
最初からわかっていた。わかっていたから続けてこれた。
──そうだよね、リヴァイ?
寝台に腰掛け、片手でガウンを脱ぎながら、ハンジは努めて明るく言う。
「ねえ、今日は私に付き合ってくれないかな」
遠い昔、ハンジが彼を誘う時、いつもその言葉で始めていたことを彼は覚えているだろうか。覚えていなくても構わないけれど。
『……俺は何をすればいい』
問われて、覚悟を決める。心臓が胸郭いっぱいに膨張したのかと錯覚するほど、ドクン、ドクンと脈打ち、そのたびに全身が揺れる。振動だけで喉がつかえそうになる。
一度、はあ、と喉を開いて息を吸い、ハンジは意気を込めて吐き出した。
「このあいだの〝アレ〟みたいに、私が……触るのを聞いていてほしいんだ。あなたに」
婉曲な表現でも、伏せるべきものがない二人には逆に伝わりやすい。
ハンジが耳元で恥ずかしいほど乱れて、記憶もなく寝入ってしまった晩のことだと、彼はすぐに理解しただろう。
『……』
わかっていながら返答を渋るのは、ハンジの行動を訝しんでいるからだろうか。
「無理に付き合ってほしいわけじゃない。でもこのあいだのがすごく気持ち良かったから、できれば今夜はあなたも一緒に気持ちよくなってほしい」
『いや、俺は……』
「もう、」と続いて、しかし後に言葉はなく、彼はしばし沈黙していた。ハンジから突然電話をかけたからだろうか、いつものおしゃべりはそこになく、じっと考え込むような余白が何度も挟まる。
『……わかった。付き合ってやる』
ようやく得られた回答が了承だったので、ハンジは彼に知られないよう、肩の力をほっと抜いた。
「よかった。ありがとう」
『ただし、俺が触る』
「ーーえ?」
『お前は俺の言うとおりに手を動かせ』
反芻し、理解して、脳と体が焼けるように熱くなった。言われずともハンジの頭の中ではリヴァイの手が動いていたのだが、改めて命令されると、その手が外に飛び出してくるように思う。
『やれるな?』
「……た、たぶん……」
有無を言わせない、低くて重たい声だ。いつもと違って上から落とされるために、逃げ場もなくハンジの耳を犯しつづけていたあのころとまったく変わらない。
もう何年も前のことなのに、この全身ときたらよく覚えているものだ。脚のあいだが早々に疼きだすのを感じ、ハンジは呆れと期待でないまぜになった。
『横になれ』
背中の下で鳴った一人分の軋みでさえ、彼の重さを錯覚させた。明かりを落とした室内で目を閉じれば、そこはもう、あの夜の空間だ。「ちゃんと布団かぶれよ」なんて現実の端っこを見せた彼も、次の瞬間からハンジを攻める男になる。
『ーー目ぇ閉じてろ』
反射的に、パチ、と動くほうの瞼を下ろす。
『上から順に触っていってやる。……まずは額だ。指先を軽く載せろ』
「ひたい……?」
戸惑いながらも、リヴァイの指示どおりに指先を額に置くと、滑らかで湿った肌が触れた。
『汗、かいてるか』
「う、ん」
『お前はすぐに肌が湿る』
ふと過った違和感は、しかし流れるように続くリヴァイの声に押しやられる。
『眉間に中指を置け。そこから鼻を下っていく。……瞼にも指が届くか?』
彼の言うとおり、中指を眉間の少し上、額の真ん中に載せると、薬指と人差し指がそれぞれ左右の瞼に触れた。硬い眼帯の感触は、今はない。かわりに引きつった皮膚につまずく。
『……左の、』
「ん……?」
『いや、ゆっくり……手、下ろしていけ』
リヴァイが指し示すのに合わせて、静かに手を動かす。自分の顔に触れる機会など洗う目的以外になかったハンジは、指先の少ない面積の皮膚で、顔の輪郭をそっと撫でるだけの繊細な触り方に驚いた。肌は興奮のせいかしっとりと潤み、唇は血を溜めて指を弾く。
顎の先をくすぐり、首と頭の境をなぞり、耳で遊ぶ。目を閉じていたおかげで、リヴァイが慎重に、丁寧にハンジをたどる様が浮かぶ。
『気持ちがいいか』
「ーーうん……」
心地よさの端に、彼はこんな触り方も知っていたのか、と黒い染みが落ちる。水を差したくなくて、ハンジはそれを無理やり追いやった。
『指を舐めろ。俺のもんだと思って』
右手の親指から小指にかけての一本一本に、唇で触れる。これはリヴァイの指だ、と思いながら。繊細な動きも難なくこなして見せるのに、ハンジの肌を這うときはひたすら熱くて意地悪になっていたあの指だ。
舌を出し、人差し指の側面に沿わせ、爪の際まで登る。
「は、ぁ」
『丹念にしゃぶれ。この指で全部弄るんだからな』
ぞく、と背筋が震える。一人で触ることも二週間前が久々だったはずなのに、顔貌を撫でられ、言葉で嬲られただけのハンジの体は、あっというまに緩んで開きはじめていた。
人差し指と中指を口の中に招き入れ、ちゅ、と吸いつく。指先が舌の柔さに埋まり、途端に唾液が溢れてくる。
こぼさないようにと注意しながら、粘膜に触れている感触と、触れられている感触の両方で興奮していることにハンジは気づいた。バラバラと動いて自分の口内を犯しているのはリヴァイの指なのに、ハンジの指先の触覚はリヴァイの舌に触れているのだ。
『……柔くて、熱いな、お前の舌は』
「っ!、ふう、く……」
『ああ、口の中まで感じるのか。どこがいい? イイところに先っぽ当ててくすぐってみろ』
言われたとおりに舌を摘み、なぶり。唾液を飲み、口蓋の硬さに触れる。軽く突き入れる動きを繰り返すと、頭の中に、肉とぬめりのまざる音がひっきりなしに響く。それはリヴァイと交わした深いキスを思い出させた。
いつもいつも、行為が始まる前に、まるでこれからのこととはまったく関係ないような唐突さと激しさでハンジの口内は蹂躙されていた。
息苦しくて、身勝手を感じるのに心地良くて、なのに「もっと」と舌を動かしはじめたところで急に舌を引き抜かれた。困惑するハンジをじっと見下ろしながら、リヴァイは何かを待っていたように思う。
どうして、取り戻せない今になって、こんなに鮮明に思い出してしまうのだろう。
『ーー寒いのか?』
まさに哀惜にかられていた相手から、突飛なことを問われて、ハンジは我に返った。
「……え、そんなこと、ないよ……?」
『そうか? 鼻啜ってる音がする』
相変わらず、ハンジの音をよく拾う男だ。感心とも驚愕ともつかない笑いをひとつこぼして「大丈夫」と返すと、彼は納得したらしい。
『上を脱げ』
「……うん」
片手の濡れた指でこわごわとボタンを外しはじめると、そうするつもりもないのにやたらと時間がかかった。下まで外し終わった前身頃を少しだけ左右に開き、電話口の彼に戻る。
「ごめん……遅くて」
『いや、いつも俺が脱がせてたからな』
「……!」
ぼんやりと熱に浮いていた思考が、そこでようやく、先ほどからの違和の正体を突き止めた。
『さて、まずはどこからだったか。思い出さねぇと』
(……どうして)
今まで、あくまで声で繋がる暗闇の中に、ハンジがリヴァイの像を描いているだけだった。そこにいるのが実際に彼だとしても、リヴァイだと名乗らないことで彼は暗中に没したままだった。
それなのに。
『耳から首を下りていくのが好きだったよな?……手、動かせよ』
震える腕を持ち上げ、彼の示した、耳の下からの皮膚を、徐々に下っていく。
『少し押すように触ると、猫みてぇな声あげてたな』
「……ゃ、」
『手を止めるな。触っているのは俺だ』
強い口調でぴしゃりと叩かれて、なのにハンジの体は、再開した動きが与える感触と、リヴァイが確かな像を得た歓喜とでじんわり熱をあげていく。
首筋を指で柔く揉まれながら、胸のはじまりまでを触られるのが好きだった。骨のないところであれば穴も開けられるだろう彼の指が、ハンジの急所を優しく辿るのが好きだった。
その愛撫を、記憶のなかからひっぱりあげる。
「ふ、……はぁ、」
『鎖骨、……しゃぶると、いつも泣いていたが』
(……くすぐったいのに、しつこかったから)
本当によく覚えている、と感心する。
肉体への刺激をもって記憶しているハンジとは違い、リヴァイは何の指標もなくハンジの反応を覚えているのだ。彼の過去に自分の淫らさが張りついているのだと思うと、どうしようもないほど理性が壊れていく。
ハンジはもう、無意識に、彼が舌を這わせた記憶を辿っていた。鎖骨の皮膚を摘むようにして探ると、そこからぞわぞわと泡が生まれ、体の表面を走っては至るところでパチパチと弾けていく。そうしてそれは弾けるたびに感覚を鋭くしていくようで、寝巻きや毛布が触れる感触さえ大きな刺激に変えてしまう。
苛まれるハンジの肌のなかに、一際とがって、強く触れられるのを待っている場所があった。耐えきれず手を伸ばす。
「ひゃ、っん……!」
じわ、と強く走った熱に、ハンジは思わず高く声を上げていた。
『ーーオイ、なに勝手に進んでるんだ』
「だっ……てぇ」
『まったく声が違うじゃねぇか。どこを触った?』
「む、胸の……さき」
返すあいだも、そこを弾く指が止まらない。刺激する前からピンと立ち上がっていた場所は、ハンジの手で胸全体を包んで掌で擦ると、左右に揺れて鈍い快感を生んだ。
「ぁ、ん、……ん 、」
『ああ……そうだ、そこ指や掌で擦ると、えらく喜んでたよな、お前』
リヴァイの指や掌にある、皮膚がすれて硬くなった部分と柔いままの部分は、ハンジの胸の上で動くと変化に富んだ感触を与えてくれた。硬いところで捏ねられて、じんじんと膨らんだ場所を今度は柔いところで撫でられる。そうすると、快感にも幅や種類があるのだとわかるほど、違う良さに溶けそうになる。
リヴァイはいつも大きな掌をめいっぱい使ってハンジの胸を苛んでいた。ハンジの手では少し足りない。寂しさにまた、くすん、と鼻が鳴る。
『……両手、使えるか?』
「……? あ……」
言わんとしていることに気づき、かろうじて持っていた送受器を、首から頭の横にかけてゆるく固定する。うまく置けたそれに頭を少しだけ傾け、ハンジは口の横に近づけた送話口に向かって熱っぽい吐息を吹き込んだ。
「聞こえる……?」
『……ああ。やっと全部で触れるな』
「っ……」
じっくりと時間をかけてできる回数は少なかったが、リヴァイはハンジの感覚の地図を把握するのが上手かった。少しでも『イイ』と感じたところはすぐに覚えられて、当たり前のように次へと活かされた。
『下も脱げよ……言うのが遅かったか』
とっくに濡れていた脚のあいだと湿った下着を指して、リヴァイが大真面目に言う。ハンジは口の中で「ばか」と呟きながら、もぞもぞと裸の脚を毛布の中に晒した。
はあ、と流れ出たため息はハンジのものではなく、電話機の向こうからだ。
『さすがに、匂いはわかんねぇか』
「におい……」
『跨がるとすぐ体が熱くなって、女の匂いがプンプン漂ってきていた。なあ、今もそうか?』
首から額にかけて、かぁ、と血がのぼる。
「よ、よしてくれよ……」
『お前ときたら、どこもかしこも俺のために誂えたようなナリをしていた』
「……そんなこと……」
否定できない。
リヴァイと肌を合わせた時だけ、ハンジは女だった。乳房があって、広い腰の中には男にはない器官があって、柔らかい奥へと誘う道と入口を持っている女。もしそこにハンジという人間の質だけを乗せるならば、彼に触れられるとどんなに我慢してもあっというまにあちこちを決壊させてしまう、そういう女だった。
それに気付けなかった当時の自分が、心底恨めしい。いずれ今と同じ状況になっていたとしても、こんなに拗らせて──終わることはなかったはずだ。
『また何か考えこんでるな』
ハンジの音にしない音さえ聞き取って、声が思考に割り込んできた。
「……そういう性分なんだ……」
『知ってる。だが今は他所のことは考えるな』
日が昇ってからと同じ、ハンジの能力を信じて「考えろ」と言ってくれる声が、今は真逆のことを言う。
線引きを溶かして〝リヴァイ〟を現しはじめた彼は、けれどハンジの名を呼びはしない。それを受け入れるハンジも、やはりそうだ。
──『もしもし、どちら様?』
私たち、誰のつもりで、誰と話しているのだろう。
『俺の手に集中しろ』
「うん……」
ハンジは頷いた。今は、彼の声と手に身を預けたかった。
これで最後だから、と。
つぷ、と沈みこんでくる異物にいつまでも慣れないのは、きっと体を守る上で正しい感覚なのだろう。
たとえ自分の指だとしても、柔らかい粘膜がぴったりと合わさった場所に進ませようとすると、痛みや痺れの予感に体が強張ってしまう。
『……痛いか』
「ん、平気」
『じゃねぇだろ。一回、』
彼が言う前に、指が膨らんだ芽に移動する。
『ーーこっちでイッとくか』
「っう、ん……」
染み出した体液をすくって、このあいだは衣服越しであった場所を、今度は裸のまま刺激する。
あのころを記憶しているリヴァイならば、きっと『ハンジはここが好きだ』と思っているだろう。不思議なことに、彼との関係が自然に消えた後、一人で触ったそこは大した快感をハンジに与えなかった。
だからきっと、ハンジが悦んでいたのはまったき『リヴァイに触れられること』だったのだろう。
今夜は、ちゃんと、彼に触れられている。
『強くこするなよ。優しく撫でろ』
「は、……、ふ」
表面をひたすらするすると撫でて、もどかしい感覚に腰が動く。もう片方の手は胸の上にあって、弾いたり、爪で引っ掻いたり、下への刺激に添える程度のものを繰り返す。
リヴァイはそこの案配がずいぶん巧みで、ハンジが強い快感に自分も彼も見失いそうになると、胸の先に小さくキスを落として「まだだ」と連れ戻したりしていた。
到底及ばない手腕でも、彼を追って動かせば体は素直に思い出す。
指を上下させるたびに血を溜めて凝っていくそこを、耐えて耐えて、ひたすら優しく撫でる。呼吸が荒くなってきたころを見計らって、掠れた声が言った。
『……強く』
「!っぁ、ふ、ふ、ぅっ、……」
許しを得て指の圧を強くすると、待ち望んだ甘さと痺れが一気に脚先へと突き抜けていく。たっぷりと濡れた場所から得た潤滑のおかげで、ぐりぐりと潰す指もひたすらに気持ちいい。
「あ、っ……!」
そう思うまもなく、あっというまに達してしまった。
『イッたな』
「は、っん……うん……」
『手、まだ離すなよ』
そうだ。達したばかりで感覚が尖った芽を再び優しく撫でつづけると、ハンジの体は高いところにいつづけてそこで揺蕩うのだ。
従順に手を動かしつつも、じわ、じわ、とひっきりなしに全身へ送られる熱と疼きが、次第に腹の奥に溜まるにつれ、そこをむちゃくちゃにしたくてしょうがなくなる。
「う、……ぁ、ふぅ う」
背中の汗がシーツに触れて、籠もる熱気も毛布に遮られてどこにも行けない。
「や、ね……もう、入れてもいい?」
『もう少し』
「やだ、ぁ、だめ、がまんできない」
指を滑らせ、先ほどの窮屈さが嘘のように開いたそこへ、中指を潜り込ませる。
「あっ、あ……」
『堪え性のねぇやつだな……ちゃんと濡れてるか?』
「う、うんっ、……ぬるぬるして、る……」
『どれくらい』
「……音、出てる、」
『聞こえねぇよ……オイ、もっとかき混ぜろ』
うん、と素直に返事をして、ハンジはそこをかき回しはじめた。浅いところを引っかくと小さな絶頂がいくつも訪れるようで、なのにそれもだんだん物足りなくなってくる。一番進んだ先で、硬い肉に捏ねられるのを待っている部分が、「指なんかじゃ足りない」と泣いている。
「ねぇ、……」
『なんだ?』
「あなたの……あなたの体は、どうなってる?」
求めるものが明確になった途端、一人上り詰めている体が不安になる。電話の向こうの彼は、冷めた体で過ごしていないだろうか。
『…………たってる』
「どれくらい……?」
『もうぶち込める』
(ーーよかった)
リヴァイの大きな手が支えても、太い幹と力強く張った頭を隠しきれないあれが、ハンジのことを思い描いて、ちゃんと反応してくれている。
「舐めたい、な……」
『……お前な』
大きなため息が聞こえてきたが、それは多分に熱を含んでいた。そこに気づき、煽られ、ハンジは夢現に話し続ける。
「先っぽの穴、舌でえぐって……出たあとも、パクパクしてるところに、舌、当てて……感じるの、好きだったんだ……」
『……ほう?』
「んっ……口の中でぴくんって動くのが、すごく可愛くて……」
後頭部を両手で抑えられて、えずく一歩手前のところでリヴァイに腰を振られるのがハンジは好きだった。抑えられると言ったって、彼が発揮できる力の何十分の一も使っていなかっただろう。
ハンジを傷つけないように、けれど吹き出す欲望を誤魔化すこともできず、板挟みで煩悶しているような彼の顔も好きだったから、眼鏡を外すのを渋っていたら、そのうち彼も外そうとしなくなった。
片手で彼の下衣を握りしめ、引き寄せ、もう片方の手と指で彼の無防備な弱点を攻め続ける。目は閉じず、ひたすらリヴァイの顔を見上げる。涙が流れても、息が苦しくても。
今、彼はどういう表情をしているのだろうか。
思い出すたびにハンジへと訪れていた寂しさは、けれどもう、肉体に与え、また与えられる感覚に埋もれていて今はよく見えない。
それでいい。『他所のことは考えるな』という彼の言葉に従っている。今は、それでいい。
『指、増やせるか』
声に引き戻され、止まっていた指を秘部に潜り込ませる。中指のあとを追って、ハンジはそこにもう一本を足し入れた。
「う、ん……っく」
『キツく、ないか』
「ないよ……」
突き入れては引く動きのせいで、中に湧いた愛液がどんどん外へと漏れ出て、ハンジの脚のあいだを濡らしつづけている。
「音が聞こえてきた」と彼が楽しそうに言った。本当かどうかはわからないが、嘘だ、と言えないほどには毛布の下でぐちゃぐちゃとひどい音が起こっているのだ。
耳元で早まっていく獣のような呼吸と自分の体の中から起こる水音に責め立てられ、ハンジの意識は赤くて熱い海に溺れていく。
『腹側の……はぁ、壁、こすれ』
「うんっ、」
彼の望みどおりに動いて感覚を深めようとすると、体勢を変えなくればならないため受話器が遠くなってしまう。
ハンジは送受器を側頭部で潰すようにして固定し、体を横向け、より深く指が入るように体の向きを変えた。曲げた指先が彼曰くの〝腹側の壁〟によく当たるようになり、快感が切羽詰まったものになる。
リヴァイもここはよく、いっそ楽しそうに攻めていた覚えがある。実際楽しかったんだろう。そう思える程度には、ハンジの反応について彼は子細を覚えていた。
「う、んく く、っ……」
『、イきそうか?』
「うんっ……あなたはっ……?」
問いかけてきた男の声は、ハンジよりよっぽど切迫している。
『クソッタレ……出そうだ』
中にいた指が、ぎゅ、と締め付けられた。彼の喉の震えは、上擦って弱々しくも聞こえるのに、そこに被さる吐息は強く荒い。
「うん……出して……」
グショグショに濡れて、彼を求めて動く場所に。すっかりハンジの感触と温度で統一された中や指は、想像では補えないくらい強く、違う存在を求めている。
『はあ、くそ、一度もそんなこと、言ったことねぇくせに……』
憎々しげに吐かれる言葉が、ハンジの奥を震わせる。
「あっ、あ、だめ、イく……」
『、まだだ、まだイくな』
「やだ、イきたいぃ……」
『なあ、一緒がいいんだろ、……は、』
指先で一番弱いところを撫でて、押して、眼球が熱く溶け出すまま涙を流し、ハンジは必死で喘いだ。
「や、あ、あ、ぁいく、一緒がいい、奥にいれて……ぇ」
『あぁ、出すぞ……くっ』
「ーーっ!」
男の引きつった声に脳を撃たれ、胎内に溜まりつづけていた熱が、とある一点で、パチン、と弾けた。全身が極限まで緊張し、シーツに埋まった片目の瞼の裏で、チカチカと光が明滅する。その発光は、しばらく目の前から消えなかった。
「はー…っ、はぁ……ふ、……」
落ち着くまでにどれほどの時間が経ったのか、わからないほど惚けていた。浅い呼吸と汗だくの肌を意識し、散開した欲が皮膚のすぐ下でちりちりと燃えているのを感じる。
胎の中は、なお余韻に轟いている。
『大丈夫か』
「……うん……へいき……」
『今日は寝なかったな』
淡々と言われたせいで、からかわれているのかもわからない。体を動かすのも、潰れている送受器を引き摺り出すもの億劫で、ハンジはしばらく、汗みずくのままそこに横たわっていた。リヴァイも何も言わず、収まっていく呼吸のやりとりだけが続く。
体温が下がるにつれて、遠くに放り投げていた終わりが目の前までやってきている事にハンジは気づいた。
目的は達した。彼も付き合ってくれた。これ以上、続ける理由はない。
ハンジは体を起こし、ようやく送受器を手に取った。耳にあて、そこに彼の気配があることを確認し、そっと息を吸う。
「……今夜は、付き合ってくれて……、っ」
ありがとう、と。続けようとした声は、喉に迫り上がってきた熱い塊を扉に、どこにもいけなくなった。
どうして、と思う。
どうしてこんなことを望んだんだっけ。
終わりを意識しながら彼と交わりたかったのか。いつのまにか消えていた繋がりを、今度は自分で切り直したかったのか。
過去に囚われないために、断ち切らなければいけないと思っていたのに。その瞬間を迎えてなお、嫌だと叫ぶ自分が恐ろしい。
解放を待つ彼に、なんとか伝えなければと、必死で喘いで、息を通して、ハンジは声を押し出した。
「……あなたが、好きだったんだ」
『っ、』
言ってしまってからようやく、ハンジは理解した。
これは、自分の中で形にすらなれなかった情を、墓に送るための儀式だったのだと。
欠けたもう一つを補おうというのか、右眼からボロボロと涙がこぼれてくる。
「あなたが好きだった。気づくのが遅かった、遅すぎた……何もできなくなってから、こんな……半端に、また繋がって、続けてしまって」
名前のない二人とその関係を守っていながら、けれどハンジは〝リヴァイ〟を求めていた。電話の向こうに、確かに彼を描いていた。
顔を合わせて、熱や感触を感じて、直接声を聞きたいと願っていた。
それができないことはわかっていたはずなのに、隠された怪我を見たあの日、危うく境界を飛び越えそうになった。
ハンジは懸命に、彼との線引きに力を尽くしてきたつもりだった。昼の顔で夜を侵さないように。夜の声で昼を侵さないように。
なのに、何も足りていなかったのだ。そうして、もっと足りなくなる日が近づいている。一日、一時間、一分一秒すべてを兵士に捧げて、それでも足りない日が来る。
おそらく、そう遠くない未来に。
ハンジはそのとき、使命をまっとうできるだろうか。志半ばで死ぬことになったとして、醜く後悔して、彼を、仲間を、部下たちを巻き込んだりしないだろうか。
想像の中でさえ、とても恐ろしい。
失う前に絶たなければならない。自分から手離せば、未練が許されることさえないから、と。
『俺も過去にはお前と同じ気持ちだった』
ハンジの嗚咽のあいだをぬって、声がーーリヴァイが囁いた。
『だが、……今さらわかったところで、それはどうしようもない』
「……っ」
それが正しい。正しいとわかっているのに、通じていたかもしれない互いの過去が、跡形もなく消えていくのだと思うと、身を切られそうなほど胸が痛くなる。
それでも、正しいことなのだ。
ハンジが涙をぬぐって、息を吸った時だった。
『俺は、お前が好きだ。断ち切れるほどの覚悟もない。……だから、好きでいつづける』
「……は……」
被せられた言葉に、思考の一切が消えてしまった。ハンジの感傷を飛び越えて、リヴァイはなおも淡々と宣言する。
『俺はここにいる。お前の隣にいて、必要とされる動きをする。状況において最善だと思う行動をする。この夜が今日限りでも、それを受け入れる。お前に傾かないことで、お前のそばにいつづけると誓う』
器械の向こうから、ハンジができなかった覚悟が流れ込んでくる。到底叶えられるともわからないそれを、リヴァイはやってのけるのだと言う。
「…………そんなこと……」
『できるか、か? さあな。だが、俺は最後までお前の名を呼ばなかっただろう』
は、と息が止まった。
そうだ。リヴァイはハンジの名を呼ばなかった。過去と溶け合って、ハンジが欲に沈んで腹の中を明かした今でさえ、呼ぼうとはしない。どれだけ頼りなくても、それは最後の砦だった。
『なぜだかわかるか? お前が俺の名前を呼ばなかったからだ。それと同じことだ。お前が望む限り、俺はこれからもお前の線引きに協力すると約束する。……互いに、その証明くらいにはなっただろう』
彼はそこにいる。
この線の先に。隣に。必要とされる場所に。ハンジの心臓が鳴る場所に。
電話が切れたら終わり、なんて嘘だ。ハンジの体はまだ余韻に疼いていて、朝までだって感覚を反芻するだろう。言葉も過去も夜も昼も、すべて彼に繋がっている。繋がり続けている。
死なせるのと苦しむのなら、どちらが良いだろう?
フックが鳴る音を聞いて、日が昇って、この部屋を出て、相手に会ったなら。二人は〝リヴァイ〟と〝ハンジ〟として、互いを律しつづけなければいけない。この先、いつになるか分からない先まで、ずっと。
それでもハンジはーー後者を選んだ。死なせることなど、到底できないと気づいたからだ。
「好きだよ、あなたが……今でも。これからもずっと」
『……ああ。俺もだ』
交わした声は、幸福に満ちていた。
名前のない夜の完遂は、二人の情の証明だった。
「あ、兵長!」
廊下の真ん中で滞っていた集団のなかにサシャとコニーを見つけて、リヴァイは「どうした」と声をかけた。一斉に振り向く青い顔の並びには、新兵も何人か混じっている。火急の件かとも一瞬思ったが、服装が完全に掃除のための格好だったので違うだろう、と踏んだ。
「掃除サボって何やってんだ」
「あっあの、掃除中に、部下がこの、これを引っ掛けてしまいましてっ」
珍しく慌てた様子で指されたのは、床と壁の設置面に沿うように這わされていた、皮のケーブル──が、破れた姿だった。
「……こいつは」
「中の銅線も何本か断線しているみたいで……」
「どんな掃除してたんだお前ら」
切れたケーブルの一方を持ち上げると、辛うじて繋がった銅線の一本にプラプラともう片方がぶら下がる。これはダメだろうな、とリヴァイは思った。
「あの、ハンジさん……団長に報告してきます!」
「ああ、待て」
止めたのとほぼ同時に、廊下の曲がり角からハンジが顔を出した。
「リヴァイーいたいた、……って、何やってるのみんなで……」
「ぎゃあ! 団長!」
「申し訳ありません!」
「えっなに!?」
途端、折れて地につきそうになる複数の頭に、ハンジは仰天してリヴァイを見た。片手で千切れたケーブルを見せて、無言で状況を説明する。
「ああ~…千切れちゃったのか。まあ、敷きっぱなしだった私が悪かったね……本来ならこれは壁の中や土の中に埋めるものだから」
「けど、あの……これ、兵長と団長の部屋に置いてある『電話』のものですよね? これで使えなくなっちゃったんですよね?」
ケーブルに目を戻すと、千切れた際に相当な負荷で引っ張られたらしく、隙間に沿ってぴたりと這わせていたはずの長さがたわんで余っていた。距離的に、ハンジの部屋の電話が引っ張られて机から落ちていることだろう。あるいは、接続が外れているかもしれない。
もう一度、ハンジに目をやる。
「大丈夫だよ、心配しないで」
明るい上官の笑みを浮かべながら、彼女は言った。
「彼ならいつも隣にいるから、ね」
〈了〉
(初出 19/12/22)
(更新 25/09/05)